第9話 暗い闇
生コン会社社長嶋田宏信の履歴。直樹には容易に入手可能だった。大阪府警南署の刑事課勤務、後藤田正義(まさよし)からすぐファクスが送られ、追加の資料も日を置かず郵送されてきた。
「何や、草野。大学卒業以来やな。嫁さんの実家に住んでるいうのは聞いてたけど、茨木やったんか。今度こっちへ来たら顔出してや。ここんとこ、空手部のOB会にも全然行ってないんで、皆の動向も教えてほしいしな。ところで、なんで嶋田宏信のことなんか知りたいんや。あんまり大きな声で言えんのやけどな、こいつは犯罪まみれの男で、特に警察幹部への贈賄容疑での捜査線に引っかかっているヤツなんで、俺のとこにも資料があるんやけど、何とも不可解な男なんや。業界でも七不思議の一つとの噂の絶えん男でな。三十年ほど前から急に金回りがようなったヤツで、それまでは暴力団の賭場に出入りしてた与太公やったんや。取り敢えず、手元の資料送るさかいな。‥‥‥草野、嶋田について何か分かったら、俺にも知らせてくれるか。こいつを通して、あるクズの動向を探りたいんや」
後藤田はクズという言葉にドスを利かせ、明らかに怒気を含ませた。
「いや、スマン、スマン。気ィ悪せんといてや。けったいな奴らを相手にしてたら、こっちまで可笑しなってしもてな。ま、色々あってな。いずれにしても、ほしい情報あったら、俺にいうてくれたらすぐ送るさかい」
大学時代、空手部で主将と副将の仲であった。職業倫理によるブレーキも直樹への信頼には遠く及ばなかったのか、後藤田は躊躇の欠片も見せず参考資料を送ってくれたのだった。
―――なるほど七不思議の一つに数えられるはずの男だな。
堺市の南東部にある福田という所で開かれていた暴力団東西組の賭場に二十代から出入りし、負けが込んでは、
「金取って来んかい!」
と怒鳴りつけられ、
「へい、へい」
尻尾を巻いてチャリで情婦のところへ金をせびりに走っていた男だった。救いようのないクズだが、ただ一つ取り得があり、女性に好かれるのだ。背が高く見栄えが良くて、金があればすこぶる金離れがよかった。これも後藤田の分析だが、ヤクザになる度胸もない、女泣かせのヒモ。そんな与太公があるとき急に金回りが良くなり、自治会長から連合会長まで勤め上げ、超のつく金満家に成り上がっているのだ。
―――頼母子講の掛金まで持ち逃げしていたのか。
賭場での負けが込み、頼母子講の掛金にまで手をつけ持ち逃げしたことが、後藤田が送ってくれた資料に記されていた。容姿や言動に似合わず、詳細な資料のまとめは几帳面な後藤田の性格を表わしていた。国Ⅰ(こくいち=国家公務員上級甲種)合格の、いわゆるキャリヤ官僚だが、後藤田は東京の本庁へ戻ることはなかった。巡査から大阪府警城東署の署長にまで上り詰めた父に対する尊敬と、殉職した兄への思いが現場を離れることの躊躇いだった。
「後藤田な、あいつ変わってんやで。警視になってもう十年になるいうのに、全然、出世欲ないねん。本庁へ戻ってたら、俺より前に、とっくに警視正になってたいうのに。おまけに刑事畑一筋やろ。亡くなった兄さんを殺ったヤクザ、逃亡したままで逮捕されてないねん。今やったら、殺人の時効は廃止されたけど、廃止前の事件で殺人罪は時効にかかってんや。けど、あいつ、見つけだしてケジメつけるつもりやないか。署内のもっぱらの噂らしいねん。せやから大阪府警離れられへんのんとちゃうか。ま、重いもん背負って生きていく決意なんやろな」
三年前のOB会で、二年遅れで国Ⅰに受かった山岡健(たけし)が、親友を思い浮かべ深いため息をついた。柔道三段、空手三段。剣道も三段で、国Ⅰ合格時は最年少での本部長候補と騒がれたが、後藤田らしい、というか、野々口教授の影響を強く受けた生き方ではないだろうか。東洋古武術研究会での、教授の愛弟子が後藤田であった。仏教と儒教の混合ともいうべき教授の思想は、古武術の鍛練を通し彼に影響を与えないはずがなかったのだ。
嶋田宏信に話を戻すと、多額の負債を抱え暴力団に追われていた男が、四十半ばで急に金回りが良くなっていた。この原因を、野々口教授はS資金に求めた。
以下は参考資料を基にした、直樹の推測である。まず頼母子講の掛金三十六万円余りを持ち逃げして姿をくらましたのが、三十年以上前の昭和五十八年八月。その後、三カ月余り消息不明だったが、愛人の実家である和歌山県伊都郡かつらぎ町に潜伏していたのを、東西組の組員に突き止められ大阪へ連れ戻されたことが、組関係者の証言により明かとなっている。東西組は武闘派で知られ、大阪を地盤とする小ぶりの組織だが、最大手の広域暴力団とも互角に戦う結束の強い暴力団だった。
〈見つけ出して山へ埋めるか、それとも海へ沈める、と息巻いた東西組関係者に拉致され、何故助かったのか?〉
野々口教授の影響で、後藤田も資料の中に、疑問符を付けたメモ書きを挿入していた。
―――恐らく、山へ埋めるつもりで信太山へ連れて行かれた。
そして死体を埋める穴を掘っていたとき、財宝の一部を見つけた。これが、殺されるはずの与太公が金満家になった理由ではなかったか。
―――しかし‥‥‥。
死体を入れる穴ていどの深さで、財宝が出てくるだろうか? 財宝は、軍が再起を期するための、まさに軍資金であったのだ。当然、発見が困難な深さに厳重に埋められたはずで、ヤクザが掘った程度の深さから出てくるとは、よく考えれば無理がある。
―――埋めきれなかった一部か。
それとも偶然に地表に落ちた一部が土をかぶっていたと考えるのが妥当ではないか。疑問を感じながら、直樹が資料のページをめくっていると、東西組の関係者の名前が赤インクで囲われてあった。このページには後藤田の思い入れが特に強いようで、赤いインク文字がやたら多く、又メモ書きのクリップも五つも張り付けられてあった。
―――おや?‥‥‥。
嶋田をかつらぎ町から連れ去った東西組の幹部・野下(のした)重次は殺害されているのだ。
〈金塊を取られた〉
若い情婦に残した野下の言葉で、野下殺害の容疑者・谷山柾一(ややままさかず)を追っていたのが、大阪府警生野警察署の刑事だった後藤田の兄義信であった。以上が、後藤田から送られてきた嶋田の資料とメモが語る事実だった。情婦が伝えた野下の言葉は、戯れ言として警察には無視されたが、野々口豹一郎は嶋田の隆盛と絡め、S資金に思い至った。大阪府中南部というか、信太山を中心にある程度の広さのエリアに網を張り、情報の収集に努めた結果、嶋田が網にかかったのだ。ところで谷山と嶋田の関係だが、想像をたくましくすれば様々な事態を想定しうるが、後藤田の資料からは明かでなかった。いずれにしても、後藤田と豹一郎が追っていた二人の人物は、直樹を通しS資金という共通項で繋がったのであった。
「えっ! 何やて! 野々口先生がそんな事件に巻き込まれてたんか。それでやな、連絡先が杳(よう)として知れなんだんは。‥‥‥しかし、国防の制服組が動いてんやったら、迂闊に警察組織を動かすわけにはいかんな。情報が筒抜けになるさかいな。よし、こうしよう。野々口教授の件は俺とお前の極秘事項として調べを進め、堺市の与太公は俺の腹心の部下で、南署勤務の海野征大(ゆきひろ)を紹介するわ。やっこさんにはS資金のことはまだ話さんと、嶋田宏信関係の調べに協力してもらうよう話をつけるさかいな」
直樹が資料の礼を兼ね、後藤田に電話を入れて判明した事実を告げると、受話器からの声が若々しく弾んだ。学生時代の関係に戻った、そんな印象の語り口調だった。
「いいのか、後藤田。俺のもっぱらの関心はS資金と野々口先生で、嶋田はそれとの関連で調査対象になるだけなのに、部下を協力させても」
「かまへん、かまへん。お前と俺の仲やないか。それに海野と俺も、そんな水臭い関係と違うねん。‥‥‥お前やから言うけどな、海野は俺の亡くなった兄の奥さんの弟やねん。つまり、俺とは兄弟みたいな仲なんや。あいつは時間の都合のつく警備部の公安勤務やから、気兼ねのう協力させてくれ」
直樹も学生時代の口調に戻り軽口をたたくと、後藤田は声を落として海野征大との関係を親友に語った。
「‥‥‥そうか」
山岡のいう重い決意は、後藤田だけでなく、海野も共有していたのだ。二人は、後藤田義信殺害犯・谷山柾一をどこまでも追いつめる。殺人の時効など、彼らにとっては何の意味もないのだ。
「究極の正義はタリオ(同害報復)だな。かの哲学者カントだって、絶対的応報を是認していたのだからね。人を殺せば、死刑。女性を強姦すれば、去勢。これがハムラビ法典以来、延々と続く正義の法の系譜といえるんじゃないか。もちろん異論もあるだろうけどね」
直樹と三人の酒席で、後藤田の質問に対する野々口教授の解答だった。
「僕は異論ないですよ、先生。現代法は犯罪者に甘すぎるんですよ。その結果、被害に遭うのはいつも弱い子供や女性なんやから。凶悪犯罪には毅然たる態度をとり、厳罰に処すべきで、これが社会防衛にも役立ちますよ」
国Ⅰ受験を決め、父と兄の跡を継ぐと直樹に告げた直後の、後藤田と恩師の会話だった。実の兄を殺害した谷山柾一に対する感情は、この二十四年前の会話から自ずから推し量れるものだった。妻と幼子を残し世を去らねばならなかった兄の無念。なぶり殺しといってよい残忍な殺害方法。パリへの出張がなければ、後藤田は絶対、父に兄の遺体との対面を避けさせたのに、それが出来なかった不運と後悔。息子の変わり果てた姿を見た父・後藤田正信は、遺体安置所を出た直後、脳梗塞で倒れ、回復せぬまま、五カ月余り後に長男義信の後を追ってしまった。
「そうか。後藤田はそんな厳しい状況に置かれていたのか‥‥‥」
警視庁の山岡に電話して、彼から後藤田の家の話を聞くと、直樹は塞ぎ込んでしまった。恩師・野々口教授が背負う闇も苛酷だが、親友・後藤田と海野を包む闇も、質こそ違え、晴れる兆しのない重く険しいものだった。
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