第3話 我が胸の奥に
〈われ思う、ゆえにわれあり〉と、看破したのはデカルトであるが、青年期の悪癖なのか、それとも有り余る時間を持て余し、児童期の空想癖が復活したのであろうか。入学式までの半月余り、サッカー部の新人練習を拒否って、遼は終日、自室でぼんやりと時を過ごした。
味わったことのないゆったりとした時の流れに身をゆだね、練習に明け暮れた体の反動をもてあます長い一日。一週間もすると、自己の存在すら怪しげに思えてきて、大林可奈子との性体験さえ、まるで夢まぼろしの如く来し方の遠き波間に霞んでしまう。が、日を追うにつれ激しさを増す、衝き上げる疼(うず)きは遼の存在の証(あかし)であるとともに、可奈子の死が厳然たる事実として、十五歳の心に重くのしかかってくるのだった。
ベッドに横たわり、中学時代の思い出に浸っていると、八カ月前の出来事と、それに続く五カ月余りの日々が走馬灯のように瞼に浮かんでは消えて行く。可奈子の涙の顔を思い出すと、沢中千鶴との性交にうつつを抜かす自分が軽薄で、遼は後ろめたくなって自己嫌悪に陥るのだった。
―――ひどいショックを受けてしまったのに‥‥‥。
二、三日―――いや、一週間は食事がすんなりと喉を通らないほどの衝撃だった。衰弱し切った息子の異常に驚き、母は医師に助けを求めたが、父は体の病でないと読んだのだろう、母と好対照だった。経験的判断と同性の強み、息子にとってはうとましい限りであるが、父に見透かされてしまっていた。去るものは日々に疎(うと)しというが、俗諺を地で行く結果がもたらされたのだ。
―――可奈子に殉ずる!
大袈裟な言い回しであるが、少なくとも女のことは考えないとの悲壮な決意だったが、肉体の支配がいかに困難か、父の読み通りすぐに思い知らされしまった。崇高な決意は一カ月と持たず、打ちのめされたのだ。今も目を閉じると、脳裏に浮かぶのは可奈子の裸体で、悩ましげな顔と声まで網膜と聴覚に甦ってくる。
八カ月前までは単なるクラスメートの域を出るものではなかった。容姿や性格から、互いに好意を持ってはいたが、特別の存在ではなかったのに、サッカーの対抗試合が二人を結びつけてしまった。早川の専門である心理学的分析によれば、沢中千鶴への中断した性行為の続行欲求が後押しした、ということになるのであろうが、可奈子には無縁のことで、まさに乱闘が縁結びの起爆剤だった。ゴールへのシュート直前、他校選手が遼に手をかけ、転倒させてしまった。この程度ならよくあることで、乱闘には至らなかったであろう。が、故意に右手まで踏みつけられたのだ。カーッ! と頭に血が上り、
「きさまッ!」
立ち上がりざま、遼は負傷した右手の痛みも忘れ敵の襟首をつかんだが、
「何すんじゃ! コノヤロー!」
副キャプ(副キャプテン)の笠田が瞬時に股間を蹴り上げてしまった。
「やってまえー!」
度重なる反則に業(ごう)を煮やした野川と栗田も連鎖的に呼応し、目の前の相手校選手に飛びかかると、山手中・唐中(唐崎中学)恒例の、両校入り乱れての乱闘の開始だった。
「おい! やめれ! やめれ! こら! やめんか!」
監督の制止で、ようやく沈静したが、相手校に数名の負傷者が出ていた。
遼たち山手中は、四天王と恐れられる―――キャプと副キャプそれに野川・栗田が退場処分を受けたが、なぜか唐中に退場者はなかった。強豪唐中相手に一人欠けても致命的だが、主力が四人も抜ければ結果は瞭然だった。残存メンバーは瞬く間に逆転を許してしまい、スコアも記録的大差となる惨敗だった。試合終了ホイッスルに、グラウンドの山手中応援席は悲鳴と落胆の溜め息で埋め尽くされてしまった。
「なんで俺らの方だけ退場で、唐中はそのままやったんや!」
府下ベストエイトがかかっていたのだ。試合終了後も、不公平な処分に血の気の多い西山がこだわっていると、
「なにをゴチャゴチャ言うてんのや! 文句あるんやったら、やめてしまえ!」
コーチの河波は、西山の腹を蹴り上げたのだ。遼が河波を羽交い締めにしたが、
「草野! キャプテンのお前がボンヤリやから、こんなことになったんや!」
ここぞとばかり、遼を嫌う体育教師の原田が、遼の頬を力まかせに叩いたのだ。
「野球部のコーチが何すんじゃ!」
野川と栗田が原田に飛びつくと、笠田が十八番の〈必殺股間蹴り〉を見舞ってしまった。
「ワー! やれ! やれー!」
相手を変えた乱闘の再現で、教職員・生徒入り乱れての乱痴気に、試合中に劣らぬヤジと怒号が巻き起こり、事態収拾にパトカーまで出動する始末だった。
「‥‥‥草野、腹立つやろけど、原田のアホのことはもう忘れろや。あんなゴマすりのエコヒイキは考えるだけ、こっちがアホ見るわ」
衆目の中で罵倒され、反撃の機会もない、不条理で不意を衝く卑怯な殴打だった。怒りが治まらないのは誰の目にも明らかで、笠田の慰めも遼の耳に届かなかった。
「‥‥‥な、草野。一緒に帰らへんのか?」
騒ぎが治まり、茜色に染まるグラウンドでチームメイトが帰り仕度を促すが、遼は帰る気が起こらなかった。一人部室で着替えを済ますと、教室へ入り、机に足を投げ出しゴンッ! と痛みも忘れ右こぶしに怒りを込めて机をたたいた。試合に負けたことより、退場処分を受けるべき者が受けなかった不条理、遼たちの抗議を受け入れず相手校の監督やコーチに気を遣った、教師たちの軽薄さ卑屈さが我慢ならなかった。
―――親に叩かれたこともないのに。よくも、あんな中で!
遼の目から、悔し涙がポロリと落ちた。慌てて右腕で涙を拭うと、
「‥‥‥遼クン」
戸口の陰から涙声が洩れてきた。振り向くと、可奈子が下唇を噛んで体を震わせ泣いていた。溢れる涙は頬をぼうだし、夏服にしたたり落ちて豊かな胸のラインを映し出していた。
「帰れっ!」
涙を見られ、遼は荒々しく背中を向けてしまった。
「‥‥‥ごめん、怒らないで。心配だったから、付いて来たのに。ねぇ、右手、大丈夫なの?」
胸が締め付けられ複雑な感情が込み上げてきて、可奈子は帰れなかった。体の震えが止まらないのに、足は引き寄せられるように遼の背後へ動き、哀願口調でもたれかかった。かぶさるように、後ろから血に染まる右手をのぞき込んだ。
「なんともないったら! 大丈夫だから‥‥‥」
ぶっきらぼうに答えたものの、遼の意識は突然、背中と肩に釘付けされてしまった。可奈子の胸が驚くほどふくよかであった。黒髪の甘い香りにまで鼻腔が刺激され、遼はくらっと眩む心地だった。細面(ほそおもて)ですらりとした長身だが、外形に似合わず、柔らかく弾力のある体であった。
現金なもので、性的興味がほとばしるように湧き上がって、可奈子の攻略に全エネルギーが注がれ始めた。サッカーで育まれた、相手の弱点を攻め一気に突き崩す攻撃パターンが、遼の意欲を後押しした。可奈子は自分の支配下にあるマイボール、との確信がすでに生まれ始めていた。
不快な思いをさせた埋め合わせなのか、その後の展開も見えざる手の働きを感じさせるものだった。可奈子の両親は旅行に出ていて、帰宅は翌日の日曜日であった。
「いやな思いをした後は、エエことが待ってんやで、遼ちゃん」
にやけのしたり顔で、早川に耳元でささやきかけられる思いだった。
街路灯がオレンジ色に小さく点る夜道を、可奈子の家まで二人黙って歩いた。鎮守の森裏手にある、檜門と石垣で囲まれた邸宅然とした旧家へ着くと、
「十時に叔母さんが来てくれるまで、ゴンと私だけなの。さあ、上がって、包帯を取り替えたげるから」
勝手口のドアを開け秋田犬の頭を撫でながら、可奈子は声を落とし、甘えるように遼を招き入れた。
「‥‥‥」
体が小刻みに震える、静かな時の流れだった。二人だけの家で、彼らを妨げるものは何もなかった。これから起こる、漠然とはしているが踏み込むことは確実な未知の世界に、互いの鼓動がリビングに響き渡るほど、激しく胸が高鳴っていた。
炎を宿す如き熱い手が、ぎこちなく遼の右手に白い帯を巻き終えると、可奈子は怯えと諦観の入り交じる瞳で遼の意思を確認し、彼の手を引いて離れの自室へ向かった。
「‥‥‥ねぇ、お願いだから、最後のことだけはやめてね。本当に、お願いだから」
遼に何度も念を押して、可奈子は震えながらベッドに体を伸ばし両手で顔をおおった。鼻腔に漂う甘ずっぱい微臭は、遼が初めてかぐ香りだった。
パイロットランプのほのかな灯りの下で、その夜、遼は女体を隅々まで、余すところなく観察したのだった。
大林可奈子とは、彼女が不幸な死を遂げてしまうその年の暮れまで、半年ほど続いた。実験材料さながら、体の隅々まで探られたときは、恥ずかしさと戸惑いから、
「‥‥‥誰にも言わないでね」
と、別れたくせに、二日後の月曜日から、可奈子は恋人気取りで遼に接してきた。ねぇ、と甘い声で、授業中にまで後ろの席から手を伸ばし、遼の肩や背中に触れては、たわいない話題を投げかけるので一時は閉口したが、山手中一の美人を我が手に入れた優越から、自ずと口元が緩んだ。
可奈子の部屋を訪れる水・金の二日は、既に形成されていた殺人的スケジュールに新たな難マークが書き込まれてしまった。サッカー部の早トレ(早朝トレーニング)開始が午前七時。チームメイトと違い、遼には一時間のハンディがあり、六時前に自宅を出る必要があった。彼の一家は遼が中学校へ入ってすぐ、高槻の今城塚古墳近くから茨木の追手門学院大学裏へ引っ越してきた。遼と十歳離れた妹の愛が、突然、重篤な喘息発作を起こしたのだ。祖父の因子を受け継ぐ遺伝性のものであるが、名神高速道路と国道171号線が生み出す排ガス、この地特有の気流の相乗効果も遠因。両親の出した結論で、茨木への転居に家族の異論はなく迅速だった。
転居先は母の生家で、父と不仲の祖父が長期入院中とあらば、何の障害もなかったのだ。孫を案じる、祖母の離れ建築も父に追い討ちをかけた。幼い日の記憶が詰まる広い敷地と緑に恵まれた母の生家。遼にとっても転居に不満はなく、むしろ望ましいものであった。が、転校だけは賛意を表明できなかった。小学校のサッカー仲間、中学の部活仲間もすでに形成されていて、彼らとの決別は思春期の、青年にさしかかる少年にとっては特につらいものだった。
転校を巡る母との闘争は熾烈で、互いに一歩も引く気がなかった。彼女は自分の母校でもある、地元中学への通学を望んだのだ。安全で、何よりサッカーと息子との切断が図れるのだ。妥協不能と目される事態であったが、度重なる愛の発作が父の裁決権行使を余儀なくさせてしまった。
「そんなことでもめている場合じゃないだろ。しばらく通ってから、転校を考えればいいんだから」
事実上の、遼の勝利だった。
バス・電車の乗り継ぎはロスタイムが大きく、チャリ(自転車)通学が遼の主張で、この点も母は譲歩を余儀なくされてしまった。
チームメイトより一時間の早出、山あり谷ありの二十キロのロード駆け。それに続くサッカー部の早トレは、体力に恵まれた遼にとっても辛いものだった。五十メートルのダッシュ十本で息が上がり、すでにヘトヘトだが、基礎トレ・パス・シュート・・・授業開始まで延々と過酷なメニューが続く。
放課後の練習はメンタルトレーニングと時間増で、心身ともにくたくたになる。よくこれで大林可奈子の部屋へ忍び込めるものだと、我ながら感心してしまったが、湧き上がる止めどない性欲は疲労などものともしなかった。可奈子の裸体に接したい。この願望を満たす負荷なら、喜んで受容したい。そんな心境だった。
異性の体の知り初めは狂おしいほどのエネルギーを生み出し、遼を果てしない探索の世界へ引きずり込んで行った。成熟途上の女体は、どこを見ても、どこに触れても遼を飽きさせることはなかったのだ。
最高の学期、可奈子の死がなければ―――彼女が生存しさえするなら、未来永劫にわたり、遼にとって最高の学期になっているはずであった。勝ち残りの結果、年末まで試合に追われたクラブのハードトレーニングも、早朝と暗い夜道のペダル漕ぎ―――可奈子を想う、夢のような二時間で苦にもならなかった。帰宅後、三時間の学習メニューも同様で、母が教鞭をとっていた高校へ可奈子と入る、この暗黙の了解が睡魔すら寄せつけなかったというのに。可奈子には受験の機会さえ与えられなかった。
可奈子の父は府内に十四の営業拠点を持つ、中堅の住宅会社を経営していたが、十二月に入ると急速に資金繰りが悪化した。バブル崩壊後の不動産担保価値下落が尾を引いたまま、経営改善の打開策が見つけられなかった。不良債権処理を終えたはずの銀行にも冷たく見放され、〈刎頸(ふんけい)の友〉と呼び合う経理担当専務の裏切りも重なって、闇金融に大きな負債を負う羽目に陥ってしまった。期末テストを明日に控えた水曜日、可奈子の部屋を訪れると、
「今日、銀行取引停止処分を受けたの。だから会社は倒産するしかないって‥‥‥」
泣きそうな顔で、加奈子は遼を見上げた。金策に駆け回っていた父も、万策尽きてしまったのだ。
「‥‥‥お父さんがおかしなことを口走るの」
創業祖父から三代目。苦労知らずが弱点を露呈してしまったようで、可奈子の父は心身ともに憔悴し、精神的にも肉体的にも限界に達していた。
「もう私が誰だか分からなくなっているの。あんなに優しかったお父さんなのに、まるで別人みたいなのよ‥‥‥。怖いの、怖くて堪らないわ」
可奈子は遼の胸に顔を埋めて震えていたが、
「こんなつらい思いをするんだったら、お母さんは死んだ方がましだって言ったわ。私に、一緒に死んでって頼むの。―――でも私は死にたくない。死ぬなんて嫌よ! あなたともっと生きたい。‥‥‥生きたいのにー!」
母の言葉を思いだし、可奈子はこらえ切れずに遼の胸に泣き崩れしまった。
翌日、期末(試験)に入ったというのに、可奈子は学校に出て来なかった。国語のテスト中、遼は後ろの空席が気になり、字面を読むのも困難で、何を書いたかも記憶にすら残らなかった。答案用紙の回収が終わるや否や教室を飛び出し、部室へ駆け込みスマホで可奈子を呼び出してみたが、むなしい呼び出し音がプレハブルームに響くだけだった。担任の説明も要領を得ず、三時限目の社会が終わるや、遼は家に直行するが、
「キュン、キュン」
ゴンが尾を振って垣根越しに迎えるだけで、門も雨戸も固く閉ざされていた。
「ワォーォン!」
天を仰ぐ、ゴンの悲鳴にも似た遠吠えに、突然、遼の胸は不安のどん底に引きずり落とされてしまったが、
―――まさか!‥‥‥。
無理に掻き消す以外なす術がなかった。チャリ置き場のチームメイトの野田宅へ走り、声もかけず、逃げるように帰路についた。
重苦しい日で、天候までどんよりと重かった。後ろ髪引かれる思いでペダルを漕ぎだすと、間も無く鉛色の空が湿りを帯びた雪を舞わせ始めた。継体天皇陵近くの丘に差しかかると、すでに視界は真っ白な銀世界だった。木も草も土も、コンコンと舞い降りる意地悪な妖精の営みに、遼の心とかけ離れた謎めいた幽玄を醸し出していた。
住宅街はずれの下り坂に差しかかったので、普段の感覚で右手のブレーキを握ると、後輪が突然前方に飛び出し、ズシャー! と横転してしまった。ガードレールにチャリもろとも突っ込む激突だったが、積もった雪がショックを和らげ、肩の打撲だけでかろうじて遼は重遼を免れた。
シューズに服、髪の毛までシャーベット状の雪にまみれ帰宅すると、待っていたかのように玄関奥の電話が着信音を鳴らせた。チームメイトの大林扶佐夫からもたらされた訃報で、倒産を苦にした可奈子の父による無理心中だった。
受話器も置かずに呆然と立ち尽くす遼を見て、応接間から出て来た父の直樹は異変を感じ取ったのだろう。息子から女生徒の死を聞き出すと、
「さぁ、行くぞ!」
一言発しただけで、黙って遼をCX5の助手席に乗せて、可奈子の家へ送ってくれたのだった。
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