第2話 狂人契約
閉め切られていた部屋を出て、少女はようやく日の光と対面できた。
朝か夜かもわかっていなかった少女は、そこで一晩が過ぎていたことに気づく。
彼の家はごく普通…いや、それどころか。
「なに、これ…」
町全体が見下ろせる掃き出し窓。何事もないようにぶら下がる数多のシャンデリア。
広大という言葉がぴったりな、リビング。
そう、そこはタワーマンションの最上階、いわば大豪邸だった。
少なくとも、男のような若者が住めるようなところではない。
「さっきも言ったじゃん。僕んち」
「え…」
衣食住ままならなかった少女にとって、そこは異世界に等しかった。
「朝ごはん用意するから、そこに座ってて」
大きなコーナーソファに、彼女は投げ込まれる。両手は後ろで拘束され、うつ伏せにされてしまうと、もう動けない。
我が家よりはまし、我が家よりはまし。少女はそう何度も唱えていた。
「はい、朝ごはん」
机に置かれる紙袋。ソファを這って中身をのぞく。
分厚いパンと、野菜。
「サンドイッチ。今朝そこで買って来たんだ。遠慮しなくていいよ」
「え…」
少女は驚き目を見開いた。誘拐されているのを疑うほどの優遇だ。
「あ、何も変なものは入れてないからね。そもそも市販だし」
「あ…えーと」
「あ、ごめんごめん。これじゃ何にもできないよね」
男は少女の腕をぐい、と引っ張る。
そして次の瞬間。
カシャン。
「へ?」
少女の右腕だけ手錠を外し、自身の右腕にもう片方をかけた。
「よいしょ、っと」
そのまま回り込んで、男は隣に座る。
「いただきます」
そのまま何事もないように、朝食を食べ始める。
「ん?食べないの?」
「あ、いただきます…」
はっと我に返った少女は、目の前のサンドイッチを手に取る。
凄く変な感じだ。
「で、僕に何か聞きたいことは?なんか言いかけてなかったっけ」
「なぜ、私をここに連れてきたのかが、知りたくて…」
一語一語に警戒心を込めて、男に尋ねる。
「ああ、そんなこと。簡単だよ。解剖をしたかったから」
「え?」
「実験だよ、ある意味。あの時点でさ、ぱっと見死んでると思ったんだよね。結構血が出てたし。だから解剖室に寝かせておいたんだ。一応止血はしたけどね」
少女は自身を見下ろす。男はぴと、と少女の腹部に触れ、よしよしと言わんばかりに頷く。
「確信はなかったんだ。生きてるか死んでるか。だから確認しようと思って部屋に戻ったら起きてて、で、今に至る。そういう事」
「なんの目的があって…?」
「目的?んー、主にこれ、かな」
男は左手でとんとん、と自分の頭をつついた。
「頭?」
「脳だよ。人間の脳みそが欲しかったんだ。」
「そんな、なんで?」
「そりゃまあ、いろいろ。」
男は再びサンドイッチにかぶりつく。
当たり前のように言う男に、少女は縮み上がる。
「他に質問は?」
「え、えっと…」
「これが初めてか、とか?」
少女は男の方を見る。
男は目をキラキラさせて、いかにも聞いてくれと言わんばかりに彼女を見つめている。
「…初めてなんですか、こういうの。その…解剖とか」
「いや、60人やってる!」
「はい?」
つまりは、この少女の前に60人が犠牲になっている、という事である。
もはや人間の所業ではない。
そんな爆弾発言をしているにもかかわらず、その本人は涼しい顔、むしろ自慢げな表情を浮かべていた。
「君って、ニュースとか見ない?」
「テレビが、家に無いので」
「じゃあ、最近話題になってる殺人鬼の事はご存じないかな」
「あ、それなら」
少女は心当たりがあった。
家で家事をやらされているときに、窓の外から聞こえてきた放送。
《こちら、N市役所です。現在、連続殺人犯がこの市内に潜んでいる可能性があります。玄関の扉、窓の鍵は閉め、外出は控えてください…》
珍しいな、としか少女は思わなかった。日々の虐待行為で恐怖の感情が麻痺していた彼女は、至って冷静に家じゅうの鍵をかけて回った。父親はパチンコやギャンブル、母親は酒と若い男に溺れており、不在であった。
少女はその時、いっそ飛び出して殺されてしまった方が楽なんじゃないか、とも考えていたのだった。
「知っています。最近にも、放送があって…」
「ほんと?なら話が早いや。それ、僕だよ」
やっぱりか、というのと同時に、少女はことの深刻さをはっきりと悟った。
世間を騒がせている無情な殺人鬼のお宅に、お邪魔してしまった。
どうやらもう、生きては帰れなさそうだ。
「本当に、60人も殺っているんですか」
「ああ、もちろん。60人分の臓器、全部持ってきてあげようか?」
「…大丈夫です」
「ははっ、そうだよね。流石に食事中に見るものじゃないよね!」
「…」
黙って、少女は卵サンドをかじる。もう、彼を理解するのを、考えるのをやめた。どうせ死ぬなら、せめて最後に美味しいものを。
「…ねえ、君」
「はい」
「勘違いしてるかもだけど。僕はね?君を殺すつもりは微塵もないよ。」
「…え?」
思わず声を上げて、少女は男の方を素早く見た。男は先程とは打って変わって、真面目な表情で彼女を見つめる。
「どうして?私を解剖する、殺すために、ここに連れて来たんですよね?」
「落ち着いてよ。…あれは嘘」
「う…そ?」
訳が分からなかった。
ならなぜ私を刺したの?なぜここまで連れてきたの?目的はなに?
少女は混乱していた。
「最初は解剖対象として刺したんだよね。でもすぐに、刺す位置がずれていたことが分かったんだ。それから君の格好を見て、大体の事を悟った。虐待を受けた子は脳に支障があるかもしれない。そう思って、君には他の役目を請け負ってもらいたくて、ここまで連れて来たんだ。」
「ほかの、役目?」
「うん。」
その瞬間、ぐいっと少女の肩を掴み、男の顔が彼女の目の前に現れる。
「ねえ君、僕の実験台になってよ。」
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