第17話 お酌で虚弱
太陽が沈み、夜が訪れた頃。
緩んだエプロンの紐を結び直し、インターホンの前で仁王立ちをして、里音は今か今かとその時を待っていた。
―ピーンポー
「はい」
『早いね』
「いえ。開けときますね」
ポチ、と通話を切ると里音は玄関に走る。
ソワソワと手を動かし、覗き窓からドアの向こう側を見つめる。
そしてバッチリ目があってしまう。
「ひっ」
里音が勢いよく飛び退いたところで、ドアが開いた。
「やあ里音。ただいま」
「よっ、里音ちゃん、だったっけ。よろしく!」
瑠衣の後ろを騒がしく付いてきた男に、里音ははにかむ笑みを浮かべ軽く会釈する。この家に来てからの初めての来訪者。電話を切ってから、里音は密かに胸を躍らせていた。瞬く間に数品の料理をこしらえ、瑠衣の指示でワインも用意した。今まで「奴隷」としてやらされていたことが、まさかこんな所で生きてくるとは、彼女自身思ってもいなかった。
「どうぞ上がってください」
「ありがとね。...お、いい匂いがするなあ」
「瑠衣さんから聞いていたので、いくつか作っておきました。ワインもありますんで」
「えーまじ?よっしゃ!」
はしゃぎっぱなしの葉介をなだめるようにして、瑠衣が肩を掴む。
「ごめん里音、困惑したでしょ」
「いえ、私は…」
「里音、こちらは僕の友人、木垣葉介。葉介、こちら従妹の里音」
「いつも瑠衣さんがお世話になってます」
言われていた通り、里音はぺこりと行儀よくお辞儀をする。
葉介もつられるように軽く頭を下げる。
その勢いで瑠衣の方を振り返った。
「オイお前、瑠衣!なんだよ、ずるいじゃねーかよ!」
「何が」
「こ、こんな礼儀正しくって可愛い従妹と3年間同居だなんて…ひい、羨ましいったらありゃしない」
「可愛いだなんて…」
「いやあ、身内だからなあ」
軽く受け流す瑠衣。
里音は少しもやりとした感情を、仕方ないと押し込み、ソファーに二人を案内した。そして自分は向かいの方に腰かける。
「荷物どうする?」
「適当でいいよ」
「じゃあそこらへんに投げとくわ」
「花瓶割らないでね」
テンポよく言葉を交わす二人。電話で聞いてはいたが、どうやら本当にこの人は「瑠衣の幼馴染」らしい。言葉遣いも性格も違うが、里音は二人の間の雰囲気で確信が持てた。
瑠衣の幼馴染、つまり幼少期から瑠衣をよく知っている。何か、何かが分かれば、瑠衣の殺人の真意を突き止められるかもしれない。
だがしかし、このことを瑠衣に感づかれると何をされるか分かったものではない。なるべく自然に、積極的に。里音は机の下でぐっと拳を握った。
「んじゃ、乾杯しよ、乾杯!」
「待って注ぎ分けるから」
「…よし。じゃあ乾杯!」
カチン、とグラスを鳴らす。
里音は別のコップに烏龍茶を注ぎ、控えめに合わせる。早速料理に箸をのばす葉介を、子供を見るような柔らかな表情を浮かべて瑠衣は見つめている。
「あ、そうだ。里音ちゃんは今、高二なんだよね」
「え?まあ、はい」
「高校どう?友達できた?」
「はい、一応。この前カラオケ行ってきました」
「えー、なんか意外だなあ」
勿論全て口だけのでまかせである。しかし妙にあっさりと納得した葉介は、ほほうと話に聞き入る。瑠衣がサラダを取り分けながら、ちらりと二人を見上げる。
「俺たちもよく行ってたよな。学生時代」
「あー、駅前のとこね。懐かしいなあ」
「えー、意外…」
「だろ?瑠衣、ベタなラブソングとか結構本気で歌ってて、俺笑いまくってたもん」
「ちょっと葉介…」
苦笑を浮かべる瑠衣。彼のクールなイメージとは裏腹なその情報に、里音はなんだか可愛く思えてしまった。思わずあふれ出ていた里音の笑みに、瑠衣はますますいじけた様子で頬を膨らませる。威圧感のある普段の様子とは打って変わって、小動物を思わせるような丸っこさがある。
「瑠衣って女の子に疎かったからさ、そんな感じで…」
「やめよやめよその話。完全に黒歴史」
「えー、いいじゃーん」
「ふふ、そうなんですね。あの、私もっと聞いてみたいです。瑠衣さんの子供の頃。あんまり教えてくれないもので」
「えー…やだよ」
「いいんじゃない?里音ちゃんてほら、関西に住んでたわけだし。知らないのも無理ないよ」
葉介は食べていた生ハムを飲み込み、よっこらせ、と座りなおす。
瑠衣は若干不満げな表情を浮かべてはいるが、葉介を遮ることはしなかった。
「その昔。…言うて20年前だけど。幼稚園にて、俺と瑠衣が出会いました。当時4歳。そういう年って、ほら、親に甘えっぱなしじゃん?でも瑠衣はすごかったよ。もうほぼ完全に自立してんの。同い年なのに大人に見えたよ、俺には」
「4歳だよ?」
「そんくらい衝撃だったってこと」
眉をハの字に曲げる瑠衣。呆れているように見えるが、まんざらでもなさそうだ。
「んで、そっからすぐに仲良くなった。瑠衣はそんなによく喋るようなキャラじゃなかったから、あんまりクラスの中心になることは無かったんだけど、そん時からもう頭が良くてなんでもできてたのね。俺はまあ、ただのバカキャラ」
「待って僕も喋る。葉介自覚してないけどね、頭良かったよ。運動神経もいい。おまけにモテてた。僕よりもはるかに」
「謙遜は結構」
「よく暴れてたけど」
「一言多い」
今度は葉介が頬を膨らませる。
里音は再び、今更ではあるが、二人は本当に幼馴染なんだなー、と思った。二人の表情も心なしか少し似ているし、ぽんぽんとテンポよく会話が続いている。向かいで静かにほのぼのと聞いていた。
「で、そのまま小、中、高と一緒だった。俺は幼稚園の時から全然変わらなかった。けど瑠衣は、まあ根本的には変わってなかったけど、みんなからの注目度が急上昇したのね。なんせ中学卒業の時点で180センチあったし、顔がイケメンだったからねえ。それで女子が近づいてくるわけ。そして中身を覗いてみれば、秀才で、何でもできる。えーと、バレンタイン、最高で何個でしたっけ?」
「いいって、そういうの」
「5、60個でしたっけ?」
「ええ!?」
里音は驚愕した。
「あ、俺は5個ね」と追加する葉介。どっちにしろ、平均以上である。
「でも、瑠衣の奴全く自覚してなかったのね、自分が学校一のモテ男だってこと。チョコもらって、やったあお菓子いっぱいだあ、って。まあいわば、ド天然か呆れるほどのピュアっ子」
「さっきから褒めてるの?けなしてるの?」
ぶすっと口をすぼめる瑠衣。可愛い。相手は殺人鬼だとわかっていても、里音の母性本能はくすぐられてしまう。
一方で疑問もあった。何故に、幼馴染公認のピュア少年が殺人鬼と化してしまったのか、である。ここまで聞いていても、理由がどうにも見出せない。
「次行こ、次」
「はいはい。でね、大学もおんなじところ狙ってたのよ。この時には二人とも医者を目指してたから。でもまあ、色々あって瑠衣は大学受験ができなくなっちゃったの。里音ちゃん知ってるでしょ?」
「あ、え、はい」
急な質問にびくりと体をすくめる里音。咄嗟に肯定してしまったが、勿論知る由もない。せっかく聞き出せるチャンスだったのに、自分のせいではぐらかされてしまったような気分だ。しかし一方で、もし否定していたら怪しまれていたかもしれない。それはそれでまずかった。まあ、どっちもどっちである。
「だよね。でも瑠衣は負けなかった、と」
「はあ」
「でもこいつ、何とかして医者になりたかったから、そういう系の短大を受けてみたんだよな。日本でもトップクラスの偏差値のとこ」
「あー…」
瑠衣はぼそっとうめくと両手に顔をうずくめる。葉介の言わんとしていることを理解したようだ。
「結果はもちろん合格。しかもそれだけじゃないんだ。合否結果を伝えてきたのは他でもない、校長だったんだよ」
「もういいって…」
「まあ最後まで言わせろよ」
ぐびっ、とワインを一息で飲み干す葉介。アルコールが回ってきているのか、普段でもよく喋るのに、増して饒舌になっていく。
「んでこいつ、校長に懇願されたんだぜ?金払わなくていいから来てくれ、って」
「え、払わずに行ったんですか?」
「あーそうともよ。試験の点数が相当ぶっ飛んでたんだろうな。まあ立派な犯罪だけど。…あ、これここだけの話な」
自分の唇に人差し指を添え、葉介は付け足す。ほんのり顔がピンク色に染まっている。完全に出来上がっていた。
「葉介、もういい。ごめん里音、こいつこう見えてお酒弱くて…」
「誰が弱いだとお?」
「ほら」
葉介はまだ一杯と少ししか飲んでいない。こちらはこちらで意外だ。顔を上げた瑠衣は葉介の両腕を押さえて、よしよしとなだめる。立場逆転だ。
「葉介は葉介でしっかり国公立の医学部に入っただろ。僕ばっかり持ち上げないで、さすがに恥ずかしい」
「はいはい、すいましぇーん。…瑠衣、もう一杯」
「あとは食べ物だけにしなさい」
親子のような、そうでないような会話に、思わず里音は吹き出してしまう。
瑠衣は苦笑を浮かべた後、葉介をもとの位置に座らせ、手近にあったチーズキューブに手を伸ばした。
「瑠衣さん」
「ん?」
パリパリ、と包み紙を開く乾いた音だけが部屋に響いている。
里音はわずかに隙間のあった瑠衣の隣によいしょ、っと座り、首を持ちあげ彼を見上げた。里音の右腕と瑠衣の左腕が服越しに触れ合っている。
「どうしたの、急に」
「あ、瑠衣ずるいぞ!やっぱお前」
「葉介、静かに」
再度騒ぎだした葉介を手で制する。
そして瑠衣はこてんと首をかしげ、優しい眼差しで里音を見た。
「いや、なんか…こうしたくって。一人だけあっちなのも、何だかな、って」
「ごめんごめん」
「うう…恋人かよ」
「親族の距離感ってこういうもん」
わしゃわしゃと頭を撫で、瑠衣は頬を緩ませた。里音は「恋人」というフレーズに少しは動揺したものの、表情を変えずこくこくと頷く。
「いーないーな、俺んとこ、野郎ばっかだぜ?部屋なんか常に部室の臭いだ」
「掃除すればいいじゃん」
「ああ、女子欲しい…」
愚痴をこぼす葉介に正論で返す瑠衣。葉介はへらへらと笑って、料理を貪り食う。
「全く、酒癖が悪くて困る」
「木垣だけに、気が気じゃない、ってか?あっはっは!」
「…はあ」
あからさまに顔をしかめて、瑠衣は嘆く。彼のグラスは、もう二杯目を終えようとしている。
「瑠衣さんは強いんですか?お酒」
「うーん、普通かな。そもそも職業柄、あんまり飲まないから」
「あ」
職業柄。これが二重の意味で言っていることくらい、里音には容易に理解できた。いざというときの緊急オペのため。そして、精密な犯行のため。
「まあ葉介は気にせず飲んでるからこんな感じだけど。ね、葉介…葉介?」
隣に座っていた葉介は、すやすやと安らかな寝息を立てていた。
マイペースに酔いつぶれてしまったようだ。瑠衣は呆れたように笑う。
「あーあ、せっかく呼んであげたのに。ほんと自由」
「…ふふ」
唯一のムードメーカーの充電切れに、部屋に再び沈黙が訪れる。
触れた肌に、じわじわと熱がこもってくる。里音はじれったいような、何とも言葉に言い表せないような、複雑な気持ちに駆られる。
「…里音」
「は、はい」
「ありがと、無理な演技に付き合わせて」
「いや、演技というほどでは」
「…うーん…」
「!!」
ごろんと寝返りを打つ葉介に、びくんとする里音。
瑠衣は優しい微笑みを浮かべると、
里音の首を持ち上げ、ついばむような口づけを落とした。
「ねえ里音。僕の部屋で、少し話そうか」
「え…?」
「ここじゃあ、いつ葉介が起きるか分かったもんじゃないし。…いい?」
答えを聞くより先に、立ち上がっていた。里音の肩を軽く抱き、紳士のような立ち振る舞いで、扉の方に歩いていく。里音の心臓が一気に拍数を上げていく。
「ほら、入って」
気が付くと既に扉は目の前にあった。もう後戻りはできない。
熱くなった顔を両手で冷やし、里音は開かれたそれの奥へと一歩踏み出す。
刹那、扉が閉まり暗闇が視界に充満した。
「え、ちょ…」
思い切り、壁に押し付けられたのが分かった。目には微かに、瑠衣の顔が浮かび上がっている。先程までの可愛らしい雰囲気とは打って変わって、里音のよく知る「殺人鬼」の顔をしている。
「瑠衣…さん?」
「僕の事、探ってるんだね」
「!!」
感づかれていた。瑠衣の事だ、よくよく考えれば、至極当然である。しかし里音には逃げ道はない。両手は瑠衣に掴まれ、身動きも取れない。
「昔の事が聞きたい。それだけじゃないでしょ。分かりやすすぎる」
「……」
「ねえ答えて」
突然、瑠衣が唇を重ねてきた。
今までのとは比べ物にならないほど強く、噛み付くようなキス。苦しい。それはまるで、小動物の人格を噛みちぎった獣のようだった。隙間から漏れる息が、艶めかしく瑠衣の耳へと届く。
いよいよ死を覚悟した里音は、ドンドンと瑠衣の胸板を叩いた。瑠衣は名残惜しそうな声を一つ洩らし、ゆっくりと顔を離す。
「はぁ、はぁ、る、瑠衣さん…」
「…ごめん」
珍しい、瑠衣からの謝罪だった。相当取り乱してしまったらしく、闇に慣れた目には照れくさそうに頭を掻く瑠衣が映る。
「…ほんとは私、知りたかったんです。どうして瑠衣さんが殺人を犯すようになったのか。その真相を知りたかったんです。隠してて、ごめんなさい」
気が付くと、里音は全て話してしまっていた。俯き、瑠衣から目を逸らす。
きっと、目の前の瑠衣さんは怒っている。もしかすると、ナイフを掲げているかもしれない。怖い。
しかしその瑠衣は、里音の予想とははるかに外れた反応を見せた。
「…はは、なーんだ!」
「え?」
「警戒して損した。そんなことで怒るわけないじゃん」
その場で爆笑する瑠衣。こんなに笑った顔を見たのはいつぶりだろう。
里音はきょとんとして、その場で固まってしまう。その後、安堵の感情と共にどっと全身の力が抜けて、へなへなと座り込んだ。
「こ、殺さないんですか…?」
「なんでよ!わけわかんない。…もしかしてまだ、僕の事怖かったりする?」
「怖いですよ。そりゃあ、現に人を殺しているんですから」
思わず乱暴な口調になる里音。みるみるうちに瑠衣はしょぼんと沈んでしまった。里音にわずかな罪悪感が芽生える。
「…まあそうだよね。怖いよね」
「あ、ご、ごめんなさい…」
「ううん、いいの。謝るのは僕の方。今はね、まだそのことは言えないの。ごめん」
視点を揃えるようにしゃがんで、優しくはにかむ瑠衣。きゅ、っと胸の奥が締まったような気がした。
「…続き、する?」
「え…はい」
もちろん、この後どうなるかなんて、里音はとっくに分かりきっていた。顔が真っ赤に紅潮していくのが、自分でもよくわかる。
そのままゆっくりと、瑠衣は里音を押し倒していく。
その時だった。
―ピーンポーン。
「ひっ」
瑠衣は伸ばそうとした手を止め、立ち上がる。仕方がない。だけど、里音は寂しさを拭いきれなかった。
「ちょっと待ってて」
瑠衣は扉を開き、インターホンへと駆けていく。光が射し込み、目が眩む。
「…はーい。あ、遼一くん?おっけい、今開けまーす」
また来客だろうか。再開がどんどんと延びていくのを、里音は自然と悟ってしまう。
ガチャ。
玄関の扉が開いた。
里音は、ばくばくと心臓を鳴らす。
「すみません瑠衣さん。兄さんいますよね?」
え。
「ああ、お迎えかな?」
「はい、もしつぶれたら来てくれって、兄さんが」
「予測はできてなんでやっちゃうのかね、あいつは」
「それなです」
チャラチャラとした喋り口調。扉の隙間から思わず見ると、意外にも上品な身なりの男がそこにはいた。程よくパーマのかかった黒髪で、黒いスーツを着こなしている。会話からして、彼は葉介の弟で、名を遼一と言うらしい。
「んじゃ、兄さん持ち帰りますね」
「頼むよ。ほら、上がって」
そして遼一はあろうことか、というよりかは必然的に、廊下の先の里音の方へと歩いてきた。慌てて里音はドアの方にずれて身を隠し、二人の会話に耳を傾ける。
「最近どうすか、兄さん」
「まあまあよくやってるよ。この前は長いオペも難なくこなしてさ。遅刻癖は相変わらずだけど」
「すいません、楽観主義者なもので」
「はは、その言葉ぴったりだよ。それで、遼一くんはどう?」
「それが聞いてくださいよー、俺最近、刑事事件の捜査担当を任されたんすよ!引き継ぎですけど」
「おおすごい、大昇進じゃない」
壁を挟んで里音は驚愕していた。
刑事事件の捜査担当?それってつまり、彼の職業は…。
「瑠衣さん、『腹裂きの刑吏』って知ってます?」
心臓が止まった。
部屋の空気がサッと固まったのが分かる。
「ああ、あれね。全く、物騒だよね」
瑠衣の声色は変わらない。
「あれの担当だった上司が、しばらく休みを取ることになったんですよ」
「ふーん、どうして?」
「ちょっと前に東京で、留置所爆破事件あったじゃないですか。死者が何人か出たやつ。その中にどうやら上司の娘がいたらしく、立ち直れないそうです」
「え、捕まってたんだ、娘さん」
「はい。テレビとかによく出てる弁護士さんを襲撃した…とかなんとか。どれも都内の事件なんで、詳しいことはわかりませんけど」
ご愁傷さまです、と遼一はその場で合掌する。言動はどれも軽々しく、本当に警察側の人間なのかと疑ってしまうほどだ。
「へえ。それで、遼一くんが事件の担当になった、と」
「はい。喜んでいいのかは分かりませんけど」
葉介の両脇に手を差し込み、よいしょと持ち上げる。
「おーい、兄さん、起きて、帰るか、らっ」
「ん…りょういちぃ?」
「早く早く」
引っ張りあげるように揺すると、葉介はとろんとした目を軽く開ける。呆れた視線を向け、遼一はため息をつく。
「後はよろしくね、遼一くん」
「失礼致しました」
引きずるようにして葉介を玄関まで連れていき、扉の向こうへと去っていった。
「...ごめん里音」
「いや、私は大丈夫です。それよりも」
「言いたいことは分かってる」
「...ですよね」
うなだれた様子の里音が、ひょっこりと扉から顔を出す。
「ほんと、出来すぎた兄弟だよね。兄は医者、弟は警察」
「あの人の...遼一さんの担当って」
「僕の事件だね。はは、いよいよややこしくなってきた」
楽観主義はお互い様な気がする、と思いながらも、里音は唇を噛み、考え込む。
「あの人、殺すんですか?」
「そんなバンバン殺さないよ。僕はね、腐れ縁とはいえ葉介とは敵対したくないんだ」
「ですよね、良かった」
「でも...いやー、参ったな」
瑠衣は顔をしかめて、ぽりぽりと頭を掻く。
里音はそんな彼の服の裾をぐいと引っ張り、上目遣いで見上げる。
「里音?」
「...絶対、捕まらないでくださいね」
「!!」
ぽかんと口を開けて、瑠衣はしばし固まってしまう。ぷるぷるとチワワのように小さく震えているが、里音は目線を逸らさない。
「何なに、急に?」
「少し、不安になっちゃって」
そう言うと静かに微笑む。
「私、正直最初は思ってたんです。早く捕まれば、私は新しい両親のもとに行けるのかもしれない、って」
「…へえ」
「でも、仮に引き取られたとして、いくら彼らが両親と名乗っても、偽物だという事実は存在してしまう。なら実の両親のもとで暮らせばいい。でも、ずっとひどい扱いを受けたせいで、何度も疑ってしまう。彼らが本当の両親だということを。…でも、瑠衣さんは瑠衣さんだから。本物も偽物もない。…私の考えが狂っているのかもしれないですけど、それが一番気が楽なんです」
「疑惑の念を抱きたくない、と」
「はい。私は世間というものをよく知らないから言いきれないけれど、だいぶ常人ではない感性を持っていることは、なんとなく分かります。それに、もしかしたら最初から…惹かれていたのかもしれない。自分の居場所を作ってくれた、瑠衣さんに」
人というものはこんなにも素直に、自分の感情を伝えることが可能なのかと、瑠衣は心底驚いてしまった。何せ、偽りばかりで生きてきた瑠衣だ。どうも理解しがたいものなのである。
しかし、この瞳。おびただしい量の汚れたモノたちを見てきたというのに、なお澄んだ瞳は、逸らすことなく瑠衣を見つめていた。
「…メロドラマのヒロインみたいだね」
「は、はい?」
「ロマンチック」
「な、私は本気で言って…」
言い切る前に、瑠衣に口を塞がれる。徐々に深いものになっていくそれは、呼吸すら億劫にさせる。紅潮する頬が、瑠衣には愛おしくて堪らない。
「…ん、はぁ、瑠衣、さん…」
「戻ろうか、部屋へ」
里音の同意もそこそこに、瑠衣は軽々と彼女を抱え立ち上がった。
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