第16話 傷口の甘美

―その後、警察の捜査により―


キャスターの声はほとんど頭に入って来なかった。


永遠にテレビがつけっぱなしのリビング。

時計を見るともう夜の10時を回っており、隣を見ると珍しく心許ない様子で見つめてくる瑠衣。


里音はあの後瑠衣に連れられその場を去り、命からがら家へと逃げ帰ってきた。

瑠衣の右腕は深く切りつけられていて、よく運転して帰ってこれたなというほど大きな傷が、斜めに裂かれていた。見るにも耐えない痛々しさである。


「里音ちゃん、ほんとに大丈夫?」

「はい。それより、瑠衣さんは...」

「僕は平気、大丈夫」


瑠衣はひょいっと腕を持ち上げる。白くて意外にも筋肉質なそこには、大袈裟な程に包帯が巻かれていた。


「あの後自分でやっといたの。いやー、やっぱこれだから医者は良いよね」

「……」


返事もなく黙って俯く里音に、流石の瑠衣も真面目な表情を浮かべる。


「...もう僕達は戻ってきた。裏路地でカメラもなかったし、里音ちゃんが犯人だなんて誰も思いやしないよ。大丈夫、君は捕まらない」

「..違う、違うんです瑠衣さん...」

「違う?」

「私はあの時、人を殺してしまった。ナイフが突き立って、血が沢山出て。...あんなに恐ろしいものだなんて、思いもしなかった...」

「里音ちゃん、あれはれっきとした正当防衛だ」

「正当防衛でも!...あんなこと、したくなかった」

「……」


いよいよ顔を覆ってしまう里音に、瑠衣はやれやれと肩を落とす。


「あのねぇ、里音ちゃん。君の言いたいことはよく分かったんだけど、僕にはどうにも理解しがたい感情だよ」

「…え?」

「だってほら、里音ちゃんは今まで僕のやることなすこと見てきたわけじゃん?その時はこんな風になってなかった」

「見るのと実際にやるとでは、話が違うんですよ…」

「うーん、そういうものなのか」

「…やっぱり、瑠衣さん冷たいです。自分の感情だけで他人も判断してる」

「…!」


それだけ言うとソファを立ち、里音はふらふらと歩いていく。そんな彼女の腕を瑠衣は固く握った。


「待って」

「え?」

「...里音ちゃん、僕のこと少し厭ってるでしょ」

「!」

「ほら、やっぱり。...ねえ、里音」


里音は、はっと目を大きく見開いた。背を向けながらも、瑠衣の一言に驚きを隠すことは出来なかった。


「り...おん?」

「あはっ、可愛いなぁ」


思わず振り返った里音を、ここぞとばかりに瑠衣は引き寄せ、優しく抱擁する。ひっ、と無意識に溢れた声でさえも、彼の傷付いた腕に抱え込まれる。


「な、なんですか、急に」

「寂しい」

「へっ!?」

「素直に、ならせて」


思いがけない言葉に、里音は自分の頬が一瞬にして熱を帯びていくのを感じる。突如の瑠衣の豹変に言葉も出ず、言おうとした言葉が喉につっかかってしまっている。

彼の察し通りである。里音は怖くなってしまったのだ。自分が犯した、残酷な大罪。それを常日頃から涼しげにこなす瑠衣のことが。


「ねえ里音。僕のこと怖い?嫌いになった?もう出ていきたいって思ってる?」

「……」

「...だとしたら寂しい。里音、ここにいて?お願い、だから」


絞り出すように言うと、ぎゅっと、さっきよりも強く抱き締める。縋るような声色に、里音はぞわりとした感覚を覚える。喉がキリキリと痛み、声に出したい言葉が心の内側に溶けていく。彼の胸は暖かく、里音はそこに永遠に居続けたい、とさえ思った。


里音はこれまでで、ずっと引っかかっていたものがあった。殺人鬼との共同生活。避けて通れない屍の数々。意図の見いだせない「殺人実験」。何故そんなものを受け入れてしまっていたのか。もしかすると、過酷な環境でも里音は無意識に確信していたのかもしれない。こんな冷酷な彼にも溢れんばかりの「感情」があり、知らぬうちに惹かれてしまっていたのだと。


ご馳走してくれたシチューのじんわりとした温もり。里音の傷を治療している時の、あの寄り添わんばかりの表情。理由はどうであれ、自分を助けてくれた彼が真の「悪人」とは、里音はどうにも思うことが出来なかった。


「瑠衣、さん」


瑠衣を見上げる彼女の瞳には涙が滲んでいた。


「私、怖かった。正直、瑠衣さんの顔が見れないくらい、怯えてました。...でも、それでも、瑠衣さんのことは、嫌いになれなかった、です」


すぅっ、と一語一語、息を供給しながら里音は言葉を紡ぐ。瑠衣は彼女の艶のある髪を撫で、潤んだその目を見つめる。


「里音」

「はい」

「大好きだよ」

「...私もです」


2人の顔が、ゆっくりと近づいていく。いつかこんなことになれば、とどこかで期待していたのかもしれない。里音はそんな羞恥心を心にねじ込み、くすりと笑みを浮かべる。

そしてちゅ、と音を立て、唇を重ねた。彼のキスは心地よく、そして思いの外優しいものであった。







「...なあ、聞いてるのか?」

「...ん?」

「はああ。どーした、お前らしくないな」


やれやれだぜ、と肩をすくめた男、葉介は相手の顔をひょいと覗き込んだ。


市内でもひときわ目立つ大きさの総合病院、御琴総合医療センター。その最上階に構えてある副院長室で、その「彼」、瑠衣は腕を組み葉介を見上げていた。


「ごめん、少し考え事を」

「勘弁してくれよぉ。せっかく俺ちゃんともあろうお方が来てやってるって言うのによ?あんまりだぜ」

「悪かったって。...で、用は?」

「お前ほんとに反省してるか?」


葉介は騒がしくジェスチャーを交え、たたみかける。瑠衣は、はは、と苦笑を浮かべながらも、彼のほうに向き直る。


「でさ、最近どうなのよ、ぶっちゃけ」

「ファインだよ。常日頃から」

「英会話じゃねーんだよ。なあ瑠衣、お前最近何かあったろ」

「え?」

「ほら、いまギクッてしたな?分かんだよ、20年の付き合い舐めんな」


ふふんと鼻を鳴らし、葉介は得意げに瑠衣を見下ろす。瑠衣は表情こそ変えないが、視線を机上の端へと向けた。その先にある木製の写真立てには、薄手の半袖半ズボンに身を包んだ2人の少年が肩を組み仁王立ちしている。感慨に耽けることも無く、すぐに瑠衣は向き直り、てへへと笑みを浮かべた。


「いやー、やっぱりバレちゃうかあ」

「そりゃそうだろ。お前最近なんか、こう、ふわぁってしてて物思いにふけってるし。なんだお前、哲学者にでもなるつもりか?」

「論理思考の僕には無理だよ。そんな事じゃない」

「じゃあなんだよ」

「従妹のことなんだけど」

「従妹ォ?初登場だなあ、おい。まあいい、その子がどうした?」


ずいっと距離を詰め、葉介はさらに尋ねる。


「従妹の実家が関西の方なんだけど、この辺りの高校を受けたらしくてね。大学に行くまで僕が面倒を見るよう頼まれたんだ。親御さんに」

「はへー、荷が重いなあ、瑠衣」

「それで春くらいに来たわけだよ、うちに。だからそれで、多分疲れてるんだと思う。だから気にしないで。ありがと」

「そ、そか」


葉介はそばの壁にもたれると、ふー、っと安堵の息を漏らす。


「なーんだ、良かった...てっきり彼女でもできたのかと思った...」


ぴく、と瑠衣の眉が動く。それは葉介の視界には入らず、そのまましゃがみこんでしまう。


「お前は一生独身でいろよなぁ?じゃなきゃ俺の立場がねぇよ」

「自分勝手だなあ、ほんと」

「お前はハンサムボーイだから、余計心配なんだよ!」

「知ってる」

「自覚済みか...」

「用はそれだけ?」

「ま、まあな。てかお前、もうちょい感謝の心というのをだな」

「というか葉介、まずいんじゃない?」

「え?」

「次の診察時間まであと2分だけど」

「え、うそ、マジ?」

「この前も言ったと思うけど、次遅刻したら容赦なく減給だからね」

「優しくねえ...」


あわあわと白衣を整える葉介。首にかかった職員証には「整形外科部長 木垣葉介」の文字があった。


「あ、そうだ瑠衣!」

「なに?」

「また今度飲もうぜ!話、たっぷり聞きたいからな!」

「考えとく。ほら、あと1分」

「あー、やべえやべえ」


そそくさと去っていった葉介の背中を見送り、瑠衣はふうっ、とため息をこぼす。


「あー怖い怖い。幼なじみはこれだから怖いんだよ」


声に出し、勢いよく机に突っ伏す。

知り合った経緯も何もかも忘れてしまったが、幼稚園、小、中、高校、就職先も一緒となると、葉介とは仲良くならざるを得なかった。やんちゃではちゃめちゃな彼はいつでもどこでもハイテンションで、それを隣で抑えていたのが瑠衣だった。今でもその関係性は変わっていない。


本来の瑠衣であれば容赦なく切り捨てていた相手だろう。面倒くさい相手は要らない、的な言葉で突き放して。しかし瑠衣は今まで1度も、葉介を離したことはなかった。ここまで長い付き合いだと突き放す方が面倒だ、と判断したのだ。というか少なくとも、瑠衣自身はそう心の中で主張していた。


―トゥルルルルル、


古びた電子音が響く。

瑠衣は腕を伸ばし、目の前の固定電話に手をかけた。


「はい、こちら御琴総合医療センターです」

『もしもし、あ、瑠衣さん?』

「おお、誰かと思えば」


電話越しの彼女の声に、ぱっと瑠衣の表情が明るくなる。


「なんの用?」

『夜ご飯の食材が足りなくて。よければ、買ってきてもらえませんか?』

「ああ、丁度良かったよ」

『はい?』

「里音にちょっと頼みたいことがあってね...」


瑠衣は壁の方に向かって、里音にごにょごにょと囁く。


『え、急ですね』

「ごめんね、よろしくできる?」

『まあ、やりますけど...』

「そか、ありがと」


ガチャ、と受話器を戻し、瑠衣は窓の方に目を向ける。海沿いにあるそこは、一面透明で青色だった。ピャー、ピャー、とカモメたちが鳴いて、空を羽ばたいている。


「頃合い、か」


誰にも聞こえないくらいの小さな声で、瑠衣はボソリと呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る