第13話 壮絶
「お前なんか出ていけ!二度と帰ってくるんじゃない!」
「いいよ!もう顔も見たくない」
3年前。これがすべての始まりだった。
その瞬間の怒りに身を任せ玄関を飛び出した那緒は、僅かな金を握りしめ電車に飛び乗った。
自分の妻もろくに守れないクソ親父のもとにいたって、何も得なんかない。これからは私一人で生きていくんだ。車窓からの景色を見ながら、そう決心していた。
そのために行くところは、一つしかなかった。人々がひしめき合い、日本でも特に発展している都市、東京だ。
だが実際上陸したその日、那緒は早々に心が折れそうになった。
「なんだお前、邪魔だぞ」
「え、何この子ボロボロじゃん」
「行こ、面倒臭い」
田舎の家出少女を歓迎するはずもなく、東京は残酷にも那緒を突き放した。
星の見えない空を見上げて那緒は泣いた。
自分に居場所がないのかもしれない、それを突きつけられた瞬間であった。
「ん?君、ちょっといいかな」
「!!」
「私たち警察の者なんだけど」
終電が遠くに消えていった直後の事だった。
警察、という言葉を聞いた瞬間那緒は走り出していた。遠くで叫ぶ警察官の声には耳を貸さず、小動物のように駆け抜ける。
逃げ込んだ先は、裏路地の不法投棄場所だった。ひどい匂いの充満するそこに身を隠し、ただ時が過ぎるのを待つ。
しかしそこでどっと疲れがのし掛かり、那緒はその場で眠りについた。
目が覚めたのは、全く知らない場所だった。やけに洒落た紫の部屋で身を起こした那緒は眩しすぎるそこをきちんと眺めることはできず、直後、ドアが開いた。
「ああ、あんた起きてたのかい」
「え?」
「全く、あんなところで寝てちゃダメじゃないか。補導されるよ」
入ってきた女は派手な赤のドレスを身にまとい、男っぽい口調で那緒に畳み掛ける。
「ここは?」
「私の店さ。さっき営業が終わったところ」
女はバーのママだった。
ゴミ捨て場で眠っていた那緒を拾い、自身の店でかくまってくれていたのだ。
その日から、那緒は恩返しとしてその店で働き始めた。働く、といっても当時那緒は中学生。裏でつまみを盛り付けるとか、その程度の軽いものである。しかしママは那緒を気に入り、優しく接してくれた。
初恋をしたのも同時期である。
いつもバーにやって来て、白ワインとブルーチーズを頼む男の人。黒のスーツに、ネクタイを緩める仕草が印象的な人だ。
「ママ、あの人は?」
「うちの常連だよ。真壁宗也、いい奴さ」
「まかべ…」
「おや、どうした那緒。惚れちまったか?」
「んなこと!」
ムキになり言い返す那緒を、ママはへらへらとかわしていた。無理はない、なんせ那緒と真壁は20歳近く離れていたのだ。
「おや、オーナー。この子は?」
「ひっ」
「この子かい?最近うちを手伝ってくれてる那緒だよ」
「ふうん。よろしく、那緒さん」
「よ、よろしくお願いします…」
目を合わせられず俯く那緒を見て、ママは思わず声をあげて笑いそうになっていた。
「じゃあ那緒さん、ブルーチーズを一切れくれないかい?」
「あ、はい!わかりました」
「よかったじゃないか」
「うるさい!」
口ではそう言っていたものの、心の中では舞い踊っていた。自分に話しかけてくれた、目を見て注文してくれた、名前、呼んでくれた。それだけでもう、那緒はなにも要らなかった。そう、典型的な一目惚れだった。
年の離れた彼に振り向いてほしい。その一心で、猛烈なアピールを繰り返した。髪も伸ばして結い上げ、昔の自分じゃ考えられないようなフリルのワンピースを着て、彼の好みの女の子になれるように努めた。これは彼女の、はじめての誰かのための努力であった。
「那緒ちゃん雰囲気変わったね。美人さん」
「え、そうですか?嬉しい…」
そう真壁に言われたとき、「嬉しい」の一言じゃ片付かないくらい、感情が脳みそから飛び出していきそうなほどに高ぶった。
「やったじゃないか、那緒」
「あの、私、その…ああ」
「落ち着けって」
「あははっ」
そこからは、いつものような他愛ない話を繰り広げた。天気の話、最近公開された映画の話、真壁の会社の禿げかかった上司の話。
「真壁さん、ほんと酔わないですよね。結構飲むのに」
「結構酔ってるよ?今も」
「見えないですよ全然。今4杯目なのに」
「ほんと?また飲みすぎたな。今日は十分楽しませてもらったし、そろそろおいとましするとしましょうか」
「ありがとうございました」
いつもの爽やかな笑みを浮かべて、真壁は財布を取り出す。
その時であった。
―カランコロン―
「あ、みーっけ!もう、宗くんこんなとこにいたぁ。探したんだよ?」
少女が一人店に駆け込んできて、真壁の腕を抱く。真壁はあからさまに動揺した表情を浮かべる。
「え?」
「ちょ、お前…」
「あんた、誰だい」
冷静に尋ねたのはママだ。
「そ、そうです、あなた…」
「決まってるじゃん!宗くんのカ・ノ・ジョだよ?ヨロシクね!」
「え?」
空気が一瞬にして冷たく凍りついた。
ママは何も言わず少女を睨み付ける。
一番驚いたのは那緒だ。
真壁さんに、彼女?しかも、私と同じくらいの。
じゃあ今までの私は何だったの?真壁の一言一言に、勝手に踊らされていただけ?
勝手に、騙されていたの?
「…失礼します」
「あ、ちょっと那緒さん!」
愛する人の声は内側から耳栓をして、那緒は踵を返しバックルームに戻る。
バタン、とドアを力任せに閉めて沈黙が訪れる。へなへなと那緒はその場に座り込み、声をあげて泣いた。初めての失恋だった。
「すみません、もう行きます。…おい、離せよ」
「やだよっ」
わちゃわちゃとした会話の後、ガチャリと閉まるドアの音。
どうやら退店していったようだ。
そこで、那緒はふと我に返る。
真壁さんのあの態度。本当に彼女だったら、普通はあんな感じなのか?
いや、違う。瞬時に結論に達した那緒は立ち上がった。
ここから帰るためには駅へと向かう必要がある。駅へ向かうには店の裏側を通っていかないといけない。裏口からなら、回り込める。
部屋の隅に設置されている扉を少しだけ開けて、片目を隙間に差し込む。
わちゃわちゃが近づいてくるのが分かる。心臓がバクバクと小刻みに跳ねる。
「いい加減にしてくれ!」
ひっ、と背筋が伸びた。
少女の方を向いて、鬼のような形相で睨みつける真壁の姿。
こんな真壁さん、私知らない。
「なに、どしたの宗くん?可愛い彼女が迎えに来てあげたんだよ、ほら、にこっ!」
「うるさい。もうやめてくれ」
「えー冷たいなぁ」
わなわなとしたオーラがこちらにも伝わってくる。それなのに少女はへらへらと能天気に笑っている。度胸があるのか、気づいていないのか。
どっちにしろ、腹立たしかった。
「そろそろ観念しないと被害届を出す。親に迷惑かけたくないんなら今すぐ俺のもとから去ってくれ」
「え、なにそれ、被害届って、ひどい…。私、宗くんの彼女なんだよ?」
「自分で言っているだけだろう。いいか、ストーカーは立派な犯罪なんだ。ここまで野放しにしていたのは優しい方なんだぞ」
「ううっ、うう…」
両手で顔を覆い、泣き始める少女。
那緒はそこですべてを悟った。
やっぱり、真壁さんは良い人。その真壁さんをあんな顔にさせるなんて、許さない。
真壁さんを、助けないと。
真壁は困惑の表情を浮かべて、その場からそそくさと去っていった。
そのタイミングを見計らい、那緒はそっと外へと出る。
「あ、あの…」
「んん?」
ゆっくり、顔を上げる女。
ちっ、こういうときも欠かさず上目遣いかよ。飛び出しそうになった悪態をぐっとこらえ、那緒は優しい微笑みを浮かべる。
「どうかした?」
「あ、あなた、さっきのお店の…」
「うん。なんか、ほっとけなくてついてきちゃった」
「…見てた?」
「……」
沈黙は肯定しているようなものだ。
「…ごめんね、なんだか盗み聞きしてるみたいになっちゃって」
「ううん、全然いいの」
「私でよければ、話聞くよ」
「本当?」
「うん。実は私も、失恋したばっか、というか。だから気持ちわかるんだ」
「…うええん、優しいね」
「そんなことないよ。私、那緒っていうの。あなたは?」
「うっ、うっ、由愛佳」
上京して1年がたつ頃。那緒、15歳。人に対して初めて殺意を抱いた瞬間だった。
それからもう一年。那緒は由愛佳と仲良くしているように振る舞いつつ、彼に代わっての復讐の機会を窺っていた。
髪の毛は以前のように短く切り、派手色のじゃらじゃらした服を着て、もう以前の彼女の面影もなかった。それほどまでに、彼女は心を強く痛めていた。そしてそれを感じる度に、由愛佳への殺意は膨れ上がっていった。
しかし、那緒は途中から自分でもわかりはじめた。機会を窺っているんじゃない、どうしようもなく躊躇っているのだと。
何か決断できる、決定打のようなものがないと、あいつを殺れない。那緒は焦っていた。
だが機会というのは意外とあっさり訪れた。
「お前、どうして早く言わなかったんだ!」
「うわーん、ごめん那緒!」
また、由愛佳がやったのだ。
真壁と同じ年の、しかも妻子持ちに。
「どうして懲りないんだ!本当に被害届出されたらどうする?」
「ううん、それならね、大丈夫なの」
「は?」
「私ね…妊娠してるの」
ぱっと、由愛佳は顔をあげる。
涙で濡れた満面の笑みがそこにはあった。
「あんた、何考えてるの…?」
「誘ってきたのはあっちだよ?それにデキちゃったなら言うにも言えないでしょ?」
「由愛佳」
「どんな子が生まれるかな?男の子かな?女の子かな?きっと私似の可愛い子よね?」
「おい、」
「彼はどうするかな?奥さんに冷めてきたって言ってたから、離婚かな?」
いい加減にしろ。
ぷつん、と何かが切れる音がした。
「え、ちょ」
黙れ、黙れ、この人間クズが。
那緒の両手が由愛佳の白い首筋を捕らえる。
深夜の誰もいない、臭くて汚い広間。その地面に由愛佳を強く叩きつけて、締め上げる。
「…!…!!」
何かを叫ぼうとする由愛佳。声はひとつも出ず、その代わり痙攣が激しくなっていく。
「真壁さんを散々な目に遭わせておいて…よくも、よくも!!」
那緒は夢中だった。
力の限り、首を掴む。理性なんて、とっくの昔に吹き飛んでいる。
由愛佳は大きく体をのけぞらせ、ぴくぴくと数回動いた後、ぱたりと倒れ込んだ。
そこで那緒は我に返った。
「あ…あ…」
目の前には憎らしい女の変わり果てた姿。
もちろん、那緒が自ら殺ったものだ。
これは夢だ、と自分に言い聞かせる。頬を思い切り叩く。じんじんとした痛みがはっきりと残る。
その場で、那緒は座り込んだ。焦りや恐怖を飛び越して、もはや放心状態であった。
どうしよう。どうにか、どうにかして隠さないと。でも、このあたりに隠せる場所なんてない。このままにしておいたらすぐに見つかってしまう。
そうだ。
不意に頭に飛び込んできたあるニュース。
最近巷を騒がせている最恐の連続殺人犯、「腹裂きの刑吏」。
あいつに罪を被ってもらえば。手口ならテレビでやっていたから分かりきっている。
内臓を、由愛佳からすべて取り出すんだ。
いつかの時のためにポケットに忍ばせておいた、折り畳みナイフ。恐る恐る取り出し、スチャッと刃を弾き出す。
フリルだらけのブラウスをゆっくりと脱がし、裸になった上半身をまじまじと眺める。いつかに真壁さんの腕に押し付けていていた形の良い胸。比べて何度落ち込んだことか。
しかし、これも最後だ。
那緒はゆっくりと、それの真ん中にナイフを滑らせる。綺麗な直線上に、鮮血が滲み出ていく。
いつかに、魚の解剖をしたことがあった。
ほぼ無心の那緒は、完全にその感覚で体を裂いていっていた。どろどろの体液にまみれた心臓を取り出したところで、ああ、こいつはもう死んだんだな、というのを初めて感じ恐ろしくなった、しかし後悔はなかった。
「あんた」
「!!」
「何してんだい」
はっと振り返る。
腕を組み仁王立ちしているママだった。
彼女のことだ、全て見ていたのだろう。
「ママ」
「いつかやるだろうとは思ってたよ。じゃないとあんな奴と仲良くなんかしない」
「…ごめんなさい」
「普通は謝って済む問題じゃないね。でもあんたのことは長いこと見てきたつもりさ。…それ、貸しな」
「え?」
ママはナイフを引ったくると、切開された腹部にそれを沿わせ、器用に取り出していく。
唖然として見つめていた那緒は、慌てて口を開く。
「おいママ、それに触れたらママが疑われちまう」
「いいさ。どうせこの辺りで死体が見つかったら問答無用でアタシのせいにされちまうからね」
「は、何言ってんのママ?」
「アタシの父さんはな、前科持ちなんだよ。殺人の」
「!?」
「あんたには初めて言ったことだね」
カチャカチャと刃を鳴らしながら、ママは話し続ける。その顔には、どこか清々しい表情が浮かんでいる。
「いいか、あんたはここからすぐに離れろ。この内臓は、その上着にでも突っ込んで遠くに捨てるんだ。こうなった以上、実家に帰ることも視野に入れないといけない」
「……」
「…ポケット」
「え?」
「アタシの右ポケット」
那緒はようやく理解し、ママの隣にしゃがみこんでポケットに手を入れる。
出てきたのは豪華な装飾を施された財布だった。那緒はママを見上げる。
「ママ、これは…」
「持っていきな」
「ダメだよ、こんなの」
「いいさ、どうせアタシはじきに逮捕される身なんだから」
ママはどこから取り出したのか、黒い袋に摘出した内臓を放り込んでいく。
口を結んだそれを那緒に突きだし、言った。
「あんたのことは忘れないさ」
「……」
「何してんだ、早く行きな!」
気がつくと走っていた。
手に持った袋を上着のポケットにねじ込み、無我夢中で。
どのくらい経っただろうか。
やがて闇を抜け、S区の中心街に出た。
ここをまっすぐ行ったら、那緒の勝利。
スクランブル交差点を真っ直ぐ突っ切っていく。両肩にぶつかる人なんか気にしてはいられない。逃げないと。ここから一刻も早く。
もうちょっとで――
「すみません」
「…!?」
肩を掴まれる。恐ろしく強い力だ。
反射的に振り返ってしまう。
長髪で髭を生やした男だった。
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