第13話 ロマンと苦悩の舞台

死に物狂い―――情緒意味の高い言葉で、父は使いたがらないが、遼は嫌いではなかった。どちらかといえば好きな言葉の一つだった。


サッカーにそれこそ命を賭けていたとき、忘我の境地に自然に、また、あるときは無理矢理に陥れねばならないが、後者のとき、よく父の嫌う言葉を使った。

 

父によれば、人を引き付け説得する能力の高い言葉、例えば「自由」、それに「正義」などが特に高い情緒意味があり、具体的中身を提示することなく頻繁に使う政治家や指導者、彼らを安易に信用してはならないとのことだった。

 

学者を目指していたこともあり、父は科学性を重視し、闇雲な根性論を嫌う。といって合理の塊かというと、変に古風なところがあり妙に筋を通す。


家が没落し辛酸を嘗め尽くした学生時代、アルバイトで学費と生活費をまかない、恋人だった母の実家の援助を頑強に拒み続けた。大学院進学を断念し就職したのも、父なりの筋を通したつもりであろう。


祖父との仲が良くないのは、どちらも強固な価値観を持ち、互いに意地を張って譲らないからだが、遼は何故かそんな二人が好きで堪らなかった。

 

他人なのに奇妙なほど一致点の多い二人であるが、祖父は父の嫌う、情緒意味の高い言葉をふんだんに使った。


「遼。人間はな、死ぬ気になったらどんなことでも出来るんやで。死に物狂いで向かって行ったら、少々の相手には勝てるもんや。せやから、途中で投げたらあかんで。お祖父ちゃん、サッカーはよう分からんけどな、絶対、勝つんや! という意気込みで敵に向かって行くんやで。そしたら、負ける試合も勝てるがな」

 

こんな有り様で、祖父照夫は闇雲の根性論を孫に伝授するのだ。父が祖父を嫌う最大の理由であるが、遼はいま、それらの恩恵に浴していることも事実であった。


まず横溢せんばかりの気力を生み出してくれた。心身に間断なきエネルギーを注ぎ込み、たくましくしなやかに目標達成に向かわせるのだ。


しかも間近な目標は、達成努力を幾何級数的に倍加させたのだった。

 

転校計画の成功裏の実現。わずか二カ月先の、正に間近な目標であるが、このために短期かつ急激な実力アップは当然として、転入判定資料の相方たる一学期の成績、これも十全なものにする必要があった。


すでに実力テスト一回、定期テスト一回、計二回のテストが実施されたが、今学期内には実力と期末が各一回、残されていた。この二つに全力投球し、転入試験以外の資料に万全を期して脇を強固に固めねばならなかった。

 

遼のスケジュールは転入に向け、完全なるシフト転換がなされたが、これは同時に、日常から規則性を奪ってしまうものだった。各単元の予定が終了するまで、次のそれに移れない。


目一杯のボリューム満点コンテンツは、予定時間の大幅オーバーをもたらし、玉突きでラストへしわが寄る。生活時間の拡大は睡眠時間の縮小に繋がるという、X+Y=Aの一次関数の関係が当てはまるのだ。


縮小をかければ良いものを、鳴子で追うが如きプレッシャーは負荷の重圧には至っても軽減作用は皆無であった。これまた至極当然のことだが、睡眠時間の減少は睡魔と同衾(どうきん)の日々で、ちょっと気を抜くと前後不覚といえば聞こえは良いが、睡魔に負けてしまい、黒ダヌキに、


「正体不明の惰眠!」

 

大声で揶揄される事態の到来であった。北川と違って侮りがないのは、覚悟のほどを感知しているからだが、クロちゃんなどは、


「草野、あんまり無理したらあかんで。まだまだ先は長いんやからな」

 

目を覚ました遼に、心配顔でペースダウンを促すほどであった。遼はしかし、アイ・キャノット・スタディ・ツー・マッチの心境で、これでもまだ足りなかった。


削れるところはとことん削ろう。帰宅後のジョギングは当然、〈没〉であった。愛はぷうっと、断固反対のふくれっ面だったが、


「愛ちゃん。お兄ちゃんは今、大変な時期なの。一分、一秒でも時間が欲しいのよ。だから、お母さんと二人で走ろう。ね、お兄ちゃんに時間をあげて。お願いだから」

 

母の涙の説得に、ようやく笑顔を見せて納得したのだった。

 

結局トレーニングはブル(ブルワーカー)を使う十五分のパターンと、父考案の、突き・蹴り・受けと坐法―――法華型と呼ぶ基本型のみにとどめ、父との組手も聖域なき削減対象となった。

 

呆れんばかりの猛スタの日々であるが、時折、比率的には取るに足りないごく僅かな時間であったが、空白の無気力モードが出現する。たいてい深夜だが、遼はそんなとき摂津富田駅を望む高台まで疾駆した。


山手台から地震観測所前を抜け、暗い夜道をただ黙々と走り、息を切らして倒れ込むと、高台からむさぼるように町の灯を見つめた。


どこに住んでいるか分からないが、確実に自分の視野内で眠っているマドンナを思い浮かべたのだ。いつか必ずこの腕に抱こう、あの柔らかい豊かな体を自分のものにしたい。シンプルで、父の言葉を借りればザッハリッヒ(即物的)であるが、遼の切実な願望であった。

 

今学期のラスト・アチーブ、七月二日の実テは万全の対策と猛スタの成果であろう。答案を書きながら、遼はペン先から自信がほとばしる思いだった。


英・数・理・社・国の五科目で、普段の授業より一時間減の二時二十分終了。帰宅すると三時三十分を少し回っていた。


ガレージには何故か父の愛車・モンスターが止まっていた。いつものように玄関前で体をはたき家に入ると、ダイニングで両親がコーヒーを飲んでくつろいでいた。


父の向かいの、若やいだ母を見ているとマドンナの容姿がダブってくる。小山がいみじくも言い当てたが、二人は双生児の近似性がある。


年齢差があるので一卵性とはいえないが、二十数年後の重なりを思い描くと、遼は〈相似〉が〈合同〉になる錯覚に陥ってしまうのだった。

 

流れからいえば母がマドンナに似ているのではなく、マドンナが母に似ているということになるが、その母はマドンナと同じく色白で美肌。年齢よりはるかに若く見え、なかなかセクシーだ。


母の豊かな乳房を吸ったのは十五年も前の遠い昔のことだが、遼はどんな形をしているか良く覚えている。つい五年前まで愛に含ませていたからだ。


体つきも豊満なギリシャ女神を彷彿させ、子供の頃ヴィーナスの絵を見るたび、遼は母を連想したが、今はマドンナの裸体が浮かんでくる。

 

ダイニングの二人、両親のことであるが、この二人は夜も結構仲が良い。遼の部屋の真下が応接間で、その北隣が彼らのベッドルームなのだ。時折、悩まし気な声が微かにではあるが、漏れて来たりもする。


大戦の空襲にも焼け残った、明治初年に建てられた骨董屋敷だった。何度か改装工事が施されてはいるが、防音・気密性はすこぶる心許ないもので、その分、夏は過ごし易い家だった。


「どうしたの? 座ってコーヒーを飲んだら?」

 

息子に見つめられ少し照れているのか、照子はきまり悪そうな笑顔で促す。朝、遼に見つめられたとき、マドンナがこんな仕草をして、ぽっと頬を染める。


「いや。いいよ」

 

試験が終わったからといって手抜き禁物、予定山積で、ゆっくりコーヒーを飲む心境とは程遠かった。ドアを開けてダイニングを出ようとすると、


「遼、少しお父さんにつきあわないか」

 

父が振り向いて息子を呼び止めた。機嫌が良いのか、目元に微笑が浮かんでいる。


「うん‥‥‥」

 

無碍に断るわけには行かず、迷っていると、


「試験が終わって、息抜きも必要だぞ。転入にも関係あることだし」

 

格闘の達人は押さえ所を心得ていた。迷いが吹き飛ぶ、マジックカードを切ってきた。


「いいよ」

 

転入と聞くと、付き合わないわけに行かなかった。普段ならポーズを取ってもったいぶるところだが、遼は二つ返事で相好を崩してしまった。


「それじゃ、出かけるか」

 

生徒たちが林間学舎で塾が休みの今日、直樹は息子関連の懸案を一挙に片付ける腹だった。野々口教授事件に集中でき、遼にとっても早ければ早いほど精神面の負担軽減に繋がるからだ。


先月の二十日、ハリマオのメンバーとの宍道湖へのツーリング途中、呉へ立ち寄って、S資金運搬従事者の遺族に会い場所確定の手がかりを得たこともあり、直樹は気分的に楽になっていた。

 

―――転入先は、どこがベストなのか。

 

遼の転校問題の、最大の難題であった。口を滑らせ、転入を認めてしまったことが悔やまれるほど、転校先の決定は難しかった。

 

息子が見てきた桐蔭の校区に知り合いはいなかった。和歌山市内にアパートか一戸建を借り、そこへ住民票を移す案が浮かぶが、和歌山市内では清嵐高校がすんなりと転校を認めてはくれないだろう。十分な通学圏で、そこからの通学者も多数いるのだ。


この懸念の払拭と自宅からの通学可能性の具備。そのためには以下の両要件が充たされる必要があった。


移転先から清嵐まで二時間以上、しかも自宅から一時間半以内で通える高校。S資金のときと同じく、地図上に何度も定規とコンパスを走らせ絞り込みをおこなうと、先月の二十五日、いきなり理想の地が目の前に躍り上がってきた。


洛西の秘境―――清和天皇社のある―――柚子の里・水尾だった。


地理的にもベストに近い申し分ない地で、好都合なことに、かつてのライダー仲間も住んでいた。彼は都会生活を嫌い、十年前、大阪から彼の地に越して柚子園を営む、元大阪府の職員であった。一昨年、愛を連れて訪問したとき、自宅から大阪まで二時間はゆうにかかると、日焼け顔で笑っていた。


塾の休みとテスト終了。申し分ないタイミングに快晴まで重なると、今日、水尾へのツーリングは、直樹には必然の予感さえ湧くものだった。


先に仕度をして庭先のガレージで遼を待っていると、ポロシャツにジーンズ、黒いヘルメットを抱き彼が玄関から出てきた。ここしばらく組手を控えているが、体は一回りたくましさを増したように思う。


「いいな、行くぞ」

 

後部シートの遼に断り、直樹がセルボタンを押そうとすると、まずいことに愛がカバンを下げて、ニコニコ笑顔で幼稚園からの御帰館であった。


「わたしも行きたーい!」

 

当然の行動パターンであるが、二人乗りバイクに自分も乗せよと、妹はガレージ前で駄々をこねる。


「愛ちゃん。お母さんと一緒に自転車でお買い物に行こう。それから、お祖父ちゃんの車に乗って、お祖母ちゃんと三人で、お祖父ちゃんのお見舞いに行こう。お祖父ちゃん、愛ちゃんに会いたがってたから。ね―――」

 

母がなだめてくれて、二人はようやく自宅を後にできたのだった。

 

いつもながら、父の後ろに乗るツーリングは快適だ。初夏の風を切って、弾けるクッション、疾風さながら、弾丸のごとき走行感であった。


「一体どこへ行くのさ」

 

マジックワードに釣られ、いそいそと出てきたが、遼はまだ行き先を聞いていなかった。安威川に沿う緑を縫いながら、父の耳元に声をかけた。


「水尾だ、保津峡のある。―――少しほこりっぽいぞ」

 必要なことしか言わない男で、小さく答え、最後の言葉に力を込めたが、遼はすぐ意味が分かった。キャンプや釣り客で賑わう閑静な安威川渓谷。その緑の下を、砂利採取ダンプがゴウゴウと砂塵を巻き上げ通り過ぎて行くのだ。


行き交う度に顔をしかめ辺りを見回すと、垂直にえぐり取られたそそり立つ岩肌が痛々しかった。道際の木や草花も砂の衣を着せられ、白くくすんで生彩を失っていた。

 

最後の砕石場近くまで進むと竜王山の霊力が張り出し、深い山懐に包まれ、澄んだ冷気がひんやりと心地よい。シールドを上げ、胸一杯緑を吸って遼がグリーンシャワーを満喫していると、父はゆっくりスロットルを戻し、左足でスムーズにギヤ・ダウンを始めた。


セカンドまで下がったとき、獣道(けものみち)と見紛う隘路(あいろ)が左手の深い森に現われ、吸い込まれるようにモンスターは急坂を突き進んだ。


隘路は草や木々で織りなされた、群青の空洞だった。木漏れ日が差す緑の小さな異時限空間奥で、足下の草花を慎重に踏み分け、狭い地肌にテン半が止まった。


「‥‥‥」

 

意図がわからず、遼が怪訝顔を浮かべると、父はおもむろに右手でキィを戻した。ドッドッドッドッドッという力強いエンジン音が、ストーン! と空(くう)に散ってしまった。

 

―――何という清涼感であろう!

 

突然、耳を洗う静寂が二人を包み込んだのだ。鼓膜を震わすのは微かなセミの声と、石清水の水音だけだった。その小さな響きが、山の涼しさに染み込んでいく。


「静かだろう」

 

ヘルメットを脱いで、父が遼の横で微笑んでいた。息子にこの感覚を味わわせるために間道へ入り、山の精が宿る神聖な祠を見せたのだった。

 

―――どうして、どうして。なかなかのロマンチストじゃないか! 

 

遼は父の意外な面を見てしまった。


「さあ、行くぞ」

 

照れくさいのか、直樹は苦笑いを浮かべ出発の合図を送る。


「うん」

 

遼は肩ではなく、父の胸に腕を回した。結構考えてくれているんだ。シールドの中で目元がやけに湿っぽく、遼は何度もまばたきをしたのだった。

 

ベールを脱いだ同居人の素顔も今日の収穫の一つであったが、道行きの自然は遼に大きな感動をもたらし、バイクの魅力が余すところなく満喫できる一日だった。


安威川に沿う、なだらかな安威川渓谷は穏やかで牧歌的たたずまいであった。亀岡盆地の中心都市・亀岡まで遼の目をゆったりと和ませてくれたが、山陰本線亀岡駅を過ぎ保津川を渡ると、山の自然は一変してしまうのだ。


保津町から山深い愛宕山中へ分け入る林道に、遼はまず驚嘆させられてしまった。林道の両側は想像を絶する樹齢の竹林で覆われ、竹洞窟を突き進む、得もいえぬ清涼な走行感なのだ。遼が〈竹林回廊〉と名付けた、魅力尽きない林道との出会いであった。

 

感動満載ロードのセカンド・ステージは、昼なお暗い鬱蒼と茂る杉木立ち。洗練度も比類なきもので、都会人には垂涎もののナチュラル・ビュウティーが、竹林回廊の先に延々と控えていたのだ。


ドッドッドッドッドーとモンスターは力強いエンジン音を轟かせ、ライトで木立ちの壁を照らしながら、山中深く分け入っていく。


勾配はいよいよ険しく、カーブも一層鋭角をとがらせ、遼の体もシート上で右に左にローリングを繰り返す。シールドには、吸い込まれるように続く曲がりくねった林道と、頭上に浮かんでは消える小さな天空しか見えない。それほど深く、テン半モンスターは愛宕山の山懐に呑み込まれてしまっていた。

 

渓流と林立する木立の中を、どれほど走っただろう。目の前の直線道を仰ぎ見ると、天空の隙間が広がり、ようやく峠らしき三叉路にたどり着いた。


日本のいたるところで見られる変哲のない峠であったが、父は登り切る手前で何故か愛車・テン半を止めてしまった。


〈神明峠〉。肩越しに峠を見上げ、遼は不思議な安堵感に包まれていた。以前来たような、懐かしい親しみが湧いてくるのだ。


恐らく峠というものの持ちあわせる特質で、険しい山道を登り峠へたどり着いた者は、次に目の前に開ける道は楽あれかしと願わずにいられない。そんな旅人の切ない思いが、現代人の心にも脈々と受け継がれているのであろう。


いずれにしても、遼にとり運命峠ともいうべき存在をもつ、神明峠。この峠を越えた転校先で出会う女生徒と、マドンナ。青春のロマンと苦悩が、神明峠が導く先に控えていようとは、いまの遼に分かる道理などあるはずがなかった。


「左へ行けば越畑。右へ行くと水尾、その先に嵐山がある」

 

父に言われて右と左を見渡すが、坂で途切れた道の先は見えず、正に想像の世界であった。さっきと同じで、想像を凌ぐ現実が待ち受けているんだ。遼は父の意図を見抜いてしまったが、想像をはるかに凌ぐ現実は読み切れなかった。


「今日はゆっくりできないが、少しだけ横道へ入ろう」

 苦笑いの息子に微笑みを返し、直樹は微かな水音に向かって細い樵道(きこりみち)を走り抜ける。最後の小枝の壁をくぐると、突然、鮮やかに視界が広がり、青空が眼前に飛び込んできて、狭い高台にゆっくりとテン半が止まった。

「あっ! ‥‥‥」

 遼は一声発して、眼下の自然に吸い込まれてしまった。断崖さながら、そそり立つ絶壁の岩肌。ゴウゴウと水しぶきを巻き上げ、荒々しく岩肌にぶつかる保津川。眼下には雄大な保津峡が、変幻自在に、はるか彼方へと霞んでいた。

「‥‥‥」

 呆然と、眼下の自然に立ちすくんでいると、

「行こうか」

 今度は遠慮がちに、直樹は息子に出発の合図を送った。

 神明峠から水尾にかけては、これまでと打って変わるパノラマ・ビューで、広々とした視界が彼方、下方へ広がる展開であった。人家が顔を出すと、手入れの行き届いた柚子畑も目に和んで、洛西の秘境・水尾の里の出現であった。愛宕山の西麓にひっそりと息づく山里は、清和天皇に終生の住み処(か)と選ばれ、また源少将が隠れ住んだのも、さもありなんとのたたずまいであった。

「その家なんだ」

 父はゆっくりとブレーキを踏みながら、里の外れの、広い農家を指さした。道路を少し上がった家は、門前に柚子の大木が茂り、開いた門から屋敷内の柚子も垣間見ることが出来る、まさに柚子の里の家であった。

 青々と茂る大木下にモンスターを立てかけていると、音に家人が気づき、奥の玄関戸が開いた。

「やあ、草野さん、ご無沙汰」

 笑顔を浮かべ戸口から出てきた主人の髪は真っ白だったが、歳は五十前後であろう。肌の色つやや声の張り、体つきからも老齢に達しているとは思えなかった。二人を迎える日焼け顔と白い歯、それに少し下がった目が人懐こかった。

「やあ、こんにちは。忙しいのに、申し訳ない」

 よほど親交が深いのか、父は親友に接する口調で挨拶を返すと、

「長男の遼だよ」

 息子を見つめるかつてのメンバーに紹介したのだった。

「おーおー! あの時のボクが、こんなに大きくなって。一体、いくつになったの?」

 親しみ溢れる笑顔で遼を見上げ、主人は感慨深げである。子供の頃に会っているのであろうが、幼少時のことで、遼は記憶になかった。

「はあ、この四日に十六になります」

 顔を近づけ親し気に見つめられると、照れてしまい、遼の口元に自然と白い歯がこぼれる。

「ほう! もうそんなになるのか。‥‥‥そういえば、私がハリマオを抜けてもう十年も経つのだから、当たり前だな」

 何度も頷き、感心しきりであったが、

「あれ、あれ、こんなところで。二人とも内へ入って、さあ、さあ」

 思い出したように、主人は二人を門内へ招き入れた。表札には田中弘行と大きく、その横に光子、誠の名が少し小振りに書かれてあった。この白髪の人物が田中弘行であろう。光子が妻で、子供が誠。遼は表札の字から、当家の家族構成をそのように判断したのだった。

 広い格子戸を開け、裏庭まで吹き抜きの玄関へ入ると、

「ようこそ草野さん。お電話をいただいて嬉しかったですわ」

 左手のガラス戸が開き、田中光子らしき婦人がにこやかに二人を迎える。主人と同じく五十前後だが、面長で色白の美人だった。

 田中氏は遠来の客を右手の応接間に通すか、左の居間へ案内するか迷っていたが、親しみが優ったのであろう。二人は居間へ通された。

「遼君。かしこまらずに足をくずしてね」

「はい」

 笑顔で答えたものの、遼は足をくずさず正座を通した。黒光りする板床上の正座。武道の慣れで、いつしか胡座(あぐら)より収まりが良くなっていた。

「ところで、今日は遼君の転校の話で来てくれたんだって?」

 ひとしきり遼との回顧談に花が咲いたが、一段落つくと、田中氏は正面の父に本題を振ってきた。遼が待ちに待った話題の登場であった。

「うん、そうなんだ」

 苦笑いを浮かべ相槌を打つと、父はこれまでの経緯を話し始めた。田中氏は父の話を頷きながら黙って聞いていたが、話し終えると、

「それじゃあ、嵯峨野にある嵯峨野北高校へ転入したらどうだろう。このあたりでは一番レベルが高いから、今の話の意図にピッタリじゃないかな」

 大覚寺近くにある、府立の進学校を二人に勧めた。京都府民には北高と呼ばれ高い評価を得ているらしく、京都市内で下宿中の息子・誠も北高卒と、田中氏は苦笑しながら打ち明けた。市内の旧帝大へ通う一人息子がよほど可愛いのか、辛辣(しんらつ)な批評とは裏腹に、頬がゆるみっぱなしだった。

「転校には正直言って、私は反対なんだ。最終的に三国丘への転校が目的という、どう見ても誉められたものじゃないからね。だから、私もここの離れでも借りて、遼と一緒に暮らそうかとも考えているんだ。形だけでも整えたい心境だよ」

 父が渋っていた最大の理由がこれなのだ。本人の口から漏れると、やはり遼には応える。

「まあ、それほど気にしなさんな。この程度は許されていいんじゃないのかな。特に大阪と違い、京都の場合は転入試験があって、これにかなりのエネルギーを注がねばならないことを考えると、労せずして巨利を得るという、草野さんが嫌う場面じゃないよ。取り敢えず京都の転入の仕組みを説明するとね―――」

 元大阪府の教育委員会勤務という経歴のなせるわざで、田中氏の説明は淀みなく遼の頭に収まり刻みつけられていった。和歌山と違うのは、教育委員会が窓口として前面に出るところで、高校間のレベル差やカリキュラムを考慮し、教育委員会が転校先を割り振るとの印象を受けるものだった。

「嵯峨野北高校へは、ここからどれくらいかかるのだろう」

 夫人が入れてくれた麦茶を一口味わい、父が田中氏に尋ねると、

「バイクで行けば、二十分もかからないかな」

 苦笑いを浮かべ、田中氏も麦茶のグラスを花柄のテーブルクロスに戻した。北高はバイク通学禁止だったが、息子誠はバイクで通っていたのだ。バイクは北高近くのクラスメート宅預かりと、チャッカリと抜け目がなかったらしい。

「やはりカエルの子はカエルかな。今も骨董品の私のバイク、CBX四OOFインテグラに乗っているよ」

 田中氏の話は、遼に突拍子もない名案をもたらしてしまった。田中誠がカエルの子であるなら、遼も同類なのだ。

 ―――家からバイクで行けば良いのではないか‥‥‥。

 自宅からここまで、父は一時間足らずで着いた。しかも、寄り道をしてであった。田中氏の話を足しても、家から北高まで一時間余りで着けるという勘定なのだ。

 ―――よし。バイクの免許を取って、家からバイクで通ってやれ。

 遼の心はすでに転校先を、京都府立嵯峨野北高校に絞り込んでしまった。和歌山県立桐蔭高校も魅力的ではあるが、竹林回廊・愛宕山の自然と保津峡の雄姿、僅か一時間余りの通学時間。迷うことなき北高選択であった。

 ―――明日からといわず、今日から再び猛スタだ。

 期末に全力投球、それが終われば夏休み。もちろん転入対策オンリーだ。頭の中にアバウトではあるが、フレキシブルでかなり強固なタイムテーブルが描き出され、科目と内容がカシャカシャとボードに埋め込まれていく。こうなると現金なもので、遼は帰りたくてウズウズしてしまう。が、それは身勝手というものなのだ。父と田中氏には積もる話が山ほどあって、懸案事項が終われば自然とハリマオに行き着く。

「平山さんは、まだ一人?」

 平山という名前が出たとき、

「え、‥‥‥うん」

 父の口からぎこちない、いかにもバツの悪そうな返事がもれた。田中氏も不適切な質問に気づき、居間に気まずい沈黙と緊張の糸が走る。背を向けていても何となく雰囲気が伝わってくるものだ。話題の主のフルネームは平山和子。高校の教師だった。十数年前、山で負傷したときハリマオの一行に助けられ、それが縁でメンバーになったと遼は母から知らされた。高槻の家へも時折訪れたことがあったが、あるときを境に急に来なくなった。遼の脳裏には、消したくても消えることのない光景が残っていて、浮かぶたびに、言葉では言い表せない喪失と拒絶感に襲われてしまうのだった。父と三人で、金剛山へ二台のバイクに分乗したとき、

「‥‥‥遼君! お姉ちゃんと一緒に暮らすのは、嫌? ねえ―――」

 山頂でおにぎりを頬張る遼の前に、突然しゃがみ込んで泣き崩れた。遼が八歳の時だった。〈慟哭〉、当時はまだ形容する言葉を知らず、遼はただ呆然と見つめるだけだったが、彼女は絞り出す声で天を仰ぎ絶望に震えていた。

 中庭の紫陽花に遊ぶ、二羽のアゲハにことさら目をやり遼が聞いた限りでは、平山和子は今もハリマオのメンバーで、三十六歳の独り身だった。

「‥‥‥邪念、妄想、没、没、没。さあ、キック・オーフ!」

 遼は笠田の〈おマジナイ〉を呟くように念じ、右足に渾身のパワーを込め、忘却ボールを天高く意識の外に蹴り上げてしまった。二カ月後に、嵯峨野北高校に転校できるかの瀬戸際に立たされているのだ。平山和子にかかずらう余裕など、遼にはまったくなかった。

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