第15話 染まる、染まる

N市警察署は過去に例を見ないほどに静まり返っていた。

誰も何も切り出そうとせず、かといって仕事に打ち込んでいるわけでもなく、ただ椅子に座り上の空になっている。

その視線が集まっているのは、窓際の空いた席だった。

数日前に出張に出かけ、そこから姿を見せていない我らが巡査部長。机に乗ったユリの花が、どこか寂しそうに傾いている。


「皆さんおはようござい…ます…」


勢いよく入って来た職員の若い男は重いその雰囲気をすぐに察し、押し黙る。

近くの中年の男が、彼の方を振り向き言う。


「おい、お前」

「はい…?」

「巡査部長殿はどうしているのだ」

「刑事はしばらくお休みなさるそうです。立ち直ることが難しいらしく…」

「そうか」


また、沈黙。

男は少し慌てた様子で自分の席に座り、空いた席の方をじっと眺める。


「…まさか、死んじまうとは思っていなかっただろうな。部長」


中年の男は深く息をつくと、立ち上がる。


「我々は事件解決のためにも、巡査部長、升川刑事殿のためにも、この事件をなんとしてでも解決しなくてはならない。いつまでもこんな感じじゃあ埒が明かない。そうだろう?みんな」

「そうとは言いましても…」


今度は別の男が口を開く。


「我らの部署の心髄である升川刑事がいないのですよ?あのお方の指示がなければどうにも」

「指示を待っている暇などないだろう。『腹裂きの刑吏』は今もなおどこかに息をひそめている。これ以上犠牲を増やすものかと意気込んでいたのは升川刑事殿だけではなかったはずだ。誰だ?俺たちだ。だからこそ、やらないといけない」

「…そう、ですよね」


少しずつ、空気が動き始めた。

職員たちはゆっくりと立ち上がり、所定の場所へと散っていく。そんな中先程の若い男が突如、升川の机の整頓を始めた。


升川の直属の部下、木垣遼一。彼は仕事熱心であったこともあり、配属されてすぐ升川に気に入られ、初動捜査のサポートを請け負っていた。


「何してんだ木垣?」

「見ての通りです」

「それどころじゃないだろ」

「頼まれたんすよ」


眉をハの字に曲げ、遼一はおどけたように肩をすくめる。男はそれ以上は何も言わず、黙って去っていった。


遼一はデキる男であったが、同時にかなり癪に触る男でもあった。なんと言うか、何時いかなるときでもふざけているような調子なのである。その軽いテンションが升川に好かれたところでもあるのだが、それ以外の職員からは当然のごとく忌み嫌われていた。その本人はというと、何も知らずのほほんとしているのだが。


「…お?」


遼一は棚の奥を覗き込むと、意味ありげにニヤリと笑った。分厚いファイルが連なる中、A4サイズの茶封筒が孤立して差し込まれていた。


「これかあ。刑事の言ってたのは」


遼一はほくほくとした顔でそれを取り出すと、てけてけと自分の席に戻る。

糊付けされた開け口を乱暴に破き、中をひょいと見る。


「おお…」


遼一の口角がきゅっと上がった。








「ねえ、瑠衣さん?」

「なんだい」

「あれ」


東京の大都会。手を繋ぎ歩く里音は、もう片方の手で建物に取り付けてあるスクリーンを指差した。


―昨日午後9時頃、都内のS警察署内留置所で爆発があり、少なくとも収監されていた8人が死亡、5人が重傷、20人が軽傷を負っています。警察は、破損していない防犯カメラを調べるなどして捜査を進めています―


「へえ、警察やらかしたね」

「収監されている被疑者が一人も逃げなかったのが不幸中の幸いです」

「難しい言葉を覚えたね」

「今更ですか?」


里音は膨れっ面で瑠衣を睨む。

瑠衣は里音に爽やかに微笑み、スクリーンを見る。


「僕はそんなことより、死んだ被疑者の方が気がかりだね。もしかしたら重要な人物だったかもしれない」

「確かに…」

「どっちにしろ、僕らには関係ないことだよ。さあ、そろそろ行こう。今日中には戻れるはず」

「はい」


二人は再び、並んで歩き始める。端から見れば年の離れた兄妹のような、そんなほのぼのしさが伺える。だからこそ、ここにいる誰も彼もこの二人が殺人鬼と家出娘だとは思いもしないだろう。


角を曲がり、細い道を進み、瑠衣と里音は駐車場へと戻ってきた。箱が積まれたみたいな、無機質な建物。何だかんだ一週間ぶりの再会である。人の気配がなくがらんとしたそこを、二人は歩く。


「…里音ちゃん」

「?」

「伏せて」


それは突然の事だった。

訳の分からぬまま里音は咄嗟に腰を屈めると、その瞬間、ひゅん、とすぐ上を何かが通り過ぎた感覚があった。


はっと後ろを振り返る。

あの男―瑠衣から賄賂を受け取った男だ。

格好は違えど間違いなかった。一週間前と比べやつれてしまっていて、クマが目立っている。

そして手には柄の大きな包丁が握られていた。


「なっ」

「よお、お嬢ちゃん。この前はよくもまあ騙してくれたな」

「騙したって、あなたが勝手に」

「うるせえ!」


男が包丁を振り上げる。間一髪でそれをかわし、里音は側の細い道に駆け込む。


「なあ、俺があの後どうなったと思う?運営側にバレてソッコーでクビだよ。あんまりじゃないか。唯一俺を雇ってくれた仕事場だったのによ。もう俺はおしまいだ。…まあでもどうせ散るなら道連れがほしいじゃないか。俺を突き落とした張本人、っていうなあ!」

「いやっ」


里音はぎゅっと目を瞑る。刹那、なま暖かい感覚とともに、嫌な音がした。

ゆっくりと、目を開く。痛くない。しかし直後、全てを悟った。


「くっ…」


目の前にいた男がうめき声をあげ、その場にふらふらと倒れた。瑠衣だった。


「瑠衣さん!!」

「平気だよ、このくらい…」


瑠衣は里音をちらりと見て、微笑む。

その腕からは大量の血が溢れ出ていた。


「残念だなあ。あれだけ澄ました顔しておいて、こんなにあっさりと」

「瑠衣さんは、死なない。死んでない!」

「そうかそうか。まあいい。次はお前だ」

「!」


じり、じりと近づいてくる男。道は奥の方に壁が見えている。行き止まりだ。

どうしたら。

キョロキョロと辺りを見回す。瑠衣を見る。男を見る。時間がない。

もうこれしかない。

里音は瑠衣の鞄に手を突っ込んだ。


「もうやめて!!」


感じたことのないものが、里音の身体中に走った。柔らかく、それでいて恐ろしい感触。噴き出す何か。里音はもう分かっていた。


はっ、と我に返る。もう手遅れだった。

目の前には血を吐いて倒れた男。青白く顔を染めて、白目を向いて固まっている。

そして手には、血にまみれたナイフがしっかりと握られていた。


「え…?」

「ふう、やれやれ助かったや」

「瑠衣、さん?」

「痛てて、かなり手酷くやられたな」


見ると、何事もなかったかのように立ち上がる瑠衣。そして血溜まりのできた道。

これは、何?


「瑠衣さん、あの、私…」

「ありがとう、始末しといてくれて」

「し…まつ…」

「うん。あ、そういえばはじめてだったね、殺し」

「殺し…私が?嘘…」

「ほら、見てごらん。とっくに死んでる」

「あ、あああ…」

「もう行こうか。これ以上ここにいるとまずい」


瑠衣は里音のナイフを取り上げると、その柄の部分を入念に拭いた。


「指紋があると厄介だからね。念のため」


至って冷静だ。

里音は両手で口を押さえ、必死に悲鳴を堪える。いままでずっと、横で見てきたこと。あんなにあっさりとしてしまうものだから、感覚が麻痺していたのかもしれない。

怖い。怖い。怖い。怖い…。

一瞬にして、恐怖の感情が身体中になだれ込んだ。

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