殺人実験
天秤
第1話 白霧の逃走
雪が降っていた。
街を行く人々は、薄く積もったそれをザクザクと踏み歩いて、各々の帰路へと急ぐ。
その流れに逆走して走る、一人の少女があった。
既に感覚を無くした素足に、火傷の目立つ顔。明らかに普通ではない姿にも関わらず、人々は声をかけることはしない。ただ、見てはいけないと言わんばかりにみんな目を背けていた。
少女はもう限界が迫っていた。雪を滑る足は痛々しく、俯く顔は、もう生きているか死んでいるかもわからない。ただ、何かから逃げるように、無我夢中で走っていた。
やがて彼女はビルとビルの間の、暗く細い裏路地に入った。
ごみの散乱したそこは、この世の物とは思えない酷い匂いが充満していた。
普通の人なら躊躇し、引き返すようなところを、少女はフラフラと進んでいく。
奥の方に重なる段ボール箱の山に、彼女は身を潜めた。
吐く息は白く震え、次第に力を失っていくのが分かる。
「おや。どうしたのお嬢さん」
ひっ、と声を上げて、少女は振り返った。
若い男だ。
「どうしたの、そんなところで」
「…!」
「びっくりさせちゃったね。ごめんごめん、僕は…」
男の自己紹介は、少女の耳には入らなかった。
彼の握ったナイフが、彼女の腹部に突き立てられていたのだ。
そのまま、少女は意識を手放した。
「…ん」
ずっと、何か悪い夢をみていたような気がした。
少女は重い瞼を何とかこじ開け、きょろきょろとあたりを見回す。
「あ、起きた?」
ばっ、と声のする方を向いた。さっきの男だ。
「夢じゃ、ない…」
「現実現実。それより、ここ」
ぽんぽん、と自分の腰のあたりをつつく男。
目線を下に落とした少女は、はっとした。
「これ…さっきの…」
不自然に破れたシャツから覗く、包帯。赤く血が滲んだそれは、傷口の深さを物語っている。
気が付いた途端に、じわりとそこが痛み始める。
「下行大動脈にうまいこと入ったと思ったんだけどなー。ちょっとずれちゃった」
「…だれですか」
「僕?さっきも言ったじゃないか。あ、そかそか、君気絶してたね。ははっ」
爽やかに笑う男。少女は眉をひそめて、彼を見つめる。
「ねえ君。人に名前を尋ねるときは、自分から名乗るのが常識でしょう?」
「知らない。覚えて…ない」
「へえ。自分の名前を?」
「……」
黙って頷く少女は、震えている。
「嘘じゃないです。ほんとなんです…」
「…はあ、まあいいけどさあ」
ぱちっ、と明かりが灯る。
小さな部屋の小さな台に、少女は寝かされていた。
「ここは…?」
「僕んちだよ」
振り返る男の顔を、少女は初めてはっきりと見た。
細くて長身の体に、整ってはいるがどこか狂気を感じる顔立ち。
かき分ける髪は黒く、艶立っていた。
気が付くと、腕には金属製の手錠ががっちりと食い込み、少女は身動きがとれなくなっていた。
「これ、外してください…!」
「なんで?外して何をするの?」
「……」
「知ってるよ。逃げたって、どうせ帰るところもないんでしょ?」
「…!どうしてそれを!」
「おっ、適当に言ってみたけど、当たってた?」
勝ち誇った笑みを浮かべる男。
「まあ適当と言っても、そんな格好してたら誰だって想像つくけどね」
「あ…」
自身を見下ろす少女のもとにしゃがみ込んで、男は微笑む。
「名前はいいや。君、何があったの?」
「あ、あなたは、どうしてここに私を」
「質問に答えてくれるかな?」
さっ、と掲げられた彼の右手には、血まみれのナイフ。
少女の鼓動が速くなっていく。
「ねーえ。聞こえてる?」
「…ごめんなさい」
「分かればいいよ。いいから、さっさと話して」
ナイフを握る手が、じりじりと近づいてくるのが分かった。
「…私、両親から暴力を振るわれているんです。学校にも行かされていなくて、ずっと家事ばっかりしていて、一つでもミスをしたら怒鳴られて、殴られて、蹴られて。食事も衣服もろくに与えられなくて、我慢ができなくなって…」
「逃げ出してきた、と」
「はい」
「なるほどねー。それならちょうどいいや」
「え?」
「ん?ああ、こっちの話」
男はナイフをしまい、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう」
「あの、私…」
「君の話はあとで聞くから、おいで」
男は手錠をぐいっと引っ張り、台から少女を引きずり落とす。
「んッ…」
「ほら」
少女を飼い犬のように扱う男。しかし少女はそれしきの事、日常茶飯事であった。
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