第34話 転校生

三月一日からの期末テストは、六日の水曜日で終わった。遼は期末が終了した六日の日に、マドンナと二人で北川の墓を訪れた。墓の所在と位置は、北谷に会った翌日、北川の母に電話を入れて教えてもらった。北川から遼のことを聞かされていたのか、北川の母は遼を知っていた。

「公立落ちて勉強やる気なくしてしもてたのに、急に無理しだして無茶な勉強するからこんなことになったんですわ。長い間、内申点にこだわって、そこから抜け出せんようになってしもてましたやろ。早う忘れや、バイクやゲームに逃げたらアカンで! って、いつも喧嘩してましたんや。それが狂ったように勉強しだして、主人も私も『嬉しいけど、心配やな』って、話してた矢先の事故でしたんや。ホンマにアホな子でしたわ。草野君とお付き合いさせてもろてたら、こんなことにはならへんかったやろに‥‥‥」

 そう言って北川の母は受話器に涙声を漏らした。

 人生とは分からないものだ。もし北川が志望公立校に合格していれば、こんな早い死を迎えることはなかっただろう。ほんの僅かな差が、彼の人生を決定づけてしまった。北川はコンスタントにクラス二位の席次で、提出物その他にも特段問題はなかったので、以前の十段階評価では九がつくはずなのに、内申点は五段階評価での三がつけられていた。これでも遼よりは一ランク上だが、北川は怒っていた。

「ホンマは俺、あんな内申点つくはずないねん。クラスでいっつも二番以内に入ってたさかい。せやけど聞いてみたら二ランクも低かったんや。誰に俺の内申点やりよったか知ってんねん。ホンマ、おもろないわ」

 よく遼に愚痴をこぼしていた。新たな目標を見つけ立ち直れたから良かったとはいうものの、遼も北川と同じ道を歩んだ公算は決して低いとは言い切れなかった。

 墓参りはドリームで出かける予定だったが、マドンナ同伴であることを考えれば母のママチャリが一番ふさわしいように思え、ガレージへ入ってから急遽、当日の足が変更されてしまった。花を前カゴに入れ、大きな公園近くのマドンナの家に寄ると、マドンナの母が出てきた。

「こんにちは、遼君。すぐ純子が来ますから」

 玄関を開け、庭の奥から笑顔で遼を迎えてくれる。遼は彼女のお気に入りなのだ。男の子が欲しくて三人も子供を生んだのに、結局全部女だった。そんなマドンナの母には、遼はようやく手に入れた男の子で、娘たち以上の存在といっても良かった。

「純子。早くしなさい。遼君がお待ちなんだから」

 遼を気遣って、マドンナの母は庭先から娘を急かせる。

「はい」

 玄関から出てきたマドンナは、ピンクのセーターに紺のブレザー、スカートはジーンズだった。厚手の白いロングソックスが、容姿と服装にはっとするほど似合っていた。

「こんにちは」

 マドンナと一緒に出てきた二人の妹たちは、遼を見つめて何やら意味あり気に笑い合っていたが、姉に促されると首をすぼめて家の中へ駆け込んでしまった。

 ブレーキを軽く握って、マドンナと並んで公園横の曲がりくねった坂道をゆっくりと下りて行く。目にまぶしいほどの新緑が公園を覆っていて、顔を撫でる風も肌に心地よかった。

 チャリで二十分も走らないうちに、二人は高槻の駅前に着いた。マドンナの家の周りや遼の家の近辺は閑静な住宅街なのに、わずかな距離で町の様相は一変してしまう。そんな繁華街の中に北川家の墓が建っていた。墓地の面積は広くなくて、ビルやマンションそれに一戸建に囲まれ、ひっそりと町なかに隠れていた。

 北川の母が毎日花と線香を欠かさないのだろう、新しい花が供えられ線香が細く煙っていた。供物の、好物だったエクレアを見つめていると、北川の母の決意が伝わってくる。彼女は生涯、背負い切れない重荷を背負って生きていくのだ。忘れられればどれほど楽であろうかと分かっていながら、決して忘れることは出来ない。我が子の生きた証を胸に刻みつけて、生涯、北川と歩む決意が、真新しいエクレアの包みに込められていた。

 ―――北川。お前の憧れのマドンナだ。よく見ろよ。

 俺が今日あるのは、お前とマドンナのおかげと言っていいんだ。本当にありがとう。マドンナと並んで合掌しながら、遼は心の中で語りかけるように呟いていた。

 春休みに入ると楠田と生活を共にする日々が続いたが、冬休みと違って二人はバイクでツーリングを楽しむようになった。勉学の合間に府内の旧跡をドリームとゼロ半ベンリーで訪れるのだ。空手の練習にも一段と磨きがかかった。新しい型や組手の考案を通し、理論面の深化も造詣深いものとなって行った。

 楠田とのスプリングホリデイを通して、遼はかなり鮮明に次の目標が見え出してきたのだった。マドンナを得るために必死に勉学に励み三国丘への転入を果たした。外形的には目的を達したが、達成過程で親友と交わり彼の生き様と渇望にも似た人格像を知ってしまった。生涯を黒人医療と伝道に捧げたシュバイツァーへの楠田の憧れは鮮烈で、遼は圧倒されてしまうのだった。自分には未だそのように明確な人格像はないが、彼の目指す医学という、深淵で興味尽きない学問領域で自分も研究に勤しみたい。父の買い被りかも知れないが、大学でも楠田と競い合ってみよう。そんな意識が芽生え出していたが、

 ―――心臓外科で移植か、それとも再生医療に携わってみるか‥‥‥。

 春休み最後の日に、遼は今後の目標が確定できて久方振りの充実感に浸れたのだった。

 さて、翌日の四月八日は新学年。新一年生入学の若葉の季節なのだ。堺東駅で降り、マドンナと並んで三国丘高校へ歩いていると、やはり新入生は初々しい。一目見て分かる制服と溌溂たる横顔であった。学校へ着くと友人たちとクラスを確認し合い、始業式のために互いの教室へ向かう。遼は二年八組、マドンナは六組だった。牛歩と喧騒の中を二階の二年八組の教室に着いて、窓際の一番後ろの席に腰を下ろすと、一年二組で一緒だった原武夫が、

「ヨオッ」

 と、遼の前に足を投げ出した。

「おい、草野。ド偉いベッピンが二年一組に転校してきたらしいぞ。おまけにピカ一の成績を引っさげての転入やったんやて」

 原は着席すると、ニヤニヤ鼻の下を伸ばし身を乗り出してきた。

「ふぅーん」

 遼は、原の言うド偉いベッピンにはほとんど興味がない。すでにピカ一の美形は二人も知っているが、その後、彼女ら以上の美形にはお目にかかったことがないのだ。可奈子と保津水に較べれば、原の言うド偉いベッピンもどうせマユツバに違いないのだ。肩透かしを食うだけ。そう、期待しても馬鹿を見るのが落ちなのだ。

 ―――それにしても‥‥‥。

 転入判定をピカ一で乗り切ったというのは、遼の興味を喚起させずにおかなかった。三学期への転校は確かに気乗り薄だったが、いま考えて見れば試験にはそれなりにベストを尽くしたと思う。かなりの成績だったと一年二組の担任に聞かされたが、ピカ一の成績にはほど遠かった。何といっても、三国丘は大阪で公立トップスリーに入る難関校なのだ。しかし今度の転校生はピカ一の成績だという。もしそうなら、遼がしてきた数倍の努力を惜しまなかったはずだ。でなきゃあ、いくら頭が良くても転入判定をピカ一でパスすることは出来ない。

 ―――睡眠時間を削って随分無理な勉強をしてきたのだろう‥‥‥。

 自分の受験勉強を振り返ると、遼はド偉いベッピンのしてきた努力が驚嘆の域に達するレベルと分かるのだ。入ってしまえばいかほどのこともないと思ってしまうが、入るまでは受験生というのは不安なものだ。だから目標が高ければ高いほど、プレッシャーが高まり必死になる。三国丘の場合、中途退学や留年による欠員発生が低く、学校側も転入に積極的ともいえない。これが不安を一層かき立てるのだ。それなのにピカ一の判定結果とは、一体どんな女なのだ?

 ―――明日にでも一組へ行って覗いてやれ。

 原の言うド偉いベッピンを、遼は明日、拝見することに決めたのだった。

 今日は新学年の始業式であるが、一年のではなくて二年のそれなのだ。初々しい新入生と違って、一年前に三国丘の住人になった、小生意気な新二年生に対する伝達事項はそれほど多くなかった。時間割りを教えられると、すぐ解散なのだ。

 ゾロゾロと皆の後ろから階段を下りると、マドンナが渡り廊下の手前で遼を待っていた。校舎を出て彼女と並んで校門へ歩く。マドンナと軽い会話を交わしながら、遼は皆の視線が気になって仕方なかった。実に奇妙なのだ。すれ違う生徒たちは皆、自分とマドンナの方を見つめている。それだけではなく、校庭にたたずむ生徒たちも、なぜか物珍しそうに自分たちに視線を送っているのだ。

 もっとも、正確には自分とマドンナの少し後ろに校内の目が釘付けになっていた。そういえば、さきほどから自分の背中が妙に気になっていた。誰かにじっと見つめられている気がしてならなかった。遼は中庭の手前で立ち止まって、振り向こうとする。が、背中の声の方が一瞬、早かった。

「遼クン」

 遼は心臓が止まるかと思った。ギクッ! とした衝撃で、靴底から髪の毛先まで、真っ白に凍ってしまった。あの懐かしい、聞き覚えのある声だった。この声の主を、もちろん遼は一人しか知らない。

 ―――なぜここに! 

 いったい、なぜこの声が背中から聞こえるのだ?! 金縛りにあったように遼が動けずにいると、

「‥‥‥遼クン」

 声の主は再度呼びかけた。すでにマドンナは振り返って彼女を見つめていたが、その目に戸惑いは隠せなかった。

「ね、‥‥‥遼クン」

 三度目の震える声で、ようやく遼は振り返ったが、その顔は血の気が引いて死人のように蒼白だった。彼の前には、北高のセーラーを着た保津水が、馴染めないよそ者の仕草でたたずんでいた。

「‥‥‥」

 余りの驚きで、遼は声を出すことも出来なかった。それほど保津水の出現は突然で意外だった。

 彼女は二、三歩あるいて、遠慮がちに遼に近づくと、

「ねぇ、話しがあるの。ここへ来て」

 遼を見上げ、彼の手に四つ折りの小さな紙を握らせた。

「うん」

 ようやく声が漏れたが、意識の作用ではなかった。遼の体が、無意識のうちに保津水に反応しただけだった。紙を受け取ったのも同じで、手の感覚は全くなかった。

 保津水は不安の入り交じる微笑で遼に頷き返すと、彼の横にたたずむマドンナに軽く会釈して、逃げるように大勢の生徒たちの中を校門へ消えて行った。

「‥‥‥大丈夫?」

 呆然とたたずむ遼に、マドンナも困惑顔だった。

「―――うん、大丈夫だよ」

 平静を装おうとするが、顔が強ばって笑顔が作れなかった。ぎこちない足取りでしばらく歩いていると、

「あれが愛ちゃんのお気に入りの、保津水さんなのね‥‥‥」

 マドンナは遼を見ないで、精一杯の皮肉を込めて呟いた。朝、教室へ入ったときから、六組でもクラスの男子の噂の的だった―――さきほどの転校生は。彼女を覗きに行った男子たちの帰りが遅くて、始業式がなかなか開けなかったほどなのだ。その転校生がこともあろうに、愛ちゃんの大好きな、〈保津水姉ちゃん〉だったとは‥‥‥。彼女にはこれまで随分悩まされてきた。一体どんな女性だろうかと、いつも気にかかっていたが、今日、初めて実物にお目にかかれた。魅力的な女性だった。驚くほど魅力に溢れていた。女の自分が見てもそう思わせられてしまうのだ。沈んだ表情の中にも、華があった。バラのあでやかさと、清楚な白百合のしとやかさを併せ持っていたのだ。北高で彼女とどんな関係だったか知り得べきもないが、いまも遼は彼女が好きだろう。彼女が原因で、彼は自分とのことに踏み込めない。それくらいは分かる。いくらなんでも、それくらいの勘は働く。

 ―――でも、彼女にはとても太刀打ち出来そうにない‥‥‥。

 恋人を追って自分も転校するなんて。おまけに全校生注視の中、北高の制服を着てたった一人で乗り込んできた。

 ―――彼女は恋に命をかけている。

 口惜しいが、保津水を見てマドンナは認めざるを得なかった。この口惜しさが、マドンナに皮肉を言わせた理由でもあったが、いまの遼にはマドンナの皮肉を感知する余裕などなかった。予期せぬ転校生のために、彼の頭の中は混乱の極致にあるといってよかった。

 このように、遼の前に突然現れた保津水であるが、ではなぜ、彼女は三国丘への転入を果たしたのであろうか。これを知るには、ときを少し戻し、場所を北高のある嵯峨野に移さねばならないであろう。


 二学期の終業式の日に、遼の不実を知って激しく彼を罵った保津水ではあったが、日が経つに従い、遼に対する自己の慕情が抑え難いものであることを知らされていった。彼と歩いた道にたたずみ、彼を思い浮かべると、遼のいない人生など、ただ生きているだけの抜け殻であった。

 冬休みの間中、保津水は何度遼と歩いた道を一人で歩いたことだろう。大覚寺境内から大沢池へ抜け、ひっそりと寂しい池のほとりから五社神社へ至る。どこを見ても、どこに触れても彼との思い出があった。たわむれに蹴った道ぎわの小石、かがむように歩いた松や椎の小枝さえ、遼の笑顔と仕草を呼び覚ますのだ。家へ帰ると、彼の思い出や匂いが染みついたものは、数え切れなかった。愛用のコーヒーカップ、勉強するときに使った椅子やテーブル。それにたった一度だけだが、二人が抱き合ったソファーもあるのだ。

 このように身の周りのものすべてに、遼の思い出が深く染みついているのだった。それらを見ていると、彼なしでは生きられない。そう思った。三国丘の転入試験に落ちれば三学期に再び遼に会える。落ちればよい。落ちて欲しい。保津水は神に祈りすがるような思いだったのに、願いは聴き入れられず、遼は合格してしまった。

 始業式に出ると、主のいない遼の椅子と机はすでに片付けられていた。Qちゃんが保津水を気遣って自ら運び出したと、後日、石上が教えてくれた。

 教室で机の前に腰を下ろしていても、心にポッカリと空洞が空いているような虚しさで、授業にも集中できず、全くの抜け殻であった。彼のいない教室は何と空虚で寂しいのだろう。あれほど毎日が楽しかったのに、遼がいなくなると虚しさと寂しさが保津水を覆い尽くす。もう何もかもが苦痛になってしまうのだ。トボトボと自転車を押しながら、死にたい、死んでもいい。保津水は何度思ったか知れなかった。精気の失せた顔、沈み切った保津水の動きと仕草に、石上は心配のあまり、

「保津。あんな薄情な草野なんか別れて良かったんや。どうせ大阪で恋人とうまくやってるに決まってるよ。最低のヤツや! 早よ忘れてしまい」

 口を極めて遼を非難するとともに、保津水に遼を諦めさせようと努め、画策したのだった。

「‥‥‥本当にそうなのだろうか」

 石上や母に遼を非難されればされるほど、保津水は断じてそんなことはないと思い始めた。もし石上や母の言うように、遼が薄情で最低の人間なら、必ず自分を抱いていたはずだ。でも彼は抱かなかった。こちらから何度仕掛けても、苦しそうに顔を歪め、いつも逃げてしまった。

 ―――迷っていたんだわ‥‥‥。

 自分と、大阪にいる好きな人のどちらを選ぼうか、いつも悩み、苦しみ、迷っていたのだ。きっとそうだ。そうに違いなかったのだ。これまでの遼の行動を思い起こして、保津水は確信したのだった。そしてそう確信すると、

 ―――ひょっとして、勝てるかも知れない。

 そう思うようになった。もし愛が闘い取らねばならぬものであるなら、闘おう。遼の真意を知ってしまった以上、自分には闘う資格があり、闘わねばならないと思った。すると不思議なことに、これまで心を覆っていた虚しさが急に消えてしまい、熱く燃え上がるようなものが心を満たし始めた。

「保津。青嵐が運んでくれた恋やないか。結ばれんわけがないやろ。お祖母ちゃんの孫に、弱音は似合わへんやろ。青嵐とお祖父ちゃんを信じたらええんや」

 祖父の声まで、耳の奥に湧き上がってきたのだった。

 ―――でも、相手は誰なんだろう?‥‥‥。

 大阪にいるというだけで、保津水には見当もつかなかったが、彼女には魂の誓いを立てた信頼の味方がいるのだ。

 愛から電話がかかってきたとき、

「‥‥‥愛ちゃん。お兄ちゃんの好きな人、誰だか分かる? 知ってたら、お姉ちゃんに教えて、お願いだから」

 保津水は震える声で聴いてみた。

「保津水姉ちゃん」

「ううん、そうじゃなくて、保津水姉ちゃんのほかに、誰かいない?」

 重ねて尋ねると、

「純子姉ちゃんがよく家へ来るの。でもわたしは嫌いよ。けど、お母さんが純子姉ちゃんのこと、好きみたいなの」

「ふぅーん。純子姉ちゃんて、どこの高校へ行ってるか分かる?」

「お兄ちゃんと同じ高校よ」

 愛は、保津水が一番知りたかった情報をあっけらかんと教えてくれたのだった。

遼の好きな女生徒が三国丘生だと分かると、保津水も三国丘への転入を決意した。同じ土俵で闘うのがフェアだし、そうしなければ自分に勝ち目はないと思った。

 闘いと戦場は直ちに決められたが、そこへ赴くまでに大きな障害と苦難が待ち受けていた。まず京子が大手を広げ、行く手を遮ってしまった。母の猛反対は当然予期できたことであるが、今回の彼女は憎らしいほど手強かった。口が酸っぱくなるくらい保津水の説得に回っただけでなく、およそ考え得るありとあらゆる妨害手段を講じてきたのだ。彼女の一番の武器は親権(しんけん)という親の持つ権利で、これには正直、保津水は嫌というほど悩まされてしまった。未成年者をどこに住まわせるかを決める権利を居所(きょしょ)指定権というが、その権利は母が握っていた。母は最後まで抵抗して居所指定権を離そうとしなかったが、保津水は父を味方につけることで、この危難を切り抜けた。法律上の難しいことはよく分からないが、父が弁護士の助けを借りて、辛うじて三国丘高校近くの小さなマンションに自分と保津水の住民票を移してくれたのだった。

 次の難関は、転入判定資料の期末テスト対策その他に割(さ)ける時間の欠如であった。母の妨害工作に悩まされながらの勉強で、心身ともに追い詰められるものだったが、睡眠を削り寸陰を惜しんで、鬼気迫る形相で保津水は難題に立ち向かった。無理がたたり、家でも北高でも何度倒れたか知れなかった。慢性的な睡眠不足と過労は、食欲不振、栄養失調そして貧血による目まい、嘔吐の悪循環をもたらしたのだ。

 ただ保津水にとり、この程度の苦しみは耐えられないものではなかった。何より辛く苦しかったのは、遼と自分の恋敵が深い契りを結んでしまい、対策がすべて後手に回ってしまうのではないか。そう考えると、保津水は胸が張り裂けんばかりの苦悩に襲われたのだった。

 長い苦難の日々がようやく終わったのは四月五日。面接を終え、転校許可が下りた日だった。父は多忙な時間を割いて始業式前日の七日に来阪してくれたが、久し振りに会う娘の顔色に愕然としてしまった。

「なぜ、こんなになるまで! さあ、すぐ病院へ行こう」

 しぶる保津水を無理にタクシーに乗せ、友人勤務の堺市内の総合病院へ運んだ。少なくとも栄養剤の点滴は必要だった。

「ボーイフレンドとの事がうまく行かなかったら、お母さんのところへ戻るか東京へ来るんだよ。約束だよ。‥‥‥もう少し居たいんだけど、急に手術の連絡が入ってきたんだ。五時四十七分ののぞみに乗らないと、間に合わないんだ。ね、さっきのこと約束だよ」

 よほど重要な手術なのか、父はそわそわと落ち着きがなかった。たとえ一秒でも娘のそばに居たい気持ちが、あの不安気な懐かしい表情から伝わってきて、保津水は父の手を握って泣いてしまった。

「‥‥‥お父さん。もう、行って。本当に私は大丈夫だから、さあ、お願いだから、行って」

 保津水に促され渋々手を離すと、父は何度も振り返って、足早に病院を後にしたのだった。

 診断した医師にしばらく入院する必要があると説かれたが、保津水は無理を言ってその夜マンションへ帰り、翌日の始業式に臨んだのだった。

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五兆円の埋蔵貴金属と外科医を目指す六人の高校生(整形外科医南埜正五郎追悼作品) 南埜純一 @jun1southfield

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