第18話 ミス嵯峨北高校

法導寺から帰ってからも、遼はそこでの学習メニューを踏襲し、三日間は自分でも満足の行く出来映えだった。が、四日目から如何ともしがたい状況がもたらされてしまった。お邪魔虫が元気よく、二泊三日の能登旅行から帰館したのだ。祖母と母は疲れがピークに達し、化学の平衡さながらの状態が続いて蒲団から容易に離れられないのに、愛はファーストメニューの数学をこなす兄の部屋へ上がってきて、

「お兄ちゃん、入っていい?」

 早朝から、遼に入室同意を求める。

「ダメだよ。いま、お兄ちゃんは勉強中だから」

 遼が机からクギを刺すと、

「はい、分かりました」

 聞き分けの良い返事が口から漏れるが、妹は階段を下りず、部屋の戸口でじっと待っているのだ。結局、遼が根負けして、

「入っていいから。でも勉強のじゃまをしちゃダメだよ」

 と、声をかけてしまう。

「はーい」

 満面笑みで部屋へ入った愛が、邪魔をせずじっとしている訳がなく、

「ね、お兄ちゃん。いましてるお勉強、難しいの?‥‥‥。ね、この字、なんて読むの」

 好奇心のかたまりへの認識の甘さ。遼はすぐ気づかされてしまうのだった。

「もう! 愛ちゃん!」

 娘の逃亡を発見するたび、照子が小走りで二階へ駆け上がり連れて下りるが、愛には楽しいお遊びで、母とのイタチごっこであった。六歳になって十日足らずの愛に、兄の置かれた容易ならざる状況など理解できるはずがなかった。結局、我が家からのエスケイプがベストポリシーで、逃走先は楠田の部屋だった。三国丘高校も目と鼻の先にあり、勉学効率上昇は確実であった。電話で了解を求めると、

「こっちこそ大歓迎や。ここしばらくちょっとダレ気味やったんや」

 楠田は声を弾ませ、喜んで受け入れてくれたのだった。収容先のOKが出ると、次の問題は足。ゼロ半のベンリイS50で堺まで通うのは、母の反対を待つまでもなく、危険と時間がかかりすぎて問題なく没であった。二者択一の一方が消えると自動的にJR乗り継ぎ路線に決まってしまい、遼は阪和線百舌鳥駅下車、徒歩で九時前に楠田宅へ着くと十二時までの三時間を数学に当てた。法導寺でのサイクルを維持し、転入試験に臨む決意だった。

 国立附属でトップを取るだけあって、勉学に対する楠田の気迫は生半可でなく、背中を向けて座る遼までもビリビリッと電磁波の射程に入る。居合いを放つときの、鬼ちゃんさながらのオーラであった。

 方法論は正攻法、楠田の取る解法パタンはすこぶるシンプルだった。原則重視、あくまで原則重視なのだ。例外は、例外個別潰しとでもいうべきパタンだった。

「医学部へ入って脳外科医になろと思てんやけど、旧帝大の医学部は難関で、あほほど入りにくいやろ。信じられんくらいの量、詰め込まんとあかんのやから、頭の負担を出来るだけ軽うしたいんや。そやから原則をマスターして、あと少数の例外だけ特殊な解法パタンを覚え込もうと思てんや」

 昼の休み時間、雑談の中で苦笑しながら打ち明けた。方向性ある対処法に乗せず場当たり的にやってしまうと、結局おかしな方向へ行って墓穴を掘ってしまう。経験から得た教訓だと、楠田は照れながら頭をかいた。

「与えられた課題に対して、拠るべき基準という意味の〈はかり〉を持たなアカンと思うんや。そうでないとエエ加減な解決しか出来へんやろ。問題はその〈はかり〉やけど、応用の効く出来るだけ柔軟なもんがええんとちゃうか。数学の解法や英語の勉強やと、原則を押さえ例外を覚えるっちゅう、〈原則―例外パタン〉がベストなんちゃうかな」

 受け売りなのか、いつの間にか楠田は予備校講師の解説口調になってしまい、遼に納得させるだけでは覚束ないのか、自分も受講生になって、うん、うん、と頷くところが可笑しかった。

 名付ければ〈八幡さんキャンプ〉ということになって、八幡さんと縁の切れない楠田宅での勉強会だが、昼食は楽だった。母自慢の愛息弁当持参。買い出し・調理・片づけなしなのだ。昼の休み時間も、法導寺の倍はひねり出すことが出来た。八幡さんの境内散策はいうに及ばず、府立大学のプールへもぐり込みチャッカリ泳いで帰るゆとりすらあった。楠田家宿泊も一度ならず、再三再四。そんな日は、朝と夕まで超余裕のラグジュアリータイムだった。

 八幡さんの境内を並んで散策していると、捕虫網片手に伊勢寺を訪れた日々が甦ってくる。ほんの数年前の高槻での日々なのに、何十年も経過しているような錯覚に陥いるのは、少年期に別れを告げ、大人への境界人としての青年に差しかかっている証左であろうか。無邪気にセミと戯れる子供たちを見ていると、寂しくなってくる。何か大事なものを無くしながら、大人に近づいて行く。自分も確実に、そんな道を歩んでいると思った。

「‥‥‥昔は良かったなぁ。大きうなるにつれて、だんだん心が汚のうなっていくわ」

 並んで歩きながら、楠田もよく溜め息を吐いた。親友にさえ打ち明けられない深い悩みを抱いているのか、時折見せる横顔が、心の内を雄弁に語っていた。

 就寝時、蒲団を並べ人生についても語り合い、勉学に勤しむだけでなく、楠田と空手にも励んだ。時間を捻りだし、中型バイクの免証も取得。遼はこの夏、こんな神業もやってのけてしまった。本当にすばらしい夏だった。向上心に燃える友と過ごす日々は、遼の胸に充実した思い出を刻みつけながら、予想をはるかにしのぐ学力の向上をもたらしてくれたのだった。

 ―――もう、思い残すことはない!

 これ以上、いったい何を望めたであろうか。転入試験に臨んだ遼の、偽らざる心境だった。

 当日、嵯峨野北高校へ出かけ事務室に立ち寄ると、先日案内された応接室に通された。母のアドバイスと寸分違わず、やはりこの室が試験場であった。すでに先客が一人、長髪の男子生徒が机についていた。学年は遼には知る由もなかったが、一目見て受験生と分かる緊張した面持ちであった。やせた神経質そうな顔を上げ、遼を一瞥したが、目が合う前にすぐ俯いてしまった。

「それじゃ、始めてください」

 副校長の合図で、数学のテストが九時から開始された。出題は四題だった。制限時間は五十分。いずれも基本問題だった。基礎、発展、応用の三つに分けると、基礎が二問で、発展が二問、応用問題はなかった。四問目の〈式と証明〉で若干手こずったが、時間内に正解に達したので数学で落とされることはないだろう。

 十分間の休憩を挟んで、十時から英語のテスト。これも基本的な英文法と長文和訳がメイン。発音と英作文がハイレベルといえたが、奇をてらわない良問の部類に属するものだった。

 英語が終わったとき、遼は一度、トイレへ立った。尿意を催した訳ではないが、緊張の中、二時間も座るとさすがに頭と体が疲れて、軽い動きが必要であった。

 最後の国語は、古典はよく出来たが現国は余り自信がない。が、大きなミスはしなかった、‥‥‥と思う。十一時五十分に室を出ると、母が廊下で待っていた。もう一人の受験生は両親が来ていて、不安顔の息子にそろって駆け寄ってきた。

「どうだった? 実力は出せた?」

 照子も遠慮がちに、息子の顔をのぞき込んだ。

「まあまあ」

 相も変わらず遼の返事は愛想がなく、自信が有るのか無いのか、照子には判断しかねるものだったが、学校側の好意的対応から不合格の不安は不思議なほど湧かなかった。

「どうぞ、こちらへ」

 別室に招かれ、母同伴で三人の先生との面接を受ける。簡単な質問で、ここでも返答に窮することはなかった。

「さあ、やっと終わったね、遼。今日はご苦労様。食事にしようか」

「うん。ありがとう。そっちこそ、ご苦労様」

 二人は軽やかな足取りで、口元に微笑を浮かべ先日入ったレストランへ向かう。三時に合格発表があるが、それまで食事と時間潰しをする必要があった。

 母の説明によると、合否発表までの手続きは次のようなものだった。まず出題者による採点が行なわれるのは当然のことで、数学と英語はすでに終わっているだろう。国語の採点が十二時半くらいに終わると、その結果を基に委員会が開かれる。調整委員会、企画委員会、運営委員会など、呼称は各高校で違うようだが、ここで実質的な審査がなされ、それを職員会議にかけて最終判断、という経過をたどる。

 レストランで当店お勧めメニューの〈京料理風、嵐山ステーキ〉、名前は和洋折衷だが生粋の洋食を食べ、それが済むと二人は風に涼みながら桂川の川べりを歩く。観光客や若い恋人たちと違って、気を揉みながらの散策は疲れるのか、渡月橋近くまで来ると、

「ね、遼。コーヒーでも飲もうか」

 照子がうっすらと汗のにじむ顔で誘った。

「そうだね」

 ゆっくりと界隈を散策したつもりだったのに、発表までまだ一時間近くあった。二人は時間潰しと避暑を兼ね、渡月橋からすこし離れた、小粋な喫茶店へ入りコーヒーを注文する。

「―――おいしい」

 嵐山を見渡す、クーラーの効いた窓際の席で、照子は運ばれてきたコーヒーを一口味わい、息子に微笑みかけた。夫の入れてくれる、ブラジルとブルーマウンテンの絶妙ブレンド〈ブラマン〉に味は遠く及ばないが、香りが良くて、フレーバーという形容がぴったりの癒し系だった。

「さあ、そろそろ行こうか。‥‥‥間もなく運命のときね」

 三時二十分前になると、照子が腕時計に視線を落としたまま目の前の息子に促す。緊張が込み上げてきたのか、声が少し上擦っていた。

 駅前でタクシーを拾い、北高へ着くと三時前だというのに、副校長が待ち兼ねた様子で事務室前に立っていた。

「どうも、おめでとうございます。―――良かったね」

 笑顔で祝福を送りながら近づいてきて、二人に合格を告げる。もう一人の受験生は不合格だった。人生の悲喜こもごもと言ってしまえばそれまでだが、〈悲〉が回ってきた彼には残酷な事実で、この先どうするのかと他人ごとながら気になって、母のように手放しで喜ぶことは遼には出来なかった。

 九月一日の始業式はバイクで行くか電車にしようか若干迷ったが、結局、電車を選んだ。晴れた日のバイク通学は両親の同意を得ていたし、これまで二度、神明峠を越えて北高近辺まで走行し、バイクの状態と所要時間を確認した。

 遼の新しい足は三十八年前製造の、ホンダドリームCB三五O。学生時代、父が愛用していたもので、愛着があって捨てられずに置かれていたのが幸いした。ガレージの片隅に眠る骨董バイク、子供の頃からの遼の印象であったが、どうして、どうして、チューニングとオーバーホールを丹念に加えると、力強いエンジン音がガレージに響き渡った。

 所要時間もスピードを控えて二度とも一時間十分を切り、〈電車と歩き〉より一時間弱のお釣り。これも計算通りで、バイク通学優位は動かし難い事実であったが、初日くらいはまともに行こうと思った。

 遼のクラスは既に一年五組と決まっていた。担任は堀井先生で、化学担当だった。当日は朝六時に家を出て、照子の運転で阪急富田駅へ向かった。

「転校の挨拶、しっかりね。それと、担任の先生によろしくね」

 ハンドルを握りながら、母は上機嫌だった。

 桂駅で乗り換えた嵐山線も三度目の乗車で、緊張は薄れてしまったが、乗降する女生徒の笑顔が新鮮だった。

「嵐山ー、嵐山ー」

 終点のアナウンスに促され、嵐山駅を降り渡月橋を渡って学校まで歩くと結構な距離で、三々五々、連れ立つ仲間たちに合流し校門をくぐったときは、八時三十分を少し回っていた。職員室へ寄り、堀井先生を訪ねると、

「面接のときに会ったから、顔は覚えてると思うけど、名前は堀井孝雄というんや。よろしく頼むわ」

 挨拶した遼に、髭面に似合わず、面接のときと同じく愛嬌笑顔とカン高い声が返ってくる。彼は生徒たちにQちゃんと呼ばれていた。

「どうせ分かることやから、先に言っといた方がいいやろ」

 苦笑しながら遼にニックネームを打ち明けた。苦労人らしく、新参者への配慮が伝わってきて、遼は五組のムードが何となく分かった気がした。

 十分余り雑談して、連れ立って廊下奥の階段を並んで上がる。背の低いQちゃんの横を歩いていると、生徒たちが珍しそうに遼を見つめていたが、情報電波は電光石火の速さであった。教室内の生徒もナダレのごとく廊下へ出て、新入生に声援を送る。想像以上に自由で朗らかな高校だった。

 ―――何て楽しいんだろう!

 女子がいるというだけで華やいで、こちらまで浮き浮きしてしまうのだ。廊下を歩きながら、遼の目と口元が自然とほころぶ。

「こら、こら。やかまし言うてんと、早よ教室に入りや」

 Qちゃんが生徒たちをたしなめると、

「はーい」

 女子のなごやかで素直な返事が返ってくる。時折、

「Q・Pハゲ」

 などと言う不謹慎な声が声援に交じることがあるが、どことなく愛嬌がこもっていた。すでに担任が入っているクラスもあったが、廊下側の窓は全開なので、よくいえば遼は花道を歩くスター、悪くいえばもちろん、完全な晒しものであった。サッカーの試合で慣れてはいたが、久しぶりのステージ復帰に少々上がってしまい、廊下の奥の五組に着いたときはさすがの強心臓男もほっと安堵の溜め息だった。

「静かに、静かに! ―――し・ず・か・に。転校生を紹介するから、ちょっと静かにしいや」

 五組の生徒たちの歓迎も児童の如き爛漫さで、Qちゃんの呆れ顔でようやく教室が静まったのだった。

「大阪の清嵐高校から転校して来た、草野遼君や。仲ようしたってや」

 可笑しいほど静かになった教室を見回し、Qちゃんがおもむろに遼を紹介する。

「君もひとこと挨拶しいや」

 サイレントポケットはすぐ消滅してしまうのだ。中年教師の的確な読みで、紹介が済むとQちゃんは畳み掛けるように遼に自己紹介を促す。

「はあ」

 頭の後ろに右手を当て軽く頷いてから、

「草野です。どうぞよろしく。これから半年間お世話になります」

 緊張が途切れたのか、ポロリと口から本音が漏れてしまった。

 ―――しまった!

 と思ったが、生徒たちもQちゃんも訝る様子はなかった。半年後に再び転校するような、そんな変わり種は想像の枠外なのだ。

「エーっと、何処に座ってもらおうかな‥‥‥」

 Qちゃんは思案顔で教室を見回していたが、窓際から二列目の最後の生徒に目を止めた。

「秋本の横にしようか。そやな、窓際の一番後ろに机を持って行ってもらおうか。ちょっと寂しいけど、あそこが一つ空いてるから、ちょうどエエやろ」

 遼に視線を戻し、廊下に置かれてある机を指示した位置に持って行くよう伝える。

 紹介されている間、遼は例のごとくクラスの生徒たちを値踏みしていた。まず男子のそれは腕力を量る。クラスで一番強そうな生徒を見切るのだ。そして彼は、Qちゃんが指示した秋本という女生徒の、二列横の席にいた。視線が合ったとき、大袈裟でなく、バチッ! と弾かれる反応が返ってきた。不適な面構え、鍛え上げられた頑丈な骨組み、いずれをとっても、このクラスのナンバーワンだろう。

 ―――いつかやらねばなるまい‥‥‥。

 挑むような目を見ながら、遼は確信したのだった。

 一年五組でもう一人、遼の目を奪ってしまった者がいた。Qちゃんに秋本と呼ばれた女生徒だった。五組は美人クラスで、かつての高槻山手中三年四組を彷彿(ほうふつ)させたが、彼女らの中でもひときわ目立つのが秋本だった。顔は丸くはないが、かといって長いというわけでなく、ちょうど良い形だった。髪はセミロングで、波打つストレートが爽やかだった。時折、遼を見つめる顔が笑うと、その都度、右の可愛い八重歯と大きなえくぼがのぞいた。口を閉じて笑顔が消えると勝ち気な性格が窺えるが、笑うと朗らかで愛嬌のある顔に変わってしまう。まるで遼を楽しむように、首をかしげて笑顔を向けたり、澄ましたりしていた。色白の顔は亡くなった大林可奈子にも、恐らく引けを取らないだろう。それほどの美形で、笑うとぽっちゃりした可愛い顔になるが、澄まし顔はまぎれもなく美人顔だった。

 遼の席が指定されると、

「エー! 保津水(ほづみ)の横ー?!」

 クラスの女子からブーイングが漏れる。名前は保津水というらしい。

「何よ! 文句あんの!」

 秋本保津水も負けていなかった。プーとふくれっ面を向けて、教室の女子を見回している。彼女らのやりとりが可笑しくて、遼は苦笑いを浮かべながら廊下へ出ると、後ろの入り口から机を運び込んだ。椅子も持ってきて席に着くと、

「よろしくぅ」

 秋本保津水が遼に向き直って、にっこりと笑う。末尾を上げてしゃべる癖と、あごをクィッと小さく横に振り、首をかしげてしゃべる仕草がとても可愛かった。

「こっちこそ」

 遼が照れながら答えると、

「保津水って、変な名前でしょ。母が水尾生まれで保津峡が大好きなの。東京で生まれたんで、故郷を懐かしんで保津水って付けられたんだけど、迷惑と思わない? 私は、久美子っていう名前を付けてほしかったんだけど、‥‥‥まあ、いいか。ところで半年間って、半年たつとまた転校しちゃうの?」

 保津水は鋭い疑問をぶつけてきた。きっちり聞いていたのだ。

「いやぁ、そういう意味じゃぁなくて、まあ何というか、半年って何となく分かりやすい気がしたんで」

 支離滅裂で答えになっていないが、新参者への思いやりなのか、それ以上の追及はなかった。

「どこへ越してきたの?」

「水尾の外れの―――大阪から来たら、一番初めの家なんだけど‥‥‥」

 田中氏の住所を口に出そうとするが、いい加減なもので、遼は正確には覚えていなかった。

「じゃあ、私んとこの反対なんだ。私も六年のとき越してきたの、東京から。―――で、前の高校は公立なの? それとも私立だったの?」

 保津水は遼に興味津々で、矢継ぎ早に質問を投げかける。

「おい、こら、秋本。あんまししゃべってんと、先生の話聞きや」

 Qちゃんのお叱り声が、遼には天の助け舟だった。

「そうや、そうや」

 追随する女子の合唱。

「はーい」

 今度は保津水が折れてQちゃんに素直に従う。遼を横目で見ると、首をすくめ舌を小さく出して笑った。

「今日は始業式でこれで終わりやけど、じきに実力テストがあるんやから、手抜きしたらアカンで」

 明日以降の伝達事項を述べて、Qちゃんが始業式終了宣言を発すると、北高での一日が終わり、ワイワイ、ガヤガヤと皆が帰り出す。清嵐と同じで、なごやかで解放感あふれる雰囲気はどこへ行っても変わらなかった。

「ふぅーっ」

 北高での、遼のファースト・デイがこれで終了した。後は駅前のチャリ置場へ寄り、先日頼んだバイクの預かりをもう一度確認して、今月分の預かり料を払えばよい。そう思って正門を出ようとすると、

「草野クーン」

 秋本保津水が朗らかな笑顔で駆けてくる。

「一緒に帰ろうか」

 遼に追いつくと、息を弾ませて保津水が誘った。

「‥‥‥うん?」

 立ち止まって怪訝な顔を返すと、

「だって同じ水尾だったら、保津峡駅で降りるんでしょう? だったら、同じ駅だから」

 保津水は屈託がない。

「いやぁ、今日は初日なんで、いろいろ見ておこうと思って。それに、用事もあるんだ。ええっと‥‥‥」

 並んで歩きながら、遼の言い訳はぎこちなく、教室の再演であった。

「そうね。明日の準備もあるでしょうから」

 〈敵に塩〉でもあるまいが、保津水が助け船を出してくれる。

「そう、買わなきゃいけない物もあるんだ」

 遼はポケットからハンカチを出して額に当てた。

 ―――大阪から通っているのがばれるとまずいのだが‥‥‥。

 いつか秋本にバレそうだ。そんな不安が汗の元。

「それじゃあ、俺、ちょっと見ておきたい本もあるから」

 書店の前で保津水に告げると、遼は店内へ逃げ込んだ。

 ―――危ない、危ない。

 マドンナを忘れさせるほどのいい女なのだ。だからよけいお近づきになりたくない。いい女に、おまけにいい高校。遼の野望をくじくには、これ以上の材料はないと思えるほど、魅力的な二つの誘因であった。

 ―――死に物狂いで勉強して、三国丘への転入を果たすぞ! 

 そのためには絶対トップにならねば。父の嫌う言葉を力強くつぶやき、遼は悲壮な決意を書店の奥で確認する。当然のことであるのだが、新参の遼には、彼の前に立ちはだかるトップの生徒が他ならぬ保津水とは知る由がなかった。これから数ヶ月、彼女を抜くために遼は苦しみ抜かねばならないだけでなく、それから先も心の葛藤に悩み続けることになる。今、書店の前で別れた女生徒は、遼にとってそれほどの存在であった。

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