第10話 親友の恋人
始めがあって、終わりが来る。世の常のようだが、そうとばかりもいえず、開始即、終了。始期と終期が同時に訪れるという事態も稀ではなかった。高校初の定期テスト―――中間テストも、一部の生徒にとっては最初で最後の定期テストになる公算が高いものだった。中退か卒業へ漕ぎ着けるか、第一関門が一学期の定期テストといっても過言でなかった。適応できない生徒にとって、五月病のピークに〈グサリ!〉とくさびを打ち込むのが五月末の中間テストなのだ。八組ですでに二人、テスト辞退者が出ていた。クロコティーチャーのマインドコントロールが奏効していて、この有り様である。他クラス、いや、他校における中退者は一体いかばかりかと、遼は他人ごとながら心配してしまう。それほど中退者の増加は、高校関係者はいうに及ばず、深刻な社会問題になっていた。
中退予備軍にとり踏み絵といってよい中間テストであるが、幸いなことに今の遼には中退は別世界の現象で、意識にすら上らず、五月二十六日の現国と生物で高校初の定期テストが無事終了した。自分でも感心するほど、遼はよく勉強した。高校入試直前の、一ヶ月あまりの日々と較べても遜色がないといえるものだった。
血ヘドに血涙。振り返れば過激でもない表現であるが、あれほど心血を注いだサッカーに未練がないといえば嘘になるが、サッカーから離れることで得られるメリットも分かり出してきた。サッカーを続けていれば試合と練習に追われるサッカー漬けの毎日で、勉学に打ち込む余裕などなかったろう。拘束のないフリータイム、春休みに体験したときは持て余し気味だったが、創造的精神活動にとってどれほどの恵みを生み出してくれることか。目的が芽生え出した今、遼は目を見張る日々であった。
家族との接触機会の増加、これも成人への移行期にある青年に情緒面の発達を促し、人格形成に資するものだった。遼は母や愛とジョギングしながら、彼女らの弱さをいたわる優しさを身につけたし、二人を待ちながら、道端に人知れず咲く可憐な草花に感動することも覚えた。もっとも優しさと感動はいつも一人の女性と背中合わせで、彼女なしには存在しえぬと思われるほど強く結びついていた。母や愛の弱さに気づくと、可奈子の涙の顔が瞼に浮かんだ。あれほど生きたいと願っていたのに、自分はどうしてやることも出来なかった。泣きながら自分の胸にすがりつく可奈子を思い出すたび、遼は抑えようのない後悔と無力感にさいなまれ、絶叫と激しい震えに襲われるのだった。
中間テストの答案はテストが終わった翌日の木曜日から返却を受けていたが、金曜日には各人の校内順位表も手元に渡った。遼は総合得点が学年で九位。英文法と現国、数Aが学年でトップだった。
―――俺もやれば出来るじゃないか。
渡された順位表を見て、遼の頬が緩む。
「エー、うちのクラスから、草野が学年で十番以内に入ってくれたさかい」
クロちゃんがうれしそうに目を細め話し始めると、自分の順位表を見ていたクラスメートたちが一斉に顔を上げて、
「へぇー!」
遼に驚きの視線をそそぐ。床田を負かして以来、遼は八組のリーダーに祭り上げられていたが、古式ゆかしき表現を借りると、文武両面で遼は八組のトップに躍り出たのだった。
「ともかく五十番以内にドンドンうちのクラスのもんが入ってくれると、ワシも鼻が高いさかい。がんばってや」
クロちゃんが独特の垂れ目笑顔でいつものようにハッパをかける。
「草野。お前、エライやっちゃな。どないしたら、そんなエエ成績取れるねん。おまけに男前やし。しかしこれは不公平やぞ! 俺は許せんぞ!」
隣席から北川がやぶにらみ笑顔でつっこみを入れ、皆の笑いを誘う。
「ここ、ここ」
遼は北川を見ずに、苦笑しながら自分の頭を指差した。ガタ落ちの級友に、脳ミソの差だと皮肉ったのだ。
「オーオー! そこまで言うんか。そうや、どうせ俺はアホやよ」
北川は口を尖らせ僻んでみせる。上がる者もいれば、当然、落ちる者もいる。方向性を失ったまま、北川は再起不能なまでに落ち込んでいた。
―――うまく行けば、年内に学年で一番になれるかも知れないな‥‥‥。
ちょっとしたキッカケで勝機が訪れ、試合が右にも左にも転ぶ。サッカーで経験済みだが、漠然と目標を描いただけで、これほど強い心の張りが生まれるものなのか。湧き上がる自信と手応えに、遼は一人ほくそ笑んだ。
その日、ホームルームが終わって教室を出ると、九組の東が廊下で待っていた。クラスは違うが妙に気が合う男で、三度の飯より女と喧嘩好き、もちろん勉強は大嫌いだった。性格も、チームメイトだった野川と栗田に瓜二つ。スパッと竹を割ったようにシンプルで飾りがなかった。
「おう、草野。今日は天王寺まで一緒に足を伸さへんか」
ドアから出てきた遼を、えらの張った八の字眉笑顔が呼び止めた。
「うん?‥‥‥」
怪訝顔を向けると、
「天王寺界隈で女引っかけようや。四天王寺さんの境内へ寄るのもエエで」
けれんみのない東の返事が返ってくる。遼が苦笑いをかえすと、
「草野、お前いてた方が、女引っかけやすいんや。何せ、俺のこの顔じゃ、女が寄って来よれへんからな。ホンマ、親を恨むで。な、ええ方、お前に回すさかい。ええやないか」
遼の意思などおかまいなしだった。テストも終わり、解放感に浸りたいのか、今日の東は執拗であった。
「そうだな」
熱意にほだされ、遼も苦笑しながら頷いた。ジョギング中止で、愛のふくれっ面が気にはなったが、四天王寺の境内を一度、訪れてみたかった。
「ここから南は俺の縄張りや。俺がエスコートするからな」
得意満面笑顔の東と並んで、通用門を出て下町通りを選んで歩いていく。商都大阪の中心に、下町情緒溢れる町並が残っていた。軒が頭に触れんばかりの細い裏路地の石畳。人情味溢れる生活の匂いが漂っていた。利便と引き換えに、ほとんどの町がなくした、あの素朴な暮らしが息づいている。北摂の住人には、初めて歩く夕陽ヶ丘、上町台地だったが、歴史の深い営みを肌で憶え、ふと立ち止まっては、いにしえの人たちの暮らし振りを垣間見る思いであった。この日を境に、時折、一人で天王寺駅まで歩くことになったバージンロードであるが、三十分近い道のりも苦にならなかった。もっとも、今日は気ぜわしい男と一緒だった。
「草野。長いこと歩かせてスマンけど、もうちょっとの辛抱や。市バス代浮かそ思て俺もよう歩くんやけど、何や懐かしい気分に浸れる結構エエとこで、そんなオモロナイとことちゃうやろ。それにもうじき四天王寺や」
四天王寺の境内に近付くにつれ、東の目がキョロキョロと、行き交う女子高生を窺う物色目つきに変わってしまった。
「ふぅーん‥‥‥」
賑やかな中にものどかさ漂う、遼にとって初めての四天王寺さんの広い境内。参拝と池の亀に笑顔を投げ終え、遼はゆっくり境内の散策を決め込むつもりだった。もっとも、東は本領発揮の素早いアタックで、即、目的達成。驚嘆すべき成功率であった。石畳を歩きながら遼がまさかの視線を投げると、藤棚の下で二人の女子高生をゲットし、こわもて笑顔で談笑していた。
「おーい! 草野」
東に呼ばれ藤棚近くまで来た遼は、振り向いたショートカットの女子高生に笑顔がこぼれた。ともに高槻山手中の卒業生と元生徒だった。一人は夏休み前に転校した小柄な小山千秋。他は四組卒のホクロ美人山野美代子だった。遼が一緒だったので、誘いに応じたと苦笑しながら打ち明けた。
「ほな、行こか」
鼻の下をデレっと伸ばした、ニヤケ笑顔の東に促され、四人並んで繁華街の人混みを天王寺駅まで歩く。途切れることの無い長蛇の列は、人いきれと飛び交う会話がかまびすしいが、気さくな大阪人の気質とエネルギーに溢れ、遼は微笑ましかった。
「な、ここから別行動にしよや。俺らは天王寺公園まで、ちょっと足を伸ばすわ」
駅ビル構内に着くと、東は山野と目配せし、遼と小山に笑いかけた。カップル誕生で、寄り添いながら、公園に通じる地下道へ消えて行った。
「遼君が公立落ちるとは、夢にも思わへんかったわ」
二人が地下へ吸い込まれるのを待ちわびるかのように、小山が遼を見上げた。返事をせずに、遼が顔をしかめると、
「やっぱり内申の操作やね。皆そう言ってるもん。遼君の内申、谷林君とこへ行ったって。そやけど、やらしいね。重山先生て」
笑顔の可愛い小山が口元に蔑(さげす)むような仕草を浮かべたが、急に大人びた風情が醸し出て、遼は小悪魔的魅力に驚いてしまった。分かったようでいて分からない。女は未知の生命体なのだ。
「済んだことをくよくよ考えても仕方がないから」
遼は小山の話題に乗りたくなかった。苦笑いを浮かべ、正面の券売機へ歩いた。新しい目標を設定したのである。過去のしがらみは〈断つ!〉が最善。次善は〈忘却〉、意識下に閉じ込めるのがベターポリシーなのだ。十五歳の若輩であるが、サッカーで辛苦をなめてきた身には、チェンジ・マインド、セイ・グッバイのタイミングの読み切り。磨ぎ澄まされた感覚がようやく復活して、春休みの泥沼状況からの脱却が果たせつつあるのだ。
「エライわぁ。やっぱり女の子にモテただけあるわ。私なんかとてもそうはいかへんもん。実力で公立落ちたのに、いまだにウジウジ考えてんのよ」
小走りで追いつくと、小山は改札前で遼を見上げ肩をすぼめた。
―――単に意味が無いから考えないだけなのに‥‥‥。
誉められるほどのことでないと思う。が、この割り切りが精神の安楽保全にいかに重要か。遼は笑顔を返し、自分の方が少し大人だと実感した。
「‥‥‥私。遼君と可奈ちゃんのこと、知ってるんよ」
ガラ空きの環状(線)外回りに腰を下ろすと、小山はぎこちない笑顔で隣席から遼を見上げた。
「うん? ‥‥‥」
突然、可奈子の名前を出され、遼は返答に窮してしまう。
「ほら。私、可奈ちゃんと無二の親友やったから。可奈ちゃん、私になんでもしゃべってくれたんよ。夏休み前に私、千里ニュータウンへ引っ越したけど、ずっと友情は変わらへんかったから」
遼を見つめる瞳が封印を解く決意を映していた。
「私も皆のうわさからAかBくらいまで行ってると思ってたけど、可奈ちゃんにエッチまでしてる言われて、びっくりしたわ」
周りに誰もいないのに、小山はあたりを気遣うように声を落とした。さすがに恥ずかしいのか、俯いて赤くなっている。
「週に二回も、離れの部屋で会ってる言うんやから。私なんか、それ聞かされて全然、勉強手に付かへんかったわ」
俯いたまま、人差し指を紺の革カバンに這わせた。
「そやから私、可奈ちゃんのこと、あんまり可哀相や思わへんねん。十分ええことしたんやから。どっちかいうたら、うらやましいくらいやわ」
ゾクッとする艶かしい顔で、小山は遼を見上げた。挑発まがいの言動だが、おいそれと乗れなかった。可奈子の無二の親友で、一部始終を知られていた。どのツラさげて小山を抱けばよいのか。
「それはそうと、学校は面白い?」
遼はエスケイプを決め込んだが、話題が余りにもトンチンカンだった。
「学校? 面白いわけあらへんわ。女ばっかしやし」
話の腰を折られ小山はふくれっ面を向けたが、沢中千鶴と違い、素直というかあどけなさが残る小山だった。引き際も子供っぽくて、可奈子の話題は途切れてしまった。
「ただいま」
普段より一時間半近く遅れて帰宅すると、母と妹は祖母を伴い、祖父の病院へ出かけ不在だった。庭の石燈籠から合鍵を取り出し、ダイニングへ直行してテーブルに夕刊を広げていると、
「お帰り、今日は遅かったのね」
愛は離れの祖母宅なのか、母一人、勝手口のドアを開けた。
「ねぇ、中間テストの席次、もうそろそろ出る頃じゃない?」
気になるのか、母は探りを入れてきた。
「うん。九番だったよ」
遼はさり気ない。
「クラスで九番か。なかなか頑張ったじゃない」
水道の栓をひねりながら、母は上機嫌だ。
「学年だよ」
誤解の訂正も素っ気無かった。
「‥‥‥えー! ちょっと。ね、九番って、学年で九番だったの!?」
「そうだよ」
新聞に目を落としたまま、遼は顔を上げなかった。学年九番くらいで舞い上がり、母と調子を合わせるようでは先が見えてしまうのだ。
「すごいわねぇ。成績表、貰ってるんだったら、お母さんにも見せてよ」
濡れ手をエプロンで拭きながら、照子は息子を急き立てた。父の容体がはかばかしくなく沈んだ一日だったが、遼が暗雲をかき消してくれた。
「高校で一番になって、ちゃんとした大学に入るから」
夕食時、遼が向かいの席から笑顔を向けると、照子は感極まってハンカチを目に当てた。中学の担任の不正も忘れられる。中国の故事にたとえれば、まさに塞翁が馬の心境であった。まさか、翌日出会う女生徒が息子に転校を決意させ、たった一人うねる時化の海に漕ぎ出させようなど、その夜の照子に思い致す術など、有りようが無かったのだ。
翌朝、遼がカバンを肩に、三年間愛用のスポ・チャリに股がると、後ろタイヤがぺしゃんこだった。小釘が刺さったままの、如何ともしがたい状況だった。ガレージ奥のミニ・チャリを今朝の足に借用したが、ホームに降りるのと、快速のマイトレ(マイ・トレイン)発車が同時だった。
「くそっ!」
余程ツキのない日なのか、離れ去るマイトレのバックフェイスを見送ると、わずか二分でホームは次の乗客で埋まってしまった。初めて乗る電車であるが、いつもの乗車位置から体を押し込むと、反対のドア近くに見慣れた顔があるではないか。あの北川が、押し込められ戸袋に張りついていた。快速と新快速停車駅住人が、なぜ各停乗車なのか。奇異に思いながら北川に視線を送っていると、彼は遼に全く気づかず、というより授業中あれほどキョロキョロする男が、童子の如き純真な眼差しを一点に注いでいた。目線を追っていくと、それは一人の女生徒に吸い付けられていた。
「あれっ!」
堺の三国ヶ丘にある公立の進学校・三国丘高校の制服を着ているではないか。母の春丘の前任校が三国丘だった。遼は特徴ある制服を覚えていたのだ。この電車に乗って堺へ通うのは学区外通学を意味するから当然、越境通学ということになる。多分、高校入学後に引っ越したのだろう。でなければ茨木高校へ通うのが順当だからだ。
彼女は左手でカバンを抱きながら、右手を吊り革に伸ばし体を支えていた。髪は肩にかかるほどではないが、ショートカットでもなかった。
「‥‥‥ふぅーん」
北川に視線を戻し、遼は鼻で笑った。昨日出会った小山だって、彼女より数段美形だった。亡くなった可奈子に至っては、較べるのも気の毒な遼の印象だった。
―――授業中これほど集中すれば、成績も上がるのに‥‥‥。
学業に興味を失い成績ガタ落ちのクラスメート見つめ、他人事ながら心配してしまう。大阪駅まで、北川の目は彼女に釘付けで、環状線に乗り換えても変わらなかった。
―――おいおい。何てことだよ。
遼が鶴橋で降りても、北側は遼に続く気配がなかったのだ。
「おーい、北川」
さすがに呆れてしまい、ホームから車内の北川を呼んだ。彼女に付いて天王寺(駅)まで行ったりすれば、間違いなく遅刻だった。
「オーオー。草野やんか」
クラスメートに呼び止められ、北川は仕方なくホームへ飛び降りた。彼女の存在に気づかれバツが悪いのか、笑いを噛み殺す遼と歩きながら、しばらくダンマリを通した。ホームルーム遅刻の原因まで知られてしまったのだ。
「‥‥‥とうとう、俺のマドンナを見られてしもたな」
ようやく観念したのか、ファミマを折れて路地へ入ると、北川は頭をかきかき話し出した。根アカ原人なだけに、サバサバと隠し事はなかった。彼女は北川の乗車駅の次の駅からの乗車で、学校は制服が示す通り三国丘高校だった。
「一カ月ほど前から見かけるんで、こっちへ引っ越して来たんちゃうか」
北川の判断も遼と同じで、引っ越し原因の越境通学だった。今日は土曜で公立校は休みだが、クラブなのか、マドンナは制服姿だった。
「草野。俺のマドンナに手ぇ出さんといてくれよな。顔とスタイルは和製マクギンティで、おまけに頭が良うて喧嘩も強い。そんな奴、ライバルになったら最悪やからのぅ」
通用門の手前で、北川は心底、不安な面持ちで遼を見上げた。
―――誰があの程度に手を出すものか!
口から出かけたが、代わりに苦笑いを返した。北川を呼び止めたときの、振り向いたマドンナの顔が妙に印象に残っている。
その日、遼は不可解な幻影に捕われて、授業は上の空だった。とるに足りない―――はずだったのに、マドンナに気が向いて、集中力が持続できなかった。環状線の車内から、驚いたように遼を振り向く顔が、時間とともに鮮明になってくる。声の主を捜すように、後ろを振り向く。髪がなびいて顔が現れ、その瞳はじっと自分を見つめている。切り取られた一コマ一コマが、何度も何度も脳裏に浮かんでは消えていった。
一時限目の地学、二時限目の現国。授業が進むにつれ、網膜上の残像が鮮明を増し、脳裏への映写回数が増えてくる。
―――男ばっかりの高校にいるからかな? ‥‥‥。
三時限目のリーダーのとき、遼はマドンナが浮かぶ理由を考えてみた。ここしばらく猛勉(猛勉強)に励んだ反動もあるのかな? でなきゃ、あれくらいの女生徒に、という自惚れが、ないといえば嘘になる。
―――待てよ。ひょっとしたら、とんでもない掘り出しものかも‥‥‥。
四時限目の数Ⅰともなると謙虚さが芽生え、不可思議な映像体験は自己側要因以外も関与するのか、と思い始めた。わが級友は、それを見抜いたスグレ者。可能性なきにしもあらずなのだ。
謙虚あらたか隣席の北川に目をやると、まったくの期待外れだった。例の如くコクリコクリと舟を漕いでいた。五月五日、男の節句生まれが自慢で、誕生日到来と同時にチャリ免(原チャリ免許)取得。深夜まで走り回っていて、恋の女神の夢でも見ているのか、至福の笑顔だった。
「こらーっ! 北川。また居眠りをしおって!」
耳をつんざく大声が、いきなり北川をウツツに引き戻した。黒ダヌキの異名をとる日焼け顔メガネ。田抜山(たぬやま)先生のカミナリが落ちたのだ。睡眠不足は勉学か、はたまた遊びによるか。ベテラン六十路ダヌキはお見通しだった。進学校のベテラン教師は前者に甘く、後者に辛い。当然といえば当然だが、ヤリ玉に上がる北川は哀れだった。
「はいっ!」
夢を覚まされ、いつものように、訳も分からず立ち上がると、
「この、馬鹿たれっ!」
すかさず黒ダヌキの罵声。慣例ではあるが、教室に笑いが巻き起こり、ピエロ役がへつらうように、寂しい笑顔でクラスメートを見回すのだった。
「さようなら」
土曜の今日は数Ⅰが十二時三十分に終わると、十分間のホームルーム。そして楽しい下校タイム。教室の掃除、モップ片手の廊下拭きも、今日はなかった。クロちゃんに別れを告げ、解放感溢れる笑顔が喧騒の中、靴袋から黒い革靴を取り出し、廊下へ出て行く。
「あっ! 天田。校則違反の、赤い靴なんか持ってきて!」
言いつけ魔の星川が、濃いあずき色靴を持つ天田を揶揄すると、
「大っきい声だすなや! よう見てみい。赤いことあらへんやろ!」
あたりを気遣い、黒光りする迷惑顔で、天田が顔と同色の靴を示した。校則上、靴は黒との決まりだが、徹底されていなかった。画一化された身なりに対する反抗―――という大袈裟なものでなく、生徒たちの遊び心とファッション感覚だった。
―――どうしてかな? ‥‥‥。
一人鶴橋へ歩きながら、遼は首をかしげた。マドンナの気になるわけが、隠れた魅力か、当方の女性欠乏症によるのか、はたまた二者の競合なのか。結論らしきものが湧かず、釈然としなかった。色は白いが美人ではなかった。率直な印象で、海面下に隠された―――氷山ばりの魅力が有るようには見えないし、有れば、すでに感知していると思う。髪の毛だって、手入れは行き届いていたが、セミロングでもなくショートでもない中途半端で、遼の好みではなかった。が、欠点も思い浮かばなかった。芯の強さを隠す穏やかな目元。低くも高くもない形の良い鼻。上品で知性的な口元。
―――しかし、ふっくらタイプだったな‥‥‥。
昨日から夏服に替わっているので、今朝会ったとき、大体の体のラインは目でなぞった。ウエストはすらりと引き締まっていたが、きゃしゃな体つきではなかった。可奈子のようにスリムだが出るところは出ているというセクシーボディではなく、全体に丸みがあった。可奈子と較べるとハンディは否めないマドンナではあるが、妙に気になる彼女のことを考えながら、遼が環状線を降りて東海道線の階段を上がっていると、
「遼クーン」
真上のホームから、小山千秋が手を振って呼びかけた。
「昨日会ったばかりやのに、よう会うね」
階段を上りきった遼に、嬉しそうに近付いてくる。
「そうだね」
相づちを打って並んで歩き出すと、足が自然と小山の乗る各停の後尾車両へと向かう。開いたドアから最後尾に乗り込むと、昨日と同じ二人掛けの席に座れたが、昨日と違い今日は半袖のYシャツなので、白いセーラーの小山の腕とじかに肌が触れる。
「‥‥‥」
半年近くご無沙汰している、柔らかい女の肌であった。ゾクッと、なんとも言えない疼きが覚醒し、右上腕が熱くほてる。小山は知ってか知らずか、身じろぎもせず、黙ったまま姿勢を変えなかったが、発車間際に二人の女生徒が車両に乗ってくると、
「どうしたの?」
遼にうっとりとした目を上げた。まるで拒むように、遼の腕が自分の腕から離れていったのだ。
「‥‥‥いや、何でもない」
平静を装ったものの、遼は頬から火が出るほど赤くなっていた。偶然なのか、乗ってきた女生徒の一人は、今朝出会ったマドンナであった。マドンナは遼に気づくと、「あっ!」と軽い驚きの表情を浮かべたが、自分を見つめる隣の小山と目が合うと、童女のように気まずそうに俯いてしまった。
「知ってる女の子?」
「え! ‥‥‥、いや」
赤い顔のままぎこちなく首を振ったので、全く説得力がないと思ったが、小山は訝るふうもなかった。
「友達が通ってるから制服知ってるけど、三国丘の生徒やね」
「そうだね」
「‥‥‥可愛い子やね」
「うん?!」
遼は驚きを隠さなかった、というより、隠せなかった。美人の誉れ高い小山の、意外ともいえる判断なのだ。
「可奈ちゃんとは全く違うタイプやけど、遼君の好きなタイプとちゃう? それに三国丘やから頭ええし」
女の勘は鋭くて侮ると手痛いしっぺ返しを食ってしまうのだ。次に小山の口から漏れた言葉は、遼のマドンナへの気持ちを決定的にしてしまった。
「遼君のお母さんと似てるでしょ。ほら、口元とか鼻の形。それに体つきも似てると思わへん?」
授業参観で何度か会っただけなのに、小山の分析は呆れるほど鋭かった。
―――お袋と似ていたのか‥‥‥。どうりで。
小山の鑑識眼に、遼は息をのんでしまった。今朝、環状線の車内で振り向いた顔が気になって仕方なかったが、驚いたときに母が見せる表情と瓜二つなのだ。
―――しかし、なんと‥‥‥。
言われて見れば見るほど、二人はよく似ていた。口を一文字に閉じてから話す仕草、友達が口を開けて笑っても微笑を返すだけの奥ゆかしさ。足から腰にかけてのラインも、年齢を差し引けば双子の近似性があるように思える。
「‥‥‥ねぇ」
遼が見とれているので、小山はすねたのか、遼の腿を左手で揺すって注意を引く。
「―――え、‥‥‥うん。そうだな」
小山の分析に、遼は感服・脱帽の心境だった。
「それじゃ浅野さん。バイバイ」
友人がマドンナに別れを告げ新大阪で降りると、マドンナはつまらなさそうに俯いて、見るとはなしにドアから外の景色を眺めていたが、千里丘の手前で小山が降車のために立ち上がると、視線を軽く彼女に移した。身長は小山より十センチは高いだろうか。小さな小山の横に並ぶと、実際以上に高く見え、丸みのある体がヴィーナスの雰囲気を醸し出していた。
「遼君、さよなら」
席を立つとき別れを告げたのに、小山は再び要求する。
「‥‥‥うん」
遼は赤くなりながら苦笑いを浮かべ、もう一度、右手を小さく上げた。
電車が千里丘を出ると、マドンナはぎこちない仕草で振り向いて、手摺りの横の空席を確かめると、ことさら遼を見ずに腰を下ろした。自分を見つめる遼の視線を意識しているのか、口を一文字に結ぶと、膝の上のカバンから英語の参考書を取り出し、パラパラと右手でページを繰り始めた。注意が本の上にないのは、コチコチの固い動作を見れば明らかだった。
正面から見る、俯き加減のマドンナはセクシーで、性欲をそそられてしまう。眉毛の下の瞳が見えない分、一途でひたむきな可愛さがある。
―――あの唇を吸ってみたい。
上品な唇も、よこしまな目で見ていると欲望が倍加されるのだった。
―――どうも不純でいけない。
苦笑しながら立ち上がると、マドンナの横まで歩いた。間もなく茨木なのだ。真横に立つ遼が気になるのか、マドンナは一度だけ上目遣いに遼を見上げたが、視線が合うと、可笑しいほど赤くなって目を伏せてしまった。
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