第6話 究極

「先生、おおきに」

「ありがとうございます」


マスターのにこやかな見送りで、二人は喫茶店を後にした。


「さあ、今からどうしようか。もう一度行ってみる?百貨店」

「はい。本屋さん以外でも素敵なお店がいっぱいあったので」

「そうしようか」


気が付くと、紙袋は全て瑠衣が手にしていた。

両手が塞がっている。

今なら逃げられるかも…そう思うより、


「申し訳ないです瑠衣さん!私、ひとつ持ちます」

「ああ、ありがと」


親切心が勝っていた。

瑠衣は嬉しそうな、ちょっと驚いたような笑みを浮かべている。


「里音ちゃんには、お洋服を買う必要があるね。あと、鞄?お化粧品もいるね」

「そ、そんなに…」

「年頃の女の子なんだから。さ、じゃんじゃん見ていこう」


瑠衣は里音の手を強く握った。

細身の体格とは裏腹に、どんなに人込みに押されても、その手は決して離れることはなかった。





結局里音は瑠衣の押しに負け、二人してギリギリ持てるくらいの紙袋をよいしょと抱えていた。


「こんなに、本当に良かったんですか?」

「いいよ。…で、実験台の件なんだけど」

「あ…」


里音は瑠衣の顔を見上げる。身長差は軽く30センチを超えている。


「何度も言うけど、強制はしないよ。でももし来てくれるのなら、歓迎する。食事だって与えるし、勉強だって教えてあげるよ」


柔らかな声色で、瑠衣は囁く。ただしかし、里音は躊躇い続けていた。表面上は優しいお医者様。しかし裏を覗くと、そこには無情な殺人鬼がいるのである。しかも、条件は「殺しの研究の実験台」。その詳細も有耶無耶にされているわけだから、躊躇うのはむしろ必然的であった。


「…はあ。わかったよ。もう夕方だ。決着をつけようじゃないか」

「え?」

「ちょうどいい。…僕は今から自分の洋服を買ってくる。ざっと20分くらい、ここを君一人置いていく。その間に考えて。もし僕のもとに来てくれるのなら、ここで動かずに待っているんだ。逆に、もしそうでないのなら、その時は逃げるなり警察に行くなり、どうぞご自由に」

「…!」


瑠衣が、賭けに出ている。


里音は流石に動揺した。自分で捕まえた獲物を、自ら放ったようなものだ。

それで20分放置するなんて、自殺行為以外の何物でもない。

しかも、「警察に行ってもよい」ときている。

普通なら飛んでいくに決まっていた。


「じゃあ、ばいばい」


瑠衣はくるりと向きを変えると、キャリーケースを転がし去っていった。


ぼーっとしていた里音はしばらくして、はっと我に返った。

猶予は20分。人生の方向を決定するには、あまりにも少なすぎる。

どうしたらいいんだ。

両親は彼の手によって殺され、家には警察がわんさかといる。

祖父母はとっくに死んでしまっている。

となれば、養護施設。

しかし、里音はそのような施設の存在など、知る術もない。

野宿を繰り返して、もっと安全なところに引き取ってもらうという方法もある。

しかし、なかなかのリスクを伴う。

だがリスクならば、瑠衣のところだって十分にある。

なんせ殺人鬼だ。気分がコロッと変われば、殺されるに決まっている。

だが、食事をもらえるのならば生き延びることだって可能だし、勉強を教えてもらえるならば生きているうえで最低限の物は全て揃う。

それに、あの人が本物の悪人とは、里音にはとても思えないのだ。


悩めば悩むほど、時間が風のように過ぎていく。

もう、残り時間5分を切っていた。


―ピーンポーンパーンポーン―


空気を読まない無機質な電子音声。

里音は反射的に音がする方を向く。


―N市警察本部より無線でお伝えいたします。只今、店内で殺傷事件が発生いたしました。まだ犯人が店内にいる可能性があります。現在、警察が向かっておりますので、店内のお客様は落ち着いて、直ちに、中央出入口、もしくは緊急非常口より、避難を開始してください。繰り返します…―


「…え?」


急な出来事に、里音は背筋が凍り付いた。

根拠なんて何一つない。けれど、確信していた。


瑠衣だ。


「え、なに、殺傷事件?」

「早く逃げないと!」

「キャーッ!!」


周りの人々が、我先にと出口に駆け込んでいく。

私も逃げないと。

里音が一歩踏み出した時であった。


『僕のもとに来てくれるのなら、ここにいて』


慌てて、足を止めた。

そうだ。里音は決定できていないのだ。まだ逃げることはできない。


「お嬢ちゃん何してるの!逃げなさいよ!」


里音に向かって叫ぶ、グレーヘアの貴婦人。

だがしかしそう言うだけ言うと、人を押しのけて走り去っていった。


―人間なんて、こんなもん。


里音は道沿いにあったブティックの洋服掛けに身を潜めた。

潜めたと言っても、なんせ道沿いだから、注目さえすれば一瞬で見つかる。

かといって、今飛び出したら、それこそ見つかってしまう。

里音はなるべく店内側に移動し、口を両手で覆う。


その真横を必死の形相で走っていく、人。悲鳴と子供の泣き声が飛び交っている。

地獄絵図だ。

里音は心臓をバクつかせながら、逃げる人々を目で追う。呼吸の音は、なるべく小さく、細かく。


たちまち百貨店は、先程の賑わいが嘘のように、がらんとしてしまった。

気味が悪いほどに、無音の世界が広がっている。服をかき分ける音が響いてしまうほどに。


里音は周囲を見渡して、店の外へと出た。

まだ警察は到着していないようだ。瑠衣は一体何処にいるのだろう。

里音は先程立っていた位置に戻った。

約束の時間だ。


「瑠衣、さん…」


ガタ。


ビクッとして音の方を向く。無音の中では些細な音さえも響いてしまう。

人がいる。

その方面には、長く続く道と、突き当たり左側にあるポップアップスペース。

確か今そこには何も入っていなかったはず。


「瑠衣さん!」


里音は叫んだ。返事はない。

耐えきれず、走った。見たくないものがあることくらい、容易に想像がついた。

突き当たりを、勇気を出して曲がる。


「瑠衣さ…ん…」


ペチャ。

聞き慣れない音が、足元から聞こえた。ゆっくり、そこに視線を向ける。

「…!」

血だった。ボロボロの靴に、べっとりと赤黒い色が染みつく。

そして、視線を前に向ける。

息を呑んだ。


真っ赤に染まった人々。仰向け、うつ伏せ。吐血。白目。死んでる。死んでる。


「死んでる…」


地雷女と、その周りの人だった。さっきまで喋っていたのに、泣いていたのに、頬を赤らめていたのに。こんなにも人は、あっけないのか。

そしてその中心に、背を向けてしゃがみ込んでいる、瑠衣。


「…里音ちゃん」

「ひっ」

「来てくれたんだ」


ゆっくり、振り返る。その美しい顔は血で濡れていた。


「全員分の臓器を採取できたよ。今、そっちに行くから」


唯一綺麗なままのキャリーケース。そこに器用な手つきで、赤い『何か』を入れていく。里音は目を逸らし、自分でモザイクをかけていた。


「よく、残ってくれたね」

「…あ…」


瑠衣の顔が笑顔で歪む。時空が歪む。

そこで、里音の意識は途切れた。

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