第5話 堪忍袋

大きな紙袋をふたつ。里音は目をキラキラさせながら、本屋を出た。


「どう?十分買えた?」

「はい。これでもっと言葉が分かるようになります」

「よかった。分からないところは聞いてね。おしえてあげるから」

「あ…」


何か言おうとして、里音はぐっと口をつぐんだ。そう、里音はまだ承諾したわけではないのだ。瑠衣の実験台になることを。しかし勉強をするためには、それなりに整った環境が必要だ。


やらかしたか、と思った頃にはもう遅い。


「どうしたの?」

「いや…」

「もしかして、まだ迷ってる?」

「…はい」


瑠衣はうーん、と声を漏らす。


「まあいいや。別に僕は強制するつもりはないからね。今日一日迷えばいいよ」

「すみません…」

「おや、もうこんな時間だね。お昼にしよう」

「はい」

「この近くにいい喫茶店があるんだ」


持つよ、と瑠衣は里音の紙袋をひょいと取り上げ、歩きだした。里音は迷わないように瑠衣の手にしがみついていた。




「いらっしゃーい」


カランコロン、とこもった鐘の音を合図に、奥の老人がお辞儀をする。人の良さそうなオーラを放っていて、やつれた亀嶋書店の主人とは大違いだ。


「おお!誰かと思ったら先生やないの!」

「どうもマスター」

「いつもありがとうな。ささ、座りなさい」


先生?

考える暇もなく、瑠衣に手を引かれて店の奥に突っ切る。


ほどよく日の光が入ってくる、窓側の隅の席。そこに、二人は揃って腰かけた。


「ご注文は?」

「いつものふたつで」

「ほいほい。んで、先生その子は?もしや彼女か、歓迎するで!」

「えーと」

「まさか。従妹ですよ」


隣で素早く瑠衣が説明する。もちろん全て嘘である。

いとこ?せんせい?

頭が混乱しながらも、里音はただ笑って頷き続ける。


「近くの高校に通うために今日実家から出てきたらしくて。卒業するまでうちに住まわせることにしたんです」

「あ、はい」

「そーかそーか、名前はなんていうんや?」

「里音です」

「里音ちゃんかー。よかったな、先生の親戚で」

「は、はあ」

「あ、里音とはあまり会う機会がなかったので僕のことあんまり知らないんですよ」

「ほんとか里音ちゃん!じゃあ、先生が総合病院の副院長さんやってことも知らんの?」

「えっ」

「ちょっとマスター…」


里音は知っていた。

医者、ましてや総合病院の副院長というのが、どれほど凄まじい職業であるか。


数年前。

里音の母親が一度だけ、医者の彼氏―浮気相手ということになるが―を家に連れてきたことがあった。

両手いっぱいに、ブランド物の袋を提げて。


『ママ、この人と結婚するの』

『お嬢ちゃん、はい、プレゼント』


手渡されたブランド物の洋服。

結局その医者とは別れていたけど、里音の脳内にこびりついている思い出の一つだった。

「医者」という言葉を本で調べたのも、これがきっかけだ。人の病気や怪我を治して命を救う、いわば正義の味方。おまけにお金持ち。


「先生はなあ、恩人なんや。うちの家内の癌を摘出してくれてなあ。先生がいなかったら、死んどったかもしらんなあ」

「照れますよマスター。やめてください」


二人は愉快に談笑している。


瑠衣が何故あんなに豪華な部屋を構えていたのか、謎が解けたのと同時に、里音は過去にないほどの、押し寄せるような恐怖の感情を覚えた。


医者として人の命を助けている一方で、何人もの人々を殺めている。

この事実はゆるぎないものだった。


「んなら、すぐ用意するな!」

「ありがとうございます」


マスターが去るや否や、里音は袋から辞書を取り出す。


「早速お勉強?」

「はい。」

「何調べてるの?」

「イトコ、オンジン、あとガンです。」

「人の話よく聞いてるね。ひらがなは分かるの?」

「完璧です。」


頬杖をついて、瑠衣もそれを覗き込んでくる。


いと‐こ

【従兄弟・従姉妹】

父もしくは母の兄妹・姉妹の子。


おん‐じん

【恩人】

なさけをかけてくれた人。


がん

【癌】

悪性腫瘍(しゅよう)の総称。


「なさけ…?しゅよう…?」

「ふふっ、どんどん調べな」


里音は頭をひねり、どんどん調べていく。ページをめくる手は止まらない。


「はい、お待たせ!おや里音ちゃん、何見てるの?」

「辞書です。言葉をおぼ」

「言葉の量が桁違いだなーって思いまして。さすが最新版の辞書だ」


里音ははっと瑠衣を見た。高校上がりたての少女が「言語学習」は、さすがに言い逃れできない。


慌てて辞書をしまうと、マスターがそこに料理を出す。

ほかほかの湯気を纏うナポリタン。オレンジ色の麺が、どこか懐かしさを感じる。


「「いただきます」」


向かい合って手を合わせ、フォークを手に取る。

口に入れた途端、まろやかなケチャップの甘みが弾けるように広がった。


「お、おいしいです!こんなの、初めて…」

「でしょ?手術のお礼にって招待されて以来、もう虜になっちゃって」


にこにこの笑顔で、瑠衣も一口麺を放り込む。

瑠衣越しに見える、カウンターで嬉しそうに目を細めているマスター。

ああ、幸せ。


「あの…」

「?」


振り返ると、二人の女性がおずおずと立っていた。

よく見ると、さっき通りですれ違った女性だった。

派手な装飾と、ギラギラの厚化粧。俗にいう「地雷女」だ。さっきは気にも留めていなかったが。


「…何の御用でしょうか」

「ほら、りんりん」

「あ、あの、その…」

「ほら、早く」

「う、うん。あのっ、この後ってご予定とかありますか?」

「はあ。何故?」

「その、良ければ一緒に遊びに行きたいな…と思って」


きゃっ、と顔を手で覆う女。もう一人の女がよくぞ言ったと言わんばかりに頭を撫でる。

逆ナンだ。かなり荒手の。

瑠衣は持っていたフォークを皿のふちに置き、二人を交互に見る。

その目は睨みつけるわけでもなく、なんだか呆れているように見えた。


「…すみません。この後は予定がありまして。またお会いできたときにしましょう」

「そんな。私たち、今日日帰り旅行に来てて、夕方には帰らないといけないんです。だから思い出を作りたいんです。あなた様みたいな、その、イケメンさんとお出かけできた、っていう」

「……」


瑠衣の目が一瞬、『あの光』を宿したような気がした。

感情を必死に堪えていたのだろう。


「…無理なものは無理です。お立ち退きください。あなた方の相手は出来ません」

「なっ」

「これ以上私に絡むようであれば警察を呼びます。どうしますか」

「…ふえぇぇん、ひどいようっ」

「あ、りんりん!あんた、どうしてくれるのよ!私のりんりんが泣いちゃったじゃないのよ!」

「……」

「ほら行こっ。もお、せっかくのお出かけが台無しよ!」


ぷんすかしながら、地雷女たちは去っていった。

その姿を目で追っていた瑠衣は、ふうと息をつくと、ようやく里音に笑顔を見せた。


「ほんと、馬鹿みたいだよね。わざわざつけてきたんだろうけど」

「えっ」

「旅行っていうのも多分嘘だよ。そして断られたら泣く。強引ったらありゃしない」

「は、はあ」


ナンパなるものを知らない里音は、首を傾げながらもなんとかニュアンスを捉えようと努める。


「周りの友達はきっとまともなんだろうけどな」

「周り?」

「うん」


さっきの二人の印象が強すぎて、ほとんど覚えていない。でも確かに、さっきはもっといたような気がする。


「まあいいよ。さ、早く食べよう。まだ午前だから、時間はたっぷりある」

「あ、はい!」


再び、里音はナポリタンを口に運んだ。

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