第28話 さよなら水尾の里
ラストデイと言って良いのか、それともファイナルデイと言うべきなのか、英語の語感も日本語のそれと同じく好ましい響きではなかった。最後の日、十一月の第三木曜日が、遼と保津水がドリームで北高へ通う、文字通り最後の日となってしまった。彼女は明日、住み慣れた我が家を柚子の里に残し、北高近くの高台の新居へ引っ越すからである。
二人にとって好ましい日とは思えぬからではあるまいが、今日は大陸に張り出したシベリヤ寒気団が猛威を振るい、暖かい昨日からは想像も出来ない寒さだった。
「気を付けて行ってね」
照子は不安な面持ちで息子を門の外まで見送り、後ろ姿が見えなくなるまでドリームのバックミラーから消えなかった。厚手のジャンパーに防寒パンツ、スキー用革手袋まで差して自宅を後にした遼であったが、すぐに装備の甘さを思い知らされてしまった。安威川渓谷へ入ると川面を吹き上げる寒風が、防備の隙間の手と足首それに首の周りを攻め立てるのだ。横殴りの強い突風にも散々悩まされた。バランスを崩し、遼は何度転倒しそうになったか知れなかった。
竹林回廊を抜けて山中に分け入ると、山や林立する杉木立ちの壁に守られ、さすがに横殴りの風を受けることはなくなったが、冷気は一層寒冷を増し、遼の体を震えさせる。細い林道に沿ったせせらぎに目をやると、水面から真っ白い蒸気が煙のように沸き上がっていた。
保津水が後ろに乗っていれば、遼はこんな寒さを屁とも思わない。後ろから抱かれていると彼女の肌の温みもあるが、何より体がうずいて芯から熱くなる。
―――だが、それも今日で終わりになってしまった。
京子は体育祭で遼に会ったその日に、躊躇なく引っ越しを決意した。娘と激しくやり合って、彼女の遼に対する気持ちがどれほどのものか、よく分かった。保津水は遼との恋に命をかけるつもりだろう。しかし生涯の恋を貫くにはまだ若すぎる。もっと広い世界を知れば、また考えも変わると思う。変えてほしい相手が、ごく身近に現れたのだ。
―――野々口教授のお孫さんだったら。
あれほど聡明で、邪気のない若者を京子は見たことがない。それに博学だ。薬学の知識ひとつとっても、薬剤師の自分を上回る広く深い知識を持っていた。ひけらかさず、自然と口から漏れるところも奥ゆかしくて好きだった。祖父を敬い献身的に尽くす英世と較べると、京子には遼の逃げ腰が最近特に気になりだしていた。保津水のことを本当に思っているのか、いまひとつはっきりしないのだ。もし娘を裏切るつもりなら、京子はどんなことをしても保津水を守らねばならない。それが最愛の者を自分に委ねた、夫に対する義務でもあるのだ。
数学を得意とする人間というのは、いろんな場合の数を考えてしまうのであろうか。起こり得る最悪の事態を想定し、回避手段を探す。その中で最も有効なものはどれなのか、とまた探索してしまうのだ。結局、多くの選択肢の中から、京子は北高近くへ引っ越すのが最良の策であろうとの結論に到達した。バイクで抱き合って通学することは、取り返しのつかない深みにはまってしまう危険を内包している。この危険は絶対避けねばならない。引っ越しを決意した、最大の理由であった。大学は東京だったが、京子も同じ校区の府立高校卒なので嵯峨野・嵐山周辺に多くの友人たちがいる。彼女らの一人が、夫の転勤のために北高北西の、五社神社近くの家を空き家にして神戸に住んでいるのも知っていた。
「‥‥‥ねぇ、直美。お願いがあるんだけど―――」
電話で空き家の賃貸を申し込むと、
「いいわよ。使ってないんだから」
かつてのクラスメートは家賃も決めずに快諾してくれたのだった。
「京子。ずっと住んでもいいのよ。テレビ局の業務提携がらみの出向で、すぐ戻るつもりだったんだけど、ウチの人、張り切りだしてんの。『業務提携記念・特別ドラマを作るぞ!』って、水尾と嵐山それに神戸が舞台の、純愛青春ドラマの企画を今月、局に出したとこなの。すっかり中年オジサンになっちゃったけど、ウブなとこはホント、変わんないわ」
似た者同士なのであろう、親友ののろけ癖も一向に治まる気配が見えなかったが、
「‥‥‥ね、京子。ウチの人も私も、老後は絶対、嵯峨野って決めてあの家を建てたんだけど、神戸もいいのよね。特に六甲から見渡す夜景は最高よ。さんざめく光の子らが、モダンアートの妙を心ゆくまで堪能させてくれるの。確かに朝は嵯峨野よ。いにしえの風雅匂い立つ、平安の時空へいざなってくれるもの。でも夜はこっち。‥‥‥やっぱり住めば都なのかな」
しんみりと受話器から漏らす口調は、家の処分に含みを持たすものだった。保津水次第ということになるが、京子も家の購入にやぶさかでなく、娘の了解が得られれば親友にその旨を伝えるつもりだ。かなりの価格だろうが、予測範囲内の支出財産は手元にあった。夫が離婚に伴う財産分与として相当な金額を渡してくれたし、両親の遺産も十分なものが与えられてある。母が娘と孫を案じて、病床から何度も父に頼み込んで遺言状を書かせてくれたのだ。自分のものも、病室で二人だけのとき、そっと手渡してくれた。有り難かった。質素な暮らしのし詰めだったのは、自分と保津水にこれだけのものを残すためだったのかと思うと、京子は母の胸に顔を埋め声を上げて泣いてしまった。月々、夫から送られてくる保津水の養育費と自分の給料も、大半は貯金して、何の不自由なく暮らしてきたというのに、母は死ぬまで娘と孫を不憫に思っていたのだ。親不孝な娘だった。思えば、亡くなる直前まで心配のかけどうしだった。母の恩の、万分の一も与えられないであろうが、自分も保津水のために出来るだけのことはしたい。その思いもあって、京子は今月初めに大学病院を辞めていた。良い職場で充実した毎日を送っていたが、娘のためなら退職に何の迷いもなかった。
病院を辞めた京子は、来月から嵯峨嵐山駅近くにある友人の薬店を手伝うつもりだ。得られる収入はかなり減るが、その分、時間の余裕が出来て、言葉は悪いが娘とボーイフレンドを監視できる。これが引っ越しを決めた第二の理由だった。
第三の理由は、遼のためだった。京子も深い山里に生まれ、いまも住んでいるので、冬の厳しさがどれほどのものか身に染みて分かっている。高校へ通っていたとき、京子も寒さや雪のために随分つらい思いをしたが、大阪で生まれ育った遼には山の厳しさが分からないだろう。冬の山は天候が変わりやすく、激しい雪も降らせる。日没も驚くほど早いのだ。これまでのように五時近くに北高を出ていては、暗い山中でどんな危難に遭遇しないとも限らない。北高近くに自分たちが転居すれば、そこへバイクを置いて保津水と一緒に自転車か徒歩で通えばいいのだ。そうすれば図書室に残ることもなく、授業が終わればすぐ帰宅できる。
―――それに‥‥‥。
毎朝、遼と顔を合わせれば、自分とも親しくなれる。もし二人の愛が結ばれるものであるなら、彼の心を繋ぎ止めるものは多いに越したことはないのだ。その役に立つなら、自分も恋人の母として少しは気に入られたい、という思いもあった。
では、保津水は転居をどのように受けとめたのであろう。彼女は余りに突然な引っ越しの提案に、
「なぜ急に引っ越しをすることにしたの?」
戸惑いを隠さなかった。
「草野君にとって一番いいと思うからよ」
京子は引っ越しを決めた第一・第二の理由はおくびにも出さず、第三の理由をことさら強調した。
「でも‥‥‥」
母の引っ越し理由を聞いても、保津水はにわかに信じ難かった。彼女にはかつて煮え湯を飲まされているのだ。しかし、一理も二理もあることも事実であった。遼が暗い山道を帰るのはいつも不安だった。雨が降り、風の強い日などは、危険な山道を駆けている遼が頭から離れず、机の前に座っていても心ここに有らずで、勉強どころではなかった。そんなところへ、母が口を極め冬の山道の危険を説いたのだ。保津水は遼の身を案じて、渋々ではあるが、引っ越しを承諾せざるを得なかった。
ドリームでの、二人の最後の通学日となってしまった木曜日の今日、地震対策を兼ねた急の教職員業務が入り、昼までの短縮授業になってしまった。カリキュラムの変更で、四時限目に男女別々のクラスが組み込まれ、女子は家庭科、男子は体育だった。遼たち男子はグラウンドで二組に分かれ、バスケットボールに興じた。先日の決闘以来、仲西やそのグループとは良好な、和親条約とでもいうべきものが締結されていて、もはや何のわだかまりもなかった。体育の時間は若いエネルギーがぶつかり合うので、これまで不快な思いをしたことがあるし、険悪なムードに陥ったことも何度かあったが、もうそのような懸念は見事なほど払拭されていた。
更衣室で着替えを済ませて男子が教室に戻ると、間もなく女子も帰ってきた。家庭科の時間は料理を作っていたらしく、
「ねぇ、食べてみて」
保津水がうまそうなパイを遼の机の上に置いた。
「僕のは?」
南田が保津水を振り向いてねだると、
「誰かに貰いなさい」
フンと、保津水は素っ気ない。ちょうど空腹の遼は、南田に同情しながら香ばしい香りのパイを口にほうり込んだ。
「ねぇ、美味しい?」
「うん、うまい。最高」
遼が笑顔で絶賛すると、
「ゼアズ・ノウ・アカウンティング・フォア・テイスト」
南田からさきほどのお返しが返ってきた。
「もう、何がタデよ! 怒るわよ。大体ね、タデ食う虫も好き好き、なんて諺を英語で言えるからって、生意気よ!」
保津水の返礼はぷうっと、無視を決め込むふくれっ面だった。遼が二人の遣り取りをニコニコしながら楽しんでいると、Qちゃんが入って来た。ホームルームの伝達事項はこれといってないらしく、
「明日は祭日で、それから二日間は土・日で休みやさかい、学校へ来ても授業あらへんで」
愛嬌笑顔と声で笑わせ、Qちゃんは教室を出て行った。
「ねぇ、少し駅前を歩こうか」
最後の日の今日、記念の意味も込めて、保津水は遼とゆっくり歩きたかった。帰り支度をする手を止めて、意味あり気な笑顔で彼を誘う。
「うん」
遼もまったく同じ気持ちだった。保津水を乗せて帰るのは今日で最後なのだ。図書室での勉強は取り止めにして、二人で嵐山界隈を歩くのも乙で、ひょっとすると映画のセリフではないが、「あ、月さま。雨が」「‥‥‥うむ、春雨じゃ。濡れて行こう」の、芸妓と月形半平太の心境に浸れるかも知れないのだ。
廊下へ出て、皆の後を二人並んで歩いて行く。こんな賑やかな中を帰るのは随分久しぶりだ。
「ねぇ、何が食べたい? 私がおごるから」
仲間たちの中を歩きながら、保津水が遼を見上げ自慢顔で提案する。
「そうだな。駅前のレストランで、飛びっ切り高い〈超豪華! 丹波産松茸づくし〉でも食べようか。おごりだったら」
遼はからかい半分であったが、転入試験を受けに来たときに入った、あのレストランへ行ってみたくなった。
「もっともっと高い物でもいいのよ。たとえば、かけソバとか椀盛りギンシャリなんか、どう?」
役者は保津水が一枚上だった。ツンと澄まして真顔を装い、切り返してきた。
駅前へ出て、お目当てのレストランの二階へ上がると、二人は窓際の席に腰を下ろした。遼が黙って母校を見上げていると、
「ねぇ、なに考えてんの?」
頬杖をついた保津水が、小首をかしげて遼をのぞき込んだ。
「―――三カ月ほど前のことだよ」
「転入試験を受けに来たときね」
保津水はとても勘がいい。遼が黙って頷くと、彼女もうんうんと頷いて遼の次の言葉を待っている。
「あの日に俺の人生は変わったように思うんだ。でもあれからまだ三カ月も経っていないんだな‥‥‥」
そんな僅かな期間とは、とても思えない。ずっと以前の、遠い昔のような気がする。発表までの間、少しは緊張もしていたのであろうが、かすかに記憶に残るだけで、もうほとんど覚えていない。すっかり北高の生徒になり切っているが、もしあのとき落ちていれば、今日の自分はないわけだ。当然、保津水とこうしてここに座っていることもない‥‥‥。そんなことを考えていると、不思議な気持ちになってしまう。まるで夢の世界にいる気分なのだ。
保津水もぼんやりと頬杖をついていたが、
「私の人生も変わったわ。遼クンに会ってから‥‥‥」
うつむいて湯飲み茶碗をいじりだす。何やら怪しげな雲行きになってきて、保津水の次の言葉が推し測られるというものだ。
「それはそうと明日の引っ越し、手伝いに来なくていいのかな」
遼は引っ越しの話題に逃げてしまった。
「いいわよ。手が足りてるから。親類の人たちがたくさん来てくれるの。それに嫌でしょ、いちいち挨拶するのって」
逃げられても保津水は頓着しなかった。遼を見て意味あり気に笑うと、引っ越しの話に花を咲かせ、とりとめのない話題を持ち出すのだった。小一時間、桂川を見下ろすレストラン二階でときを過ごし、階下で勘定を済ませて店を出ると、
「ねぇ、新しい家に行ってみない? まだ二時半だから。それにカギ持ってるし」
保津水はカバンからカギを出して、遼の前にぶら下げた。
「‥‥‥うん」
遼が渋っていると、
「月曜日に来るときは、すぐ新しい家へ来てよ。そしたら、その日から一緒に学校へ行けるじゃない」
保津水は彼の腕を抱いて翻意を促す。
「‥‥‥やっぱり、やめよう」
苦笑しながら、遼は首を横に振った。制服のまま二人だけで新居へ入るのは近所の目があろう。いずれ分かることであるが、京子のいないときに新居へ入るのはやはり控えたかった。
「分かったわ。ええっと‥‥‥、今度会うのは四日後になっちゃうんだ。四日後の月曜に帰るとき、新しい家に寄ってもらうことにするわ」
保津水は渋々うなずくと、親友の家へ駆けて行った。
ドリームに股がって遼が電柱の前で待っていると、
「いやだぁ、変なもの見て!」
保津水は、遼が風俗店のいかがわしいポスターを見ていると誤解している。最近、学校の周りにまでこの手のポスターがやたら多くなった。迷惑な話だと思うが、正門を下がったところに張られた予備校の看板よりはなぜか許せる。
「いや、そうじゃない」
と、弁解するが、保津水の顔は信じていない。
「見てもいいから、ポスターだけなら」
メットの中で意味深な笑みを浮かべ、遼の肩に手をかけステップを踏んだ。
風は午後になると一層激しさを増し、断続的な突風が不安定な二輪車のバランスをおびやかす。そのつど、保津水は遼を抱く手に力を入れた。気が強くて男勝りのしっかり者。学内の評であるが、やはり女だ。可愛いと思う。保津水との恋に身を委ね、このまま北高を卒業すれば、どんなに楽で楽しいだろう。遼は何度考えたか知れない。が、詰まるところ、マドンナを見切れない自分に行き着く。彼女とはまだ話もしていないのだ。未知であればあるほど、想像が働き夢も膨らむ。それに較べ、保津水は現実だ。手を伸ばすだけで彼女の全てが得られるだろう。そんな自惚れが遼にはある。この点、マドンナに対する保津水の不利は否めない。と、同時に、遼の保津水への気持ちの判断を曇らせていた。
いずれにしても、保津水を乗せてこの道を走るのは今日で最後だった。遼は普段に較べ、相当速度を落としてドリームを走らせていた。この速さなら、風になびく木の葉のささやきも耳に届くし、鮮やかな黄に染まる柚子畑もゆっくり眺められる。
「ねぇ、今日で終わりね」
メット越しに保津水がしんみりとささやく。
「…‥うん」
遼はブレーキを踏んでドリームを止めた。柚子畑が広がるこの道を、二人の心に深く刻もう。これからも朝夕走る道だが、ドリームの後ろにはもう保津水はいない。自分一人だけだ。
山中を走る緑の小道は、なだらかなカーブを描きながら彼方へ下っていく。山裾に広がる田畑も家もマッチ箱のように小さい。そして背後の山々はカラフルな衣をまとって、まるで競い合っているようだ。
「こんなに綺麗だったのね‥‥‥」
脱いだヘルメットを抱きながら、保津水は驚きの声を上げる。
「東京のマンションで、母がよく、故郷の話をしていたのがやっと分かったわ」
保津水は遼に体を寄せてしんみりとつぶやいた。
「母も高校に通っているとき、きっと誰かと激しい恋をしたんだわ。だから心の傷をいやすために故郷へ帰りたかったんだと思う。彼と歩いた道にたたずんで、美しい山や川を見たかったのね。‥‥‥私もきっとそうするわ」
遠くをぼんやりと眺めながら、まるで自分に話すような口調だったが、最後はまぶしそうな目で遼を見上げた。
「‥‥‥」
保津水の魂の核に触れると、遼はいつも後ろめたい。黙って山裾の小さな景色を見つめていると、保津水は遼の右腕をそっと抱いた。
「九月に入って父から手紙が届いたわ。父は私に会いたがっているの。その手紙で、母が父にしたひどい仕打ちを知ったわ。読んでいて、父が可哀相で涙が出ちゃった‥‥‥。でも、母を恨む気になれなかったの。むしろ感謝したい気持ちだった。東京にいたら、北高に入学することもなかったし、遼クンにも会えなかったから」
父を思ってなのか、保津水は遼の横顔を見上げて寂しそうに微笑んだ。仕草から、遼への思いが痛いほど伝わってくる。あなたのためなら、すべてを捨ててもいい。そんな決意が伝わってくるのだ。
「‥‥‥そろそろ行こうか」
保津水を見ないで、遼は力なくつぶやいた。その顔は苦悩にゆがんでいた。
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