第19話 交錯

何も、望みなどなかった。

弟の出生届が出されるやいなや、葉介と遼一は保護施設へ送られた。原因は、父親の逮捕だった。結婚詐欺。当時ではあまり名の知れていない罪である。


葉介は2歳。善し悪し関係なく、何も分からない年だった。だから、何も真実を教えられることはなかった。遼一はというと、自立できる年になるまで他の子供とは離れた部屋で職員に育てられた。もちろん、葉介とも離れ離れであった。


「…りょういち!」

「…!」


3年後であった。なおも幼かった葉介は、久々の弟との再開を喜んだ。だがしかし、生まれたての時から隔離され、生きてきた遼一である。兄についての記憶はほぼ無いに等しかった。


性格も違っていた。他の子供がいる中でわいわいと育った葉介は、感情豊かで明るく。一方で遼一は、その逆、職員によって黙々と育てられたせいか、喜怒哀楽のほとんどない、単調な子供に成長していた。


「遼一!」

「兄さん。なにしてたの、遅いよ」

「ごめん、忘れ物が…」

「もういいから、ほら、遅刻する」


葉介が高校に上がってからも、2人の性格は変わらないでいた。破天荒な兄を、冷静にサポートする弟。学校でも、ちょっとした有名人であった。


「おっはよーございまーす!」

「おい木垣。今何時かわかるか?」

「9時半です!」

「放課後居残りな」

「ひぇー、怖い怖い」

「今日は逃げるんじゃないぞ」


くすくすと笑いの起きるクラス。金髪の頭をてへっと撫でて、葉介は窓際の席に着く。そして有無も聞かず隣の席に机をくっつけ、教科書を覗き込んだ。


「ねね、今どこ?」

「…ん?ああ、この、電離平衡のとこ」

「さんきゅっ」


隣の生徒、瑠衣は板書の終わったノートとシャーペンを葉介に差し出す。艶のある黒髪は、生まれつきの美しさだ。


「ああそうだ、今日空いてる?放課後ゲーセン行こうぜ。それかカラオケ」

「居残りじゃないの?…まあどっちにしろごめん。今日バイト」

「ああ、そう。じゃあ週末な。どっちがいい」

「カラオケ。オールしよ」

「乗った!」

「…おいそこ!」


教師の怒号が飛び、二人は揃って背筋を伸ばす。

遅刻しておいていい度胸だな、と、今日も今日とて長ったるい説教が幕を開ける。二人は顔を見合わせ、にまっと笑みを溢す。それさえも、輝かしい青春の思い出の一つだった。



日は西に傾き、影が伸びてゆく時間帯。葉介は校門前を右往左往としていた。道に整列する電灯は順に点き始め、カラスの鳴き声が寂しく響いていた。


「…お」


ぴた、と落ち着かなかった足が止まり、葉介は門の影に隠れる。

葉介の視界に徐々に現れてくる、ふたつの人影。にやりと怪しく笑い、気づかれないようそっと近づいていく。


そして次の瞬間、思い切り飛び出していった。


「遼一!」

「うわっ」

「ほらー、やっぱ思った通りだ」


満足げに笑い声をあげる葉介と、絶句して固まる遼一。そして、その隣で体を寄せている、女性。


「お前、兄さんが気づいてないとでも思ってたのか?ははっ、ませてるなあ」

「や、やめろよ。別にいいだろ」


珍しく取り乱し顔を赤くする遼一。言い逃れできない状態を察知し、あえて否定しないところは何とも彼らしい。今度は横の女性が口を開いた。


「きが…葉介さん、このことは内密にしてもらえますか?」

「えー、どうしよっかな」

「お願い」

「でも、生徒と先生ってOKなの?」


葉介の正論に、二人とも黙り込んでしまう。遼一は16歳、教師の女は30歳。教師と生徒以前に、未成年と成人であることは、言うまでもない。


「それは…」

「ははっ、言うなればグレーだよね。まあ、やましいことしなけりゃ大丈夫か」

「兄さん」


我慢の限界が来たのか、鋭い声で遼一が言う。目が血走っている。


「…はいはい、さすがに言い過ぎたごめん。今まで見たことなかったからさ、こういうの。言わないよ。言ったところで何にもならないでしょ?」

「ほんと?」


疑心暗鬼の弟に何とか笑顔を作る兄。その間できまりが悪そうに佇む教師。


「…まあとりあえず、帰ろ?こんなとこで二人でいたら、ばれるよ?」

「…まあそれも、そうだ。兄さん帰ろう。先生すみません、僕はここで」

「え、ええ」


戸惑いを隠しながらも、教師は笑顔で手を振った。

それを背中で受け止めて、二人は学校をあとにする。


「…で。まあ彼女は良いのよ。先を越されたとかは言わない、俺がモテないだけだし。でも、何故に先生なの?」

「茶化してる。」

「茶化してないよ、単純に疑問なの」

「…なんか、女子が誰もかれも子供っぽく見えてきて」

「どんなとこが?」

「大したことないことでも、異常に笑ったり、叫んだり。傍から見ればうるさいだけなのに。どうにも理解できなくってさ」

「あー、言いたいことは分かる。分かるけど、そこまで気にすることじゃないでしょ」

「落ち着いた人が好きなの、俺は」

「いるでしょ、クラスに2、3人くらいは」

「喋らなさすぎるのも違うじゃん。こう、もっと大人の余裕を感じさせる人がいい」

「注文が多いなあ。んで、結果本当に大人に行きついちゃったわけ」

「というかなんで知ってるのさ、兄さん」

「噂で聞いた。なんていうんだっけ、あの先生。…あ、そうだそうだ、社会の神戸先生だ」

「ちっ、筒抜けだな」


苦虫を嚙み潰したような顔で、遼一はうめく。

葉介は堪えきれない笑いを浮かべ、そんな彼を見つめていた。

すると、

    ~♪~

聞き覚えのある曲がこもって聞こえてきた。ああ、と葉介は鞄を探り、ガラケーを開く。着信は瑠衣からだ。


「もしもし?」

『あ、葉介?今時間大丈夫?』

「俺は大丈夫だけど…どした?」


(先帰っとけ)と目配せをして、葉介はその場で足を止める。遼一は即座に察し、歩道を走って行ってしまった。


『今バイトから帰って来たんだけど、葉介はどこいるの?』

「あー…俺は、下校中。駅前の交差点のとこ」

『あ、それならちょっと頼みたいんだけど』

「ん?なになに?」

『駅に僕の父さんいないか、確認してきてほしいんだよね』

「お前の?そりゃあまた、なんで?」

『なんでも。とにかく見てきてもらうだけでいいから』

「うーん、そう?分かったけど…」

『さすが葉介。ありがと、報告待ってる』

「は、はいよ、じゃあばいちゃ」


食い気味に通話を切られる。葉介はキーホルダーでじゃらじゃらとしたガラケーを見つめ、ふうっと溜息を落とす。


「今度は何事だよ、あいつ」


なんせ長年の付き合いだ。声を聴くだけで、相手の気持ちは手に取るようにわかる。

瑠衣は確実に「緊急事態」である。過呼吸を何とか抑えていたみたいだが、丸わかりだ。


赤信号が変わった瞬間に、葉介は走り出す。瑠衣の父さんは小さい頃から良くしてもらっているから、分からないはずがない。やけにカラフルな柱の駅。田舎ならではのそこは、小学校のころからずっと使い続けている。

切符売り場に入り込み、目を見開く駅長に叫ぶ。


「ここで50歳くらいの男の人、見なかった!?色白で、眼鏡かけてて、背がおっきい人!」

「落ち着け落ち着け。え、なに、どうしたの葉介君」

「俺もよくわかんないんだけど、とにかく、瑠衣に頼まれたんだよ人探しを!見てない?」

「相変わらずタメ口か。…ごめんけど、そんな人は見てないね」

「そんなあ…」


うなだれる葉介を横目に、駅長はアナウンスをかける。


―まもなく、N南駅行きの電車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください―


カチャ、とマイクを置き、駅長はすぐさま葉介を振り返り言う。


「瑠衣君に直接聞けばいいじゃないか」

「え?」

「そんで二人で探せばいい。詳しい説明なしに探せるものか。ほら、走れ」

「…さ、さんきゅ」


葉介は定期で改札を通り、ちょうどやって来た電車に飛び乗った。夜の電車は作業服のおじさんがちらほらといるだけで、がらんとしている。つり革に掴まりながらも、そわそわと体を揺らす。ガラケーのキーホルダーが、落ち着きのない音を立てる。


―次はー、N駅ー、N駅終点です―


アナウンスが車内に響く。あっという間のようで長い、電車移動。

ドアの開いた瞬間、葉介は隙間をすり抜け出た。定期は既に手に握っていた。


この奥の、田んぼを抜けたら瑠衣の家。

すると、遠くの方で泣き叫ぶような声がした。微かだが間違いない。


「瑠衣だ」


葉介は走った。何があったのかは分からない。でも、それでも自分が行ってやらないと。あいつのために。


「瑠衣!る…い…」


狭い道の角を曲がったその途端、葉介は固まった。

辺り一面、煙を纏った空気が濃く充満している。視界が薄灰色に滲む。焦げた匂い、吸い込むとたちまち死んでしまいそうだ。

考えるより先に、葉介は袖で口元を覆い、必死に駆けていく。迷いはなかった。染みる両目に、家の門が映った。


「瑠衣!いるのか?瑠衣!」


出せるだけの大声で叫ぶ。のどがキリキリと刺すような痛みを負う。必死の思いで、葉介は門をくぐった。


「…!」


葉介は、言葉を失った。

玄関の前で膝をついて、すすり泣く瑠衣。目の前には、赤く燃え上がった木造の家。盆栽の木。犬小屋。どれも切なく灰と化している。ここは地獄か、と錯覚したほどであった。


「…はっ、瑠衣!何してんだ、早く逃げるぞ!」

「…!!」


驚いたように振り返る瑠衣。ごうごうとした勢いの炎にかき消され、声はお互いほぼ聞こえていない。しかしそれに応じるように、瑠衣はふらふらと立ち上がった。一酸化炭素が、彼の呼吸を妨害している。と、

瑠衣が突如として、満面の笑みをその顔に浮かべた。そして、


「…………、……………。」


分かったのは、何かを言っているという、ただそれだけ。頬には乾いた涙がへばりついていた。

はっと我に返った葉介は、次の瞬間には瑠衣の手を引いて走っていた。自身ももう限界が近かった。吐く息がゴロゴロと異常な音を立てている。


「葉介、」

「喋るな!」

「!!」

「変なところで強がるな。馬鹿」


瑠衣が俯くのが、横目で見て分かった。葉介はさらに強く手を握る。瑠衣の手に爪が食い込み、痕が付いた。そんなことなど気にも留めず、駅の方へと急いだ。






「…はあ、はあ、」

「げほっげほっ」


遠くの方で、救急車のサイレンが鳴っていた。二人は駅のベンチにうなだれ、空気を取り込むのに必死だった。


「瑠衣ちゃん!」


ふと、つんざくような声が聞こえ、見ると引きつった顔の老婆がすぐ横に立っていた。


「あ…どうも」

「無事なの?怪我はなかった?」

「はい、何とか無傷で」

「良かった…」


へなへなと座り込んでしまう老婆。どうやら瑠衣の隣人みたいだ。それを見下ろすようにして、瑠衣は小さく笑った。


「瑠衣ちゃん、あなたほんと、どれだけ心配させたら気が済むの?自分から飛び込んで行って」

「…瑠衣」

「ごめんごめん」

「ほんと、ぶっ飛んだことするわ。自分を大事にしろっつーの」


どっはぁー、と葉介は息を大きく吐く。瑠衣は他人事のようにあっけらかんとしている。葉介はここでようやく、本題を思い出した。


「なあ瑠衣」

「ん?」

「なんでお前、親父さんを俺に探させたの?」

「え、いや…」

「あれが、あったからじゃねえの?」

「!!」


明らかに、瑠衣に焦りの表情が浮かんだ。しかし葉介の突き刺すような視線に根負けしたか、フッ、と鼻で軽く笑った。


「心配、かけたくなかったけど…」

「ばーか。わからないと思ったか」

「ごめん。父さんなんだけど、学校に行く前はいたの。でも、帰ってきたら、家が燃えてて、父さんも、いなくて。念のため、葉介に連絡を入れた。その後、家の奥に取り残されているかもしれないと思って、」

「飛び込んだわけだな」


瑠衣は黙って頷く。少し焦げた髪の毛がぴょこんと跳ねた。


「瑠衣、お前の気持ちはよーくわかるんだけどな、あんなにめらめらしたトコに一人で突撃するのは無謀すぎる。お前賢いんだから、それくらい分かるだろ?」

「…で、でも!」


珍しく瑠衣が声を荒げた。


「だとしたら、父さんは一体何処にいるんだよ。普段外出もしない、あの父さんは!この駅に避難してたわけじゃない。なら、家の中しかない。唯一の家族を、失いたくないんだよ!」


葉介は耐えきれず目を逸らし、ふうっ、と息をついた。瑠衣は、無意識に現実逃避をしているのだろう。あれだけ激しく燃えているのだ。もし、あの中にいるとするのなら、もう…。


「瑠衣」

「え」

「俺んとこ来い。定期持ってる?」

「も、持ってるけど…」

「じゃあほら、早く」

「でも、警察とかに話を…」

「お前がもたなくなる」

「……」


黙って、瑠衣は葉介の後に続く。ベンチに座る老婆に会釈をし、ちょうど来た終電に乗り込む。椅子に二人並んで腰かけ、何を喋るわけでもなく、ただぼーっとしていた。ものすごい勢いで、サイレンの音が通過していった。


数日後に、それは火の不始末による引火であることが分かった。しかし同時に、妙なことがあった。瑠衣の飼っていた犬は焼死体となって発見されたのにも関わらず、父親の死体は発見されなかったのだ。完全に炭化してしまったのか、もしくはまだどこかで生きているのか。それすらも、分からなくなってしまったのである。


しかも悲劇は、それで終わらなかった。

火事のあった日から、わずか1か月後。葉介の暮らす保護施設に連絡があった。

「…お父様が、獄中で死んでいた、と…」

突然すぎることであった。連絡を受けた葉介は授業もそこそこに学校を抜け出し、留置所へと向かった。


「…ここです」


通された部屋は吐き気がするほど殺風景で、手前に添えてある花束だけが、皮肉にもその場に彩を与えていた。そして真ん中には、白い布をかぶせられた、懐かしい男の姿。


「…父さん?」


返事はないと分かっていても、呼びかける。次いで遼一が、部屋に入る。眉をぴく、とさせるだけで、何も言わず突っ立っている。


「…父さん!嘘だろ、父さん!」


ずかずかと近づき、揺さぶる。葉介は微かに覚えていた。寝起きの悪い父さんは、いつもこうしたら起きてくれた。今だって。そう信じていた。職員二人にすぐさま押さえられるが、その二人も、どこかばつの悪そうな顔をしている。何も知らないくせに、同情。葉介がこの世で一番腹立たしいものだった。


「自殺、らしいな」


後ろで冷静な声がした。声の主は分かりきっている。

そのまま、遼一も真っ直ぐ父親の遺体へ歩み寄り、ひらり、と顔の布をめくった。


「…俺は何にも知らない。生まれてすぐに、離されたから。でも、何故か確信してしまう。この男が、俺の父親なんだって」


遼一の目には、薄く涙の膜が張っていた。捕まる前よりも瘦せ細り、髭が濃くなっていたが、それは確かに葉介たちの父親だった。そして、いやでも目についてしまう、首筋の赤黒い痕。想像もしたくなかった。


「…もっと、もっと話したかった。犯罪者でも構わなかった。でも、なんで…」


遼一も我慢の限界だった。兄弟はその場で二人、号泣した。しかし涙を流しながらも、遼一は思うところがあった。父さんが死んで、家族が1人も居なくなる。それはおかしいのではないか、と。


「…一体、俺の母さんは…」

「え?」

「いや、なんでも」


遼一は顔を歪めた。

その日の晩、遼一はベッドに入ってもなお、考え続けていた。自分の母親は、一体どこにいるのだろう。どこかで生きているのだろうか。どんな人なのだろうか。考えれば考えるほど、疑問は増えていった。

その時ふと、信じたくもない推測が頭をよぎった。


「父さんに、そもそも結婚相手がいなかったとしたら…」


父さんは結婚詐欺でつい最近まで服役していた。独身であった可能性が限りなく高い。そして、数多くの女性と関係を持っていたとしてもなんら不思議ではない。

だとすると、自分と兄の母親は、


全くの別人かもしれない。


考えた瞬間、自分を殴りたくなった。なんで、こんな想像をしてしまうんだ。自分と兄さんは兄弟。それは揺るぎない事実のはずなのに。


もう寝てしまおうと、遼一は眠れない体を何とか横たわらせて、目を閉じた。








「ずっと、気がかりだったんだ。」


タワーマンションの屋上庭園。スマホ越しに会話をする人影が、1人佇んでいた。


「で、君は今どこに居るの?…へえ、東京。彼女に、よろしく伝えといてくれるかな?…うん、ありがとう」


ポチ、と通話を切り、瑠衣は空を見上げる。そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、ぼそっ、と呟いた。


「お大事にですね、神戸清子先生」

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