第4話 甲か乙か
苦しい。
空気が薄くなっていっているのを、里音は直で感じる。
関節が良からぬ方向に曲がっていて、痛い。
死ぬ……。
パカッ。
「はい、出て。」
「痛た…」
レザーのキャリーケースから、節々をぴりぴりさせた里音が出てきた。
手錠を外され、体を折りたたまれて10分ほど。短いように見えて、そのダメージは大きい。
「ここは?」
「路地裏だよ。君が刺された」
「ひやぁっ!!」
「安心して。飛んだ分の血は拭いておいたから」
安心できるものか。
飛び上がった里音はけほんと咳払いをして、その場でぱっぱと服の埃を払う。
パッと見、ここで殺傷事件が起きたとは思えない。
「人込みだと目立つでしょ?だから、ここ」
「はあ…」
にしても場所を選んだ方がいい気がする。
そんな里音は、新品の女ものの服を身にまとっていた。そんなことより、瑠衣は一体どこに行くつもりなのだろう。里音は瑠衣の方を見上げる。何度見ても、本当に背が高い。
「今から、一体何処へ?」
「ねえ里音ちゃん。親がもしまともだったら、何をしてほしかったとかある?」
「まとも?…ごめんなさい、学校に行ってなかったので、言葉はさっぱり…」
「おーおー、そう来たか。なるほどね。まともっていうのは、普通の、ってこと。普通ならわかる?」
「はい。でも、その、普通の親っていうのが、ちょっと…」
「ああ、そっか。…んー、まあいいや。とにかくおいで!」
「あっ」
瑠衣に腕を掴まれ、里音は通りへと出る。瞬く間に二人は人込みに紛れ、違和感を感じるものも誰一人としていない。確かにそこは、里音が裸足で走ったあの通りだった。
「手」
「え?」
「ほら。怪しまれるよ」
「……」
嫌々ながらも、里音はそっと、瑠衣の手を握る。食べ物をろくに与えられていなかったこともあって、彼女の手は心配になるほど骨骨しかった。
「……」
「恥ずかしいの?」
里音は小さく首を振る。
しかしその顔は真っ赤だ。
瑠衣は初めて、人間らしい笑みを浮かべる。
「里音ちゃん、学校に行ってないんだよね?」
「はい」
「じゃあ、どうやって言葉を覚えたの?」
「両親の会話とか…。あと、一回お母さんのお金を使って、ドリル?を買って、それで勉強しました」
「へえ…」
独学でよくこんなに喋れるものだ、と瑠衣は感心する。
『ねえ見て?あの人』
『え待って、めっちゃ好みなんだが』
『背高っ、モデルじゃん』
『隣の子は?』
『細いね。病気かな』
通りすがりの大学生がひそひそ話しているのが聞こえた。
握った手に力が入ったのが、里音ははっきりとわかる。そんな里音も、悔しさに唇を噛んだ。
「…早く行こうか」
「え…」
引っ張る力が一気に強くなり、二人は人込みをかき分けずかずかと進んでいった。
「さ、何か欲しいものはある?」
二人は通りを抜けた、大きな百貨店にいた。
辺りは華やかな格好をした人々がぞろぞろと歩いている。今まで「社会」というものに触れてこなかった里音でも、自分とこことの格差ははっきりとわかった。
「え…」
「だーかーら、欲しいものは?何でも買ったげる。親から何も与えられなかったわけでしょう?」
「でも…」
「さっきからさあ、もごもごと。はっきりして」
一瞬、瑠衣の目がぎろりと光ったような気がして、里音はびくんと怖気づく。
瑠衣が機嫌を損ねたらここの全員を殺しかねない。
「あ、あの、本屋さんってありますか?」
「本が欲しいの?」
「はい。言葉がまだ、わからないこと、いっぱいで…」
「おっけい。ほら、手」
「はい」
手をつなぐのにもすっかり慣れたのか、里音は意外にもあっさりと瑠衣の手を握った。その手は小さく、彼の手にすっぽりと収まってしまう。
「こういうとこ、初めて?」
「外に出たことがあんまりないので…」
「本屋に行ったくらいかな」
「あ、はい」
「誰からも声かけられなかったの?あんなボロボロで」
「はい。…人間ってそういうものですから」
「…やっぱ、人間はね」
「え?」
「……」
黙って、瑠衣はどこか遠くを見つめている。
里音は何かを察して、ぱっと瑠衣から目を逸らした。
人の流れに乗り、エスカレーターに乗る。
今まで目の前にあった物が、歩いてもいないのに全て斜め後ろに遠ざかっていく。
何もかもが初体験な里音は、きょろきょろと目を動かして興味深そうだ。
「ここだよ。」
上がり切ったところで、瑠衣が前方を指さす。
巨大で、四方八方が本で埋め尽くされたそこは、里音の知っている本屋とは程遠かった。
あっけにとられている里音を、瑠衣はひょいと覗き込む。
「びっくりしてる?」
「はい…」
「里音ちゃん家の近くの…、おおかた、亀嶋書店でもイメージしてたんでしょ」
亀嶋書店。老夫婦が経営する書店だ。そこは小さく傾いていて、本の種類も少なく、夫婦はとっくに90を超えている。後継者もいないようで、いつつぶれてもおかしくない、さびれた店だ。
「ここはそんなとことは格が違う。何でもそろってるから、好きなものを選んで」
「あ、ありがとうございます…」
里音は足を踏み入れるのも恐れ多いかのように、そっと店に入った。右も左も、本、本。本気で迷い込んでしまいそうだ。
「どんなのが欲しい?ドリル?図鑑?それとも辞書?」
「えーと…」
「いっそ全部買ってあげよっか?」
「え!?」
里音は瑠衣の方を見た。瑠衣は顔色一つ変えずに、首を傾げる。そんなの申し訳ないです、と言おうとして、里音は思い出す。
『さっきからさあ。もごもごと。もっとはっきりして』
瑠衣は、変に遠慮されるのを嫌うのだ。
さっきのことで完全に理解していた里音は、
「では、お言葉に甘えて…」
その言葉を受け入れた。
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