第18話 家族なんて

洋服の散乱した部屋。木製の大きなベッド。そこに横たえる里音はひとつ大きなあくびをし、ゆっくりと目を開けた。慣れないことに悲鳴をあげる腰は今朝になってもおさまることはなく、ズキズキと痛んでいた。


「おはよう」

「…おはようございます」


隣にいた瑠衣はごろんと寝返りを打つと、寝起きのとろんとした目で里音を見つめる。

気まずい。昨日の出来事が嘘のように、里音は目を合わせずぶっきらぼうに言った。


「怒ってる?」

「いや、違うんです。なんというか、その」

「とりあえず、服、着よっか」

「…ひぇっ!?」


ここでようやく、里音は自分が裸であることを思い出す。


「ちょ、なんで言ってくれなかったんですか!」

「ほら怒ってんじゃん…」

「怒ってないです!」


大慌てで下着を身に付けると、掛け布団を頭まですっぽりと覆ってしまう。年齢を感じさせる、完全なる「拗ね」だ。瑠衣は特に何を言うわけでもなく、黙って自身の着衣を整える。やがてごそごそと布団が動き、こもった声が聞こえてくる。


「…瑠衣さん」

「はい」

「なんか今日、冷たいです」

「お互い様だよ。…なに、構ってほしいの?」

「いや、そういうわけじゃあ…、わっ」


次の瞬間には、里音は瑠衣の胸にしっかりと収まってしまっていた。細いけれど、しっかり筋肉の付いた腕は、里音をしっかりとホールドして離そうとしない。


「あ、え、えと、瑠衣さん、仕事は…」

「このままいたい」

「へ」


別人かと疑ってしまうほどに、今日の瑠衣は変だ。里音は振り払おうとしたが、どうも体が言うことを聞かない。ぴったり密着したまま、離れることは叶わない。


「な、何ですか、変ですよ…」

「変?ああ、それで思い出した。里音ちゃん前に、僕をヘンタイ呼ばわりしたことあったよね」

「ああ、あれは…深い意味で言ってたわけではなく…」

「いや、あながち間違ってないかもな、って」


スラッと瑠衣は言ってのけたが、その瞬間、里音は自分の身の危険を覚えた。だがしかし殺人鬼としての恐怖は、もう消え去っている。


「しゅ、出勤の時間です!早く、準備を!」


滲む羞恥心を隠すように、里音は瑠衣の胸板をポカポカと殴る。瑠衣は不満げに表情を歪めながらも、ゆっくりとその腕を緩めた。


「里音ちゃん、今日よそよそしい」

「瑠衣さんのせいです!」


せっせとワンピースに着替えた里音は、早足で台所へと駆けていく。本心なのか、ただの虚言なのか、脳内で整理が追いつかないでいる。トースターの上に置かれた食パンの袋を開封し、二枚並べて焼き始める。


「ねーねー里音ちゃん」

「はい?」


見向きもせずに答える。


「僕、今日病院休むね」

「え?」


里音は思わず顔を上げてしまう。パジャマ姿で歩いてきた瑠衣は、いつもの悪賢い目をしている。先程の気だるさはどこへやら、と里音は心底呆れたように息を漏らす。


「ああ、昨日の件ですか?」

「もちろん。あれをどうにかしない限り、おちおち仕事なんか行ってられないよ」

「まあ確かに。存続に関わりますからね」


すると瑠衣はごそごそとポケットをまさぐり、スマホを取り出す。


「もしもし。…あ、遼一くんか。どうも」


背筋がすんっ、と凍りつく。

瑠衣はいつもの、貼り付けられた微笑みを浮かべ、電話に応対する。


「葉介いる?…うん、じゃあ代わって貰えないかな」

「瑠衣さん、あの」

「しっ」


自身の唇に人差し指を押し当て、里音のそれ以上の発言を塞ぎ込む。


「…あ、もしもし葉介?二日酔い?…ああ、大丈夫ならいいんだけど。…ははっ、そりゃあ都合がいいよ。…ん?いやぁ、実は葉介に頼みたいことがあるんだけどさ。今日の僕のオペ、葉介がやっといてくれない?…うん、実を言うと上からの指示でちょっと会議に出なきゃならなくって。…はいはい、じゃあ二割増でどう?…はい、じゃあ決定ね。ありがと、んじゃっ」


ぽち、と通話を切る。そしてぼうっと見つめる里音の方を向き、ふふっとすました笑みを浮かべた。


「はい、今日は1日休みだ」

「ちょちょ、待ってください。葉介さんに任せたんですか?」

「うん、あいつ二日酔いはしないタイプだし、いけるかなって」

「それもそうですし、二割増って…」

「給料だよ。あーでもしないと行ってくれないの。面倒くさがりだし」

「それって病院側としては?」

「アウト」

「ダメじゃないですか!」

「そう?」


けろっとした顔で、瑠衣は首をかしげる。里音は諦めて作業を再開した。もとより、この人を法に当てはめることは困難だろう。


「で、なにをするおつもりですか」

「捜査の打ち切りだよ」

「打ち切り?」

「捜査を止めさせるってこと。そうしたら犯人も誘拐された少女も、みんな闇のなかだ」

「根本的な案ですね。でもどうやって?」


確かにシンプルではあるが、そこに至るまでがどうにも難儀である。しかし瑠衣にはどうもその質問が耳に届いていないらしく、机に組んだ両腕に顔をちょこんとのせ、呑気に微笑みを浮かべ口を開いた。


「分かってるとは思うけど、事件の担当が遼一くんに継がれたってことは、升川刑事は担当を外れたってこと。理由は大きく二つ考えられる。一つは、上からの指示で辞めさせられたから。もう一つは何だと思う?」

「…自らの意思で退いたから、ですか?」

「正解」

「でも、警察側としては彼に残っていて欲しかったはずです。何せ、敏腕刑事で有名でしたから」

「そうだね。だとすると答えはひとつ、彼自身が辞めたんだ」

「まあ、そうでしょうね。娘さん…那緒さんが逮捕されたとなると、心を病むのも理解できます」


普段は誇りを持っているであろう自らの生業も、今回ばかりは恨んでしまったのであろう。里音は唇を噛み、俯く。瑠衣は軽く視線を上げる。


「…しかし不思議なことに、その後彼は一回職場復帰してるんだよ」

「え?それが理由じゃないんですか?」

「どうやらそのようだね。自分の給料を削ってまで娘を手厚く保護し、部下たちの捜査体制を強化していたらしい。感動するほどの労働っぷりだね」

「なら、どうして」

「その晩に、娘は死んじゃったんだよ。散り散りになってね」

「…え、もしかして、留置所の!」

「うん、あの爆心にいたそうだ。可哀そうなことに」


死体は発見されなかったそうだよ、と瑠衣はさらりと言ってのける。里音は顔を上げ、目の前の男を睨みつける。


「瑠衣さんですね」

「ん?」

「爆破したの。全部計算だったんでしょう」

「…ははっ、相変わらず賢いなあ。」


瑠衣は立ち上がり、ゆっくり里音の方へ歩み寄っていく。心臓が聞いたことのない音を立てる。しかし里音は目を逸らさなかった。


「…彼女が逮捕されるだけでも、父親としては相当こたえる。それに追い打ちをかけるように、爆破事件。どうなるかは目に見えている。完全に打ち切ることができたと思ったけど…甘かったみたいだ。いっそ、医者より警察の方がよかったかな」


焦げちゃうね、と瑠衣は肩越しにトースターを切る。


「僕悔しくってさ。あの後ちょっと調べてみたんだよね。そしたら一番シンプルな方法で、時効を待つっていうのがあったの。さて問題。僕の罪だと、時効が切れるのは何年後でしょうか」

「え?ええ…15年くらいですかね?」

「ぶっぶー。正解は25年」

「そ、そんなにですか」

「うん。普通に考えて、不可能だよね」

「では、もういっそ殺人の方を打ち切れば」

「…は?」


瑠衣の声色が変わったのが、里音にははっきりとわかった。理論立てて夢中で喋っていたせいで、どうやらかなりまずいことを口にしてしまったらしい。忘れていた恐怖が甦る。瑠衣は固まった表情のまま、文字通り目と鼻の先まで里音に接近してきた。


「…今更それはないでしょう。これが僕の生きがいなのに」

「生きがい?」

「臓器を取り出し、保存する。それだけのことを、どうして止めようとするの?」


ぬるい息がかかる。顔を上げられず、里音は口を結ぶことしかできない。瑠衣はふっと里音から離れると、踵を返し食卓に戻る。


「とにかく、それ以外の方法でどうにかして捜査を止める」

「…る、瑠衣さん」

「ん?」


何とか里音は声を上げた。座りかけた瑠衣は、今度は何だと言わんばかりにゆっくりとそちらを振り向く。


「ずっと、聞きたかったんですけど」

「なに?」

「瑠衣さんが臓器を保存しているのは、一体何故ですか。それも、たくさんの人々を犠牲にして。尋常でない執着心を感じます。趣味だとか、そんな軽いものだとは」

「趣味だよ」


発言を全否定するかのように、瑠衣は食い気味に言った。しかしその一言は、里音の言葉を素早く引用しているようにも捉えられた。


「この前はちょっと言葉濁したから、考えさせちゃったよね。ごめんね、もっと早く言っとくべきだった」

「いや、でも…」

「この話は終わりにしよう。里音、お湯を沸かして」

「…はい」


瑠衣に根負けし、里音はポットに水を注ぐ。瑠衣は思い出したようにトースターから食パンを取り出し、皿に盛りつけた。里音はその間に熱したフライパンに卵を二つ割り落とし、塩と胡椒を軽く振る。ぱちぱちと弾く音が、白身のふちを茶色く染めていく。


「もう、深追いはしません。養われている身として、文句は言えませんし」

「よろしい」


目線を向けることもなく、あっさりとした顔で瑠衣は言う。モヤモヤとした感情を何とか抑え、里音はそっと笑いかけた。








「は?訳わかんね。休ませろよ飲み会の後くらいはさあ。…はぁ、わかった。報酬は?…わかった、わかりましたよ。…はいはい、んじゃまた」


ぶん投げる勢いで受話器を置き、葉介は大きな溜息をついた。奥のソファに体を預けていた弟、遼一は気だるそうに上半身を起こし、 半笑いを浮かべる。


「ドンマイ兄さん。あ、ちなみに俺今日休みね」

「言わんでよろしい」


不機嫌そうに頬を膨らませ、葉介はスーツのジャケットを手に取る。


「まあ、この借りはいつか返してもらう」

「とか言って後で忘れるパターンだ」

「うるさい」


ワイシャツを羽織る葉介の隣で、パジャマ姿の遼一はようやく立ち上がり、キッチンへ歩いていく。


葉介と遼一は、職場が近いということもあって長年同居生活を続けていた。


「ありゃりゃ、菓子パンしかないや。兄さん、ミルク、いちご、チョコ」

「チョコ」

「りょーかい」


遼一は散らかった棚から2つ、チョコデニッシュとジャムパンを取り出し、元来た方へ戻る。


「兄さん、もう25だよ?酒癖くらいそろそろ直せないものかね」

「まだ、25だろ」

「俺、まだ23だよ」

「…あーしょうもない、やめだやめだ」


上着に袖を通した葉介は両手を仰ぎ、そのままソファに倒れ込んだ。そこにデニッシュを投げ入れ、遼一はふう、と息をつく。


「兄さんも大変そうだねぇ。なんであんなのと友達なったの。振り回されてばっかりで、メリットなんかないじゃん」

「相変わらず失礼な」


一口ジャムパンをかじり、遼一は兄を見下ろす。葉介は体勢を変えることなく、目線だけを彼に向けた。完全に睨みつけていた。


「友情にメリットもデメリットもないだろ?あいつのダメなとこを俺が分かっているのと同じで、あいつも俺のダメなとこを分かってる。これがどういうことが分かるか?」

「うーん、なんだろ」

「お互いが理解して、受け入れてる。そういうことだよ。そうでも無いと20何年続いてないよ」


ふへー、と感心したように遼一は声を上げる。しかし次の瞬間にはどこか不満げに眉をひそめていた。


「だとしたらさ、兄さん。悪いとこを受け入れられなかった父さんと母さんはどうなるのさ」

「…!!」


葉介は静かに起き上がる。


「…遼一。その話はしない約束だ」


先程までとは打って変わって、鋭い声色で遼一の話を制す。遼一もさすがにしまったと思ったのか、それ以上は言及しなかった。


「あいつの方が…瑠衣の方が、よっぽど辛いんだよ。だから、もう言うな」

「ごめん」


葉介はリュックに書類と、デニッシュを詰め込み背負った。


「じゃ、行ってきます」


それだけ言って、葉介は出かけて行った。

残された遼一は1人黙々とパンを食べていたが、やがて立ち上がり、寝室の方へと歩いて行った。2つ仲良く並んだベッドと、両端に置かれた小さな棚。右側のそれを開け、遼一はふうっ、と息をついた。そこには茶封筒と、いくつかの書類がちょこんと置いてある。しばらく眺めた後に、遼一はぼそと呟いた。



「…そろそろ行ってみるか、東京」

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