【燃えよ我が恋、青嵐】(順心病院理事長の止血関与疑惑事件と正五郎のパワハラ死。これらに先立つ24年前の高校生活を描いた嵐山-保津峡-堺が舞台の、五兆円の埋蔵貴金属と外科医を目指す高校生六人)

南埜純一

第1話 心理学博士・早川久男

生物学的意味の種の保存―――この視点から男女を眺めると、その差が一段と際立つ。父の三十年来の親友で心理学博士、早川久男の持論であった。


「おう。遼ちゃん、遼ちゃん。ちょっと御邪魔するで」

 

はあはあと二階への階段で息を切らし、毎度酔って遼の部屋へ上がってきては、トロンとした目と薄くなった頭頂部をゆらしながら、早川は草野家の長男に講義口調で語りかけるのだった。


「遼ちゃんはまだ中学生やから、女性とエッチしたことないやろけど、セックスの快感は女のほうが男より遙かに広うて深いんやで、という話や。おっちゃんは男やから女性の快感は経験したことないけど、ま、科学的に実証されてんのや。何でやいうたら女性の場合、出産・育児というしんどい仕事が後に控えているからなんや。しんどいだけやったら割り合わんやろ。いい思いをしたら、しんどいこともちょっとは我慢できるからな。ま、こんな風に出産・育児という、種の保存に直結する事象から眺めると、セックスも結構、分かり易うなるやろ。自然界はホンマにうまいこと出来てんねんやで」

 

大学教授と思えない内容を、講義口調で話す早川だが、ひ弱で運動オンチのコンプレックスが補償的に作用するのか、それとも子供がいない寂しさがなせる業(わざ)なのであろうか。遼の評価を得ようと、早川は可笑しいほどの熱弁を振るうのだった。


「ね、遼。お母さんも初めは戸惑ったけど、早川のおじさんはああ見えても、行動主義心理学者としてかなり有名なのよ」

 

行動主義心理学の創始者ワトソンの正統派後継者の一人だと母から聞かされていたこともあり、大学で一体どんな実験をしているのか遼が興味津々で尋ねると、


「うん。ごく最近やったんは、ネズミを交尾させながら彼らに餌を見せる実験やねん。雄(おす)はチラチラ餌に目をやるんやけど、雌(めす)は恍惚とした表情で、餌にあんまり興味をしめさへんねんや。雌ネズミにおける性欲求と食欲求の優劣の確認がテーマやったんやけど、おっちゃん、途中から雄ネズミばっかり見てたんや。おもろいやろ。人間もネズミも一緒なんやで。移り気でフワフワしてて雌に付随する、それ自体独自の存在意義を持ってないのが雄なんやろな。交尾中でも餌に目をやる、あの雄のアホ面見てたら、何や寂しいなってしもたわ」

 

酔っているので本当なのか冗談なのか判別困難であったが、いずれにしても淡々と講義口調で答えられたときは実験内容に呆れるとともに、十四歳の遼はネズミの雄に妙な親近感を覚えたのだった。

 

セクハラ、アカハラに次ぐレクハラ(レクチャーハラスメント)ガードであろうか、〈生物学的意味〉という限定を付けるのを忘れない早川だが、その彼が一度だけ、十四歳の遼に鳥肌を立てさせる事実を真剣真顔で語ったことがあった。


「おっちゃんはな、遼ちゃんも聞いてるやろけど、医学部へ入学して外科医になろと思てたんや。かっこエエやろ、メスを握って死にかけの患者を助けるのって。せやけどな、学部へ上がって死体を前にした解剖の実習で、『うーん!』と呻(うめ)いて気を失のうてしもたんや。こらアカンわ、と思たな。医学部生が解剖如きで気絶したらシャレにもならんさかいな。ホンマはすぐにでも文学部へ転部したかったんやけど、親が大反対で、結局医学部は出て医師資格だけは取ったんや。つまり精神科を専攻するフリして医学部卒業してな、卒業後はキッチリ心理学にのめり込んで行ったというわけなんや」

 

ここまではいつもの早川ぶしとでも言うべきもので、何ら鳥肌事態ではなかったが、これは単なる序章であったのだ。


「ところでな、遼ちゃん。おっちゃんが母校の医学部へ入ったんは、心臓外科の権威・野々口豹一郎(ひょういちろう)博士が医学部教授で、野々口先生に憧れてのことなんや。お父さんから聞いて知ってると思うけど、博士は医学部生の時に軍医見習士官として陸軍へ入り、若くしてドイツにまで派遣されたくらい優秀な人やったんや」


よほど尊敬しているのか、野々口博士を語る早川の口調は自信にあふれていたが、


「こっからが秘密なんやけどな、野々口博士はドイツでなに研究してはったと思う。当時としては最先端のクローン研究してたということが、最近分かったんや。もう七十年以上も前に、ヒットラーの鳴り物入りで始まったといわれる研究に、日本人医師として参加してはったんや。このことが分かったんは、ホンマに偶然やったんや。遼ちゃんも知っての通り、母校の150年史の編纂に、遼ちゃんのお父さんとおっちゃんも委員に選ばれてな、野々口先生の資料棚を整理してたらものすごいもんが出てきたんや」

 

早川は徐々に声を落とし、青ざめた顔に変わってしまった。確かに話の内容は、十四歳の少年にとってもその理解を遥かに超えるもので、SFまがいの出来事であったのだ。が、早川のこれまで見せたことのない口調と仕草は、学習デスクの明かりの下で、嘘偽(うそいつわ)りのないことを十二分に証明していた。

 

野々口豹一郎は戦後もある革新団体のメンバーとして研究を続けていたが、その団体は系列病院内で昭和三十年代前半まで、患者を使い人体実験さながらの臨床治験を患者に施していたこと。陸軍が国内に隠していた、現在の時価にして五兆円近い財宝の所在は、いまだ不明であること。この財宝は、戦時下で国民から供出させた金属の内、兵器に転用不能であった金や銀、ダイヤ等の宝石までも含む貴金属である可能性が非常に高いこと。この財宝について、戦時特集を組んだ雑誌に軽く私見を述べただけなのに、〈財宝の在り処を野々口豹一郎が知る〉との誤った情報が流れてしまい、自身の身に危険が迫っている、という内容のメモ書きが蔵書の間に挟まっていたというのだ。


「その革新団体はな、表面上は平穏な政治活動をしてるように装ってるけど、本質はプロ革命家による人民主権国家樹立を目指す、極左団体なんや。しかもな、団体内部には闇の武闘組織や暗殺集団が存在してて、数々の犯罪行為に関与してたことが、具体的な事実を摘示して書かれてあったんや。国家ぐるみで暗殺や通貨偽造を行う北朝鮮の、まるでジャパニーズバージョンみたいな団体やな」

 

よほど恐ろしい内容であったのか、早川は震える左手で眼鏡を外し、右手で額の汗を拭(ぬぐ)った。


「お父さんも知ってるん?」

 

その夜の遼の質問は三つだけだった。


「うん、そうやねん。遼ちゃんのお父さんはな、そのメモ読んで、『早川、これは俺が預かっておく。口外は無用にしろ。いま明るみに出しても信用されないし、我々の命が危ない』って、胸ポケットに仕舞い込んだんや。内容から判断して、おっちゃんらの身に危険が及ぶと考えたんやろな。遼ちゃんのお父さんが居てくれて、おっちゃん助かったわ。喋ってたら今ごろ、命なかったで。お父さんとは中学時代からの付き合いやけど、お父さんは今の遼ちゃんとそっくりでな。おっちゃん、弱虫やったんで、いっつも遼ちゃんのお父さんに助けてもろてたんや。当時は恐いヤツ、一杯いてたさかいな。中学生のくせして、ⅡB(にぃびぃ)弾の火薬集めて、それを鉛筆キャップに詰め込んで爆弾まで造りよるヤツもいてたんやで」

 

イスラム過激派のテロや近隣独裁国家による侵攻が身近ないま、別組織のテロを現実のものと受けとめる素地があり、早川はまだ震えが止まらない手でハンカチを広げ、もう一度、額に浮いた汗を拭った。


「ふーん。で、その財宝のありかは?」

 

早川の怖がり方が大袈裟で、遼にはおかしかったが、あえて触れずに一番興味深い二つ目の質問を口にしたのだった。


「いや、それはメモには書いてなかったけど、ある程度の場所は突き止めたという感触は得てるようやったな。野々口教授が忽然(こつぜん)と消えたんは、場所を知ろうとする魔の手の存在を感じたからやろうな。しかも魔の手と思われるんは、一つやのうて二つも三つもあるようなんや。さっき言った極左団体は分かるんやで。彼らにとっては、致命的ともいうべきスキャンダルを握ってんのが野々口教授やし、しかもその財宝を手に入れたらすっごいこと出来るやろ。闇の武闘組織や暗殺集団にとっては一石二鳥やからな」


この分析には自信があるのか、早川は何度も頷いてから、少し間を置いて続けた。


「後の一つは、どうやら国防組織らしいねん。自衛隊の一派か、防衛省のトップまで巻き込むグループかは、おっちゃんには何とも言えんけどな。遼ちゃんも中学校の社会で習ったと思うけどな、あの二・二六事件。あの時と同じような国粋主義を奉(たてまつ)る一派が生まれてるらしいんや。このごろ北朝鮮、無茶なことして日本を嘗めよるやろ。テポドン撃ったり、火星とかいう訳の分からんミサイル発射して脅しよるやろ」


北朝鮮に対して不快が込み上げてきたようで、早川は顔をしかめた。


「この北朝鮮と中国の脅威に対抗するために生まれたんが国粋一派なんやけど、この過激な国粋一派に核武装を主張し軍事大国を目指す極右一派が共鳴して、手をつないだらしいんや。ロシアのウクライナへの横暴見てたら、明日は我が身やからな。ほんまに、二・二六事件のときの皇道派と統制派の関係とそっくり同じもんが出来上がってしもたみたいで、まさに歴史は繰り返すんやな」


早川からウクライナの戦闘を引用されると、遼も前のめりになってしまう。ロシアへのウクライナの反撃はまさに拍手喝采だったのだ。


「それとな、あと一つ分かってんのは、最近鳴りを潜めてる、アジヤ人の犯罪一派なんや。インターネット上で仲間を募り、平気で凶悪犯罪をやってのける連中のこと、遼ちゃんも聞いて知ってるやろ。そいつらも財宝を狙いだしてるらしいんや。誰か知らんけど、ネット上にいい加減な情報を書き込んでな、すぐ消去されたらしいんやけど、それが独り歩きして野々口先生の身に危険が及ぶようになったと書いてあったな。せやけど先生が何でそんなメモを残したんかは、今もって謎やねん。処分するのを忘れてしもうたんか、それとも家族を守るために、自分しか知らんことで、家族は何の関係もないと敢えて書き記したんかな」


遼の反応に我が意を得て安心したのか、早川は説得一辺倒の口調を離れ、疑問を口にして眉をひそめた。


「いずれにしても旧日本軍の隠し資金は、これまで何度も裏の世界を賑わしてきたんや。フィリッピンの故マルコス大統領が政権を取れたんも、ルソン島に隠されていた旧日本軍の金塊を掘り当てたからやいう説が有力に主張されてるさかいな。そやそや、〈白い巨塔〉いうドラマが高視聴率とって評判呼んだんは、遼ちゃんも知ってるやろ。四十年ほど前に放映された前作もすごかったんやで。その時の財前教授役してた俳優、おっちゃん大好きやったんやけど、彼を自殺に追いやったんもM資金いうて、これも旧日本軍の隠し資金がらみの事件やった、という話や。野々口教授はS資金と名付けてたけど、おそらくシークレットの頭文字〈S〉を使うたんやろな。遼ちゃんのお父さんは、いつかそのS資金を見つけだして、世の中のために役立てようと思てんちゃうか」

 

息子が父親に不信感を持つといけないと考えたのか、早川は遼の父を弁護したが、このあたりから平常に戻って、汗を拭く右手の動きが緩慢になった。


「二年二組にこの五月、野々口英世という生徒が転校してきたけど、いま出てる野々口教授と関係あるのかな?」

 

遼の最後の質問だった。堺から丁度一カ月前、学校近くのアパートへ引っ越してきた生徒の姓が野々口なのだ。


「さあ、どうやろ? ただ遼ちゃんと同い年やったら、先生の孫さんにあたるんやろな。野々口いう姓はあんまりない姓なんで、ひょっとしたらお孫さんかも知れんな。特に野口英世に因(ちな)んで命名したということは十分考えられるな。いずれにしても先生は全くといってええほど、おっちゃんらには私生活を明さん人やったんで、よう分からんけどな。せやけど、あのメモ見て、なんで私生活明さんかったか、ホンマによう分かったわ。家族に危害が及ぶんを恐れてたんやな。な、遼ちゃん。いま話したことは、お父さんには内緒やで。遼ちゃんに喋ったことバレたら、おっちゃん、遼ちゃんのお父さんにエライ怒られるさかいな。怒られるどころか、絶交されてしまうがな」

 

遼の肩に両手を乗せて、早川は哀願口調だったが目は笑っていた。このとき初めて、遼は心理学者早川久男の新骨頂を垣間見たのだった。遼が父に話さないのを確信しての、親友の息子との秘密の共有。十四歳の少年に適切な表現が思い浮かばなかったが、何か複雑で屈曲した世界が、漠然とではあるが目の前に広がっている感覚に襲われたのであった。

 

失踪名誉教授の秘密を打ち明けられ、これを機に遼が認識を新たにした早川久男であるが、その彼がしばしば訪れる草野家は大阪府茨木市の北部丘陵に居を構えていた。遼の曾(そう)祖父が生まれたとき、すでに北摂の住民だったという古くからの北摂の民人(たみびと)で、


「草野家の春は、匂い立つ白梅の香りで始まる」

 

との母照子の口癖が大袈裟でない、樹齢百年を越す白梅の古木が、こんもりとした枝振りで草野家の主さながら三十坪余りの中庭に鎮座していた。

 

三年前、四年ぶりに隣市高槻から茨木の生家に両親ともども戻ったときは、遼は懐かしくて中庭を望む二階の八畳間を自室として選んだのも、この白梅を眺めたいがためであった。


ところで初年度も翌年も白梅を眺める心情に格段の変化はなかったのに、三年目の今年、遼は苦々しい思いで白梅の蕾を眺めていた。〈可塑性に富む、人格発展の節目になる年〉。十五歳をそのように位置づけてきたのは、中一のときに読んだ青春小説の影響であるが、この一年、紆余曲折はあったものの節目になる年にふさわしい体験も積み、心は思い描く高校生活の準備に余念がなかったのに、最初の一歩につまずいてしまった。高校サッカー界で名を上げ、プロデビュー。自惚れでなく、中学三年間の実績と専門家の評価によれば、十分可能のはずであったのに、高校選択を誤ってしまったのだ。選択の誤りは春休み前にすでに親友から知らされていた。

 

―――公立一本にしとけば、内申点の操作はされなかったのかな‥‥‥。

 

この時期の特徴なのか、理想が潰えたときは即物的な思いに駆られ、見果てぬ夢に悶々とした日々を送ってしまう。築百年はゆうに経つクラシック屋敷に身を置き、家屋とほぼ同じ年輪を重ねる曾祖父購入の樫の骨董椅子。この重厚な愛用椅子から立ち上がって、真新しいセミダブルの白いベッドに移り体を伸ばすと即物的願望はいっそう加速されてしまうのだった。

 

―――高校へ入ったら、沢中千鶴と〈やろう〉と思っていたのに。

 

ぼんやりと腕枕で、太い梁の走る天井を眺めながら、父が勧めた公立高校に入学した千鶴を思い浮かべた。千鶴とは中二の時に同じクラスだった。遼とは学級代表のペアで、放課後、二人だけで教室に残り雑務に携わる機会が、文化祭や体育祭という行事の直前、時折巡ってきた。


「ね、草野君。今日はこれくらいで切り上げようか。ほら、こんなに暗くなってきたから。それに、余り遅くまで二人だけで残ってると、草野と沢中は怪しいんじゃないかって、悪い噂が立ってしまうじゃない。そうなると草野ファンの女子たちに私が恨まれるんだ」

 

体育祭、文化祭と行事を経るに従い、校庭の木々の衣が鮮やかな彩りを見せ、夕陽に赤々と照らし出されるが、日を追うに連れ残照は逃げ足を速める。秋の日は釣瓶落としなのだ。文化祭前日、グラウンドの出店場所を確認し、千鶴に促され校庭北隅の四階建校舎へ入ると、内は漆黒といってよい闇の世界だった。


「‥‥‥さあ」

 

クラスの女子で唯一、遼を名前でなく〈草野君〉と苗字で呼ぶ千鶴だったが、闇にたじろぐ仕草がおかしくて、遼は苦笑しながら右手を差し伸べた。


「うん」

 

差し出した左手を握って、三階の二年二組まで、闇の中を二人並んで階段を上がる。廊下のライトを点けようと手を伸ばしたが、遼はスイッチからすぐ指先を離してしまった。千鶴の手が燃えるように熱くて、ドクン、ドクンと脈打っていたのだ。


「いやっ! ―――遼君、やめて! お願い、あー!」

 

教室前で抱きすくめられ、千鶴は初めて遼の名を呼んだが、唇を合わされると体中の力が、ガクン、と遼の腕の中で抜け落ちてしまった。窓から微かに差し込む、ほの暗い月光に浮かぶ俎上の鯉。こちらが戸惑うほど千鶴は無抵抗で、眉間にしわを寄せ、鼻腔で小さく息を震わすだけだった。通常の男子であればためらいが作用して良い事態であるが、サッカー部の過酷ともいえる練習は、たくましい長身の体躯とはち切れんばかりの性的エネルギーを醸成していて、偶然と必然はこの時期、倒立円錐のごとき安定性の欠如を露呈するのだった。

 

唇を押しつけ、立ったままセーラーの胸に右手を這わせても、千鶴は身じろぎもせず壁にもたれ、なされるがままだったが、階段を上がる足音に、遼は慌てて千鶴の体を離した。担任の木坂だった。


「‥‥‥まだ居てたんか。あんまり遅うまで残ってんと、早よう帰りや。もうプログラムも出来あがってんやろ。沢中とこは近いけど、草野、おまえとこは遠いんやからな」

 

着衣の乱れや、ぎこちない千鶴の仕草から、木坂はただならぬ事態を察知したであろうが、定年近くになって事勿(ことなか)れ主義に感染したのか、それとも遼への配慮であろうか、無関心を装い、職員室へ戻って行った。

 

学年が上がるとクラスも変わり、千鶴とは話す機会もなくなってしまったが、卒業間際に一度、クラブの部室へ呼び出した。最上位の茨木高校受験が当然と思っていたのに、千鶴は茨木高校に興味を示さず、遼が受験する春丘(はるがおか)高校出願だった。怪訝に思い、後輩たちが帰ったのを確認してから、遼が酸(す)いたカビ臭い部室からスマホで呼び出すと、


「うん。二十分ほどで行くから」

 

耳元に、千鶴の乾いた迷いのない返事が返ってきた。


「‥‥‥」

 

薄暗い部室のドアを開け、近視の目を細めて机に座る遼を確認すると、千鶴は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、部室の壁に書かれたワイセツな絵や文字を眺め出した。処女を失うことに何のためらいもない、そんな決意が千鶴の仕草に現れていて、着替え入りの紙バッグが大胆な計画遂行を物語っていた。


「‥‥‥校門から入って来たのか?」

 

相手の覚悟のほどを知ると、遼は気圧されてしまい、かける言葉がすぐには思いつかなかった。本当に不思議な女だった。三人姉妹の一番下で、姉たちの男女交際を見ているからか、それともセックスに対する興味が強すぎるからなのか。沢中千鶴は普通の女生徒にない雰囲気を漂わせていた。休み時間もD・H・ローレンスの文庫本に目を落とすだけで、椅子から立ち上がることもなく、クラスの女子とあどけない会話を交わすことも皆無だった。


「ううん。グラウンドの金網の破れたところから」

 

口元に意味あり気な微笑を浮かべると、千鶴はようやく正面の遼を見つめた。父の転勤で東京から高槻へ越して来たので、口調がアカ抜けして軽やかだった。少数へのもの珍しさと憧れなのか、千鶴の東京下町弁を真似る者が多くて、二年二組では東京弁と大阪弁が拮抗あい半ばするほどだった。アルト調の低音も小さな体に似合わずアンバランスで、千鶴にどこか大人びた風情を醸し出していた。それに、目の動きも妙に気になるものだった。大きな黒い瞳がよく動くのだ。話していても、目だけがキョロキョロと、あたりを窺うように観察するのだった。


「おまえ、なぜ春丘にしたんだ」

 

覚悟を探る強い視線が注がれると、遼は目を逸らし、顔をしかめて言葉を吐いた。


「えっ!?」

 

千鶴の顔に明らかな失望が浮かんだ。なんだ、そんなことのためにわざわざ呼び出したのか、と遼をなじる落胆の色だった。


「俺が受けるからか」

 

千鶴が答えないので、遼が先回りしたが、彼女はドアの前にたたずんだまま、翻意を促す沈黙を決め込んだ。


「高校へ入ったら、〈やる〉ぞ!」

 

捨てゼリフを残して逃げるしかなかった。机から飛び降りると、遼は千鶴を押しのけ、部室のドアを荒々しく閉じたのだった。

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