第23話 最期のキスは

「あいつは…自力で教員免許を取ったんだと私に話してくれた。最初は信じられなかったよ。あの清子が、まさか…ってな。でもあいつの目を見て、嘘じゃないんだとわかった。あと…俺のことを心の底から恨んでいる、ということも」


瑠衣はその間何も言わなかった。「言えなかった」の方が正しいかもしれない。最初は警察側が父親を探し―もしくは演じて、自分にカマを掛けてきているのだと思っていた。しかし…清子の名が出た瞬間、瑠衣は、脳へ流れる血がぷつんと途切れたような、そんな心地がした。無意識にぶるりと震えていた。


「逃げよう。そう思った。瑠衣はもう高校生だ、いつどういう経緯で真実を知ることになるかわからない。それに…こんなにも身近なところで生き別れの姉がいるとなると、それはもうリスクでしかなかった。私は夢中だった」


郁郎の声が小さく掠れていく。

瑠衣は全てを察した。


「…だからあの時わざと家に火をつけて…清子…姉さんと、東京へ…?」

「瑠衣、お前の頭の良さがこの時ばかりは問題だった。だから怪しまれないように…俺が死んだってことにして」

「ふざけてるのか…?」


思わず零れていた言葉。何か言おうとした郁郎を遮るように、瑠衣は声を荒げる。


「あの時どれだけ僕が心配したと思ってるんだよ!家に帰ったら家が燃えていて…うちの犬が炭になってて…。何より、急に家族を全員無くした僕の気持ちが!!父さんには理解できるのか!?葉介には弟がいた、同じ苦しみを分け合えていた!だけど僕はどうだよ!知らぬ間に姉さんの存在を忘れさせられて、母さんは僕を優先したせいで死んだ!犬は骨すら残らず焼けて、そして父さんは!父さん自身に死んだと思い込まされていた!」

「……」

「今の僕の気持ち…わかるか?すべて騙されていたって知った、僕の気持ちが!」

「お前はつくづく自分勝手だな」

「!!」


その声は、受話器を通しても、冷たく鮮明に響いていた。


「家族を亡くしたのは同じだろう。…お前はもっと他に言うことがあるはずだ」

「え、」

「どうして、こんなことをしているんだ」


郁郎の声色が変わったような…そんな気がした。瑠衣は反射的な「恐怖」を覚える。

その声はまるで―父親が「わるいこと」をした我が子をたしなめているような感じであった。


「全部、知っているのか」

「……」


無言は肯定に等しい。分かっていたことだけれど、瑠衣は途端に涙を流した。

父さんは自分のした「わるいこと」を知っている。そして姉である…清子の父。

そして彼のもとには今、怒り狂った男が物凄い勢いで向かっている…。


「…ろ」

「…ん?」

「逃げろ!今すぐ!」

「え、どうしたんだ急に、」

「いいから!早く逃げてくれ!」


勢いに任せ、気が付くと受話器を叩きつけていた。

ひゅう、ひゅう、と苦しげに息をして、ふらりとソファに倒れ込む。

―これが、僕に下された罰だというのか。

はは、と乾いた嘲笑が漏れる。


「もとはと言えば、僕の仕向けたことなんだけどなあ…」


瑠衣は「あの時」の事が脳内から離れずにいた。


『瑠衣!!』


葉介の今にも泣きそうな声。

―あの時、とても身勝手だけれど僕は…腹を立てていたんだと思う。

(君はまだ家族がいるじゃないか…僕はもう、独りぼっちなんだ。どうして生かそうとするの?もういっそ…楽にさせてよ)


『ありがとう』


瑠衣なりの、精一杯の皮肉だった。煙でやられていた肺のせいで声が出ず、葉介には届かなかったわけだが。

その後葉介の父親も死んで、瑠衣は葉介と遼一との三人で、養護施設の小さな部屋で暮らしていた。

―あの時…あの夜…

『もう一度この世に…父さんを生み出せたらなあ…』


「瑠衣さん?」


「彼女」の声に、瑠衣は我に返る。


「あれだけ叫んでいたら、嫌でも起きちゃいますよ」

「里音…」

「…!泣いて…るんですか?え、どうしたんですか?なにか、」


ちゅ。


一瞬の出来事だった。


「え、あ、え?」


途端に赤くなる里音を愛おしげに見つめると、瑠衣はふ、っと笑う。


「なんですか、急に。変ですよ…?」

「いや、何だろうね。…僕もわからないや」

「それどういうことですか…」


苦笑を浮かべる里音の表情が、鏡のように瑠衣に乗り移る。

里音は黙って瑠衣の肩を抱くと、ぽすり、と自身に沈めた。


「はっきり言ってくださいよ」

「…もう一回」

「え、」


ちゅ、ちゅ、


「ん、ふう…何ですか、ねえ…」

「…ごめんね、ごめんね…」

「…!!」


微かなその声を、里音は聞き逃さなかった。

自然と彼女の腕に力が入る。


「今夜はずっと…こうしていてください」

「…いや、」

「絶対です」


腕を緩め、瑠衣を見た里音の目は、赤く腫れていた。













「ん、うう…」


昨晩すぐに寝落ちしてしまったのだろうか。眠い目を擦り、里音はゆっくりと起き上がる。目の前にはテレビ、小柄なシャンデリア、縦に積まれた本。

いつもと何ら、変わらない部屋の光景。だが里音には、なにか違うように感じた。


「…あれ?」


ふと、里音はその違和感の正体に気が付いた。


「瑠衣さん…?瑠衣さん!!」


すっかり目の覚めた里音はソファから飛び降りる。瑠衣の部屋、キッチン、風呂場、トイレ、玄関。愛するその男は、影すら見せてはくれない。


「なんで?何でいないの!!」


ついには崩れ落ちる。

瑠衣が、忽然と姿を消したのであった。


「そうだ、木垣さん…」


里音はすがるように受話器に手を取ると、たどたどしい手つきで番号を打つ。

待っている間の着信音ですら、もどかしい。


『…んぁあ、なによ瑠衣、こんな朝早く』

「里音です!あの、瑠衣さんは、」

『お、え?里音ちゃん?』

「はい!瑠衣さん、」

『え、何、瑠衣?そっちにいないの?』

「朝起きたらいなくて…どこにいるか知りませんか?」

『さあ…わからんなあ。でもそれは聞き捨てならんな。瑠衣がそんなことするとは思えないし』

「やっぱ、そうですよね…どうしよう」

『よし、俺今から向かうから。ちょっと待ってて』

「え、そんな、申し訳ないですよ」


言い終わる前に、ドタバタと物音が受話器越しに聞こえてくる。


『ほら、遼一も立って!』

「え、」

『遼一も連れてくから!こいつ警察だし、なんかあった時すぐ対応できるっしょ』

「あ、えと、ありがとうございます…」


勢いで受話器を置くと、里音は訳もなく髪を結んだ。木垣たちが来るまでの間じっとしていることなど、ほぼ不可能に近かった。

そしてもう一度、瑠衣の部屋へと向かった。彼女に残っているのは僅かな希望のみだった。


玄関前右に位置する、瑠衣の部屋。ドアノブを捻り恐る恐る扉を開けると、そこは先程と何ら変わらない光景。しかしそんなこと里音にとってはどうでもよかった。

家の面構えとは打って変わって、小さく質素なシングルベッド。サイドテーブルに置かれた、枯れかかったクレマチスの花。小切手の入った額縁。全てに靄がかかって見えるのは、いったいなぜだろう。思わずその場に座り込む。


―ピーンポーン…


ふと、外からチャイムが鳴った。もうそんなに時間が経ったのか、と里音はストレートに驚きの感情を覚えた。


『里音ちゃん?開けて、里音ちゃん!!』


インターホン越しの葉介の叫び声。開けないと。そう思っても、体が動かなかった。

遼一さんとは、どうしても話しておかないと。今のタイミングで、恐らく瑠衣の行動を細かに知っているのは、彼だけだ。


「今…行きます」


届くはずのない声を上げて、ふらふらと立ち上がる。

刹那、視界が、ぐらりと揺らいだ。












…ちゃん、りおんちゃん、里音ちゃん!!」

「…!!」


はっ、と跳ね起きると、すぐ側に葉介と遼一が座っていた。どうやら気を失ってしまっていたらしい。里音はせわしなくあたりを見回し、口を開く。


「どうやって…?」

「管理人に、合鍵を借りたんだ。嫌な予感がしたから」

「身体は大丈夫?無事?」

「なんとか…本当にもう、何から何まですみません」


ふと、里音は自分の寝ている場所が瑠衣のベッドであることに気付いた。


「え、」

「ごめんね、今は病院沙汰になってる暇はないかな、って」


察したように遼一が付け加える。葉介も隣でうんうんと相槌を打つ。


「…そうだ、瑠衣さん…!」

「探しに行かなきゃね」

「おい遼一。それなら警察に頼んだ方が…」

「なんのために俺連れてきたんだよ、馬鹿兄貴」

「そ、そうか…」

「なあ、里音ちゃんに何かあったかいの作ってくんね?まだちょっと大丈夫じゃなさそうな気がする」

「ええ?急がなきゃまずいだろ!」

「ほら、早く早く」

「おい、ちょ」


葉介が何かを発する前に、その体は遼一によって部屋の外へ押し出される。

扉をがちゃり、と閉めると、遼一はゆっくりと里音の方を振り向く。


「…今更だけど、初めまして」

「あ、どうも…」

「瑠衣さんからは聞いてるよ。あ、兄貴不器用だから。結構時間稼げるでしょ」

「……」


きっと、そういう事なのだろう。

里音は逆に、ぐっと身構えてしまう。


「俺の事は…教えてもらってるんだよね?」

「…はい」

「良かった。里音ちゃんは、どう思ってるの?瑠衣さん」

「え、その…」

「俺は全部知ってるから」

「……」


里音は静かに、遼一の目を見る。一見不真面目そうに見える彼の奥の方には、意志以上の何か強いものを感じさせた。


「私自身…瑠衣さんに味方するのが生き甲斐だ、と思っているのが本音です。これまで家族に痛い目に遭っていて…だから、私の人生はこれなんだ、って」

「…そっか。瑠衣さんと会った時からずっと、辛かったでしょ?」

「辛い…?」

「難しい事情も何もかも消してみたら、瑠衣さんはただの殺人犯なわけで。だから…最初は躊躇ってたと思うの。普通の人間の心を持っていれば」

「確かに、そうではありました。でも、」

「俺だってそうだったよ」

「あ…」

「あん時の俺は…まあ今もだけど。相当いかれてるわけね。大前提として。でも元を辿れば悪いことなんてもっての外な生真面目少年だったの」

「そうなんですか?」

「うん。聞いてないかな。うちの家、親いなくて」

「えっ、」

「そう、意外でしょ。ちょうど俺が生まれた時に…親父がいなくなっちゃって。んで、施設に預けられたの。生まれてから3年くらいだったかな。ずっと施設の大人に育てられたせいで、正しいことしか知らないつまんねぇ子になって。でもそういう子って解き放たれた瞬間、反動でやんちゃになるじゃない。俺も現にそうで…警察だってのにこの様だよ」


遼一はそう言うと、パーマのかかった黒髪をつまんで、へへっ、と笑う。その隙間から覗く耳には、じゃらりとピアスが光っていた。


「中学時代の担任とは付き合ってた。あん時は表面申し訳程度に優等生だったから、誰にも怪しまれることも噂が立つこともなかったの。でも兄貴は凄いねえ、一瞬でばれちゃった。…里音ちゃん知ってるでしょ?それが例の岡瀬」

「あ…」

「せんせ、話してくれたわけよ。『遼一君が大人になったら、きっと一緒になれるわ』って。でも…先生は署長に従って、東京で別の男と籍を入れた。従うしかなかったんだよ。だって、先生は実の父親に脅迫を受けていたから。身勝手な理由で」


遼一はどこか遠くを見つめ、うわ言のようにつぶやいた。

それはどこか、心の中でそう祈っているようにも見えた。


「遼一さんは、どうして瑠衣さんに協力したんですか?」

「それ聞いちゃうかぁ」

「…ごめんなさい。でもどうしても知りたくて」

「…俺さ、さっき親いないって話したでしょ。母さんの方はね、生まれた時にはもういなかったみたいなもんだから、はっきり言ってどうでもいいの。問題は父さん。父さん…生まれてすぐに逮捕されたんだ」

「え、」

「詳しいことは追々話すとして。その父さん、俺が高校の時に獄中死しちゃって」

「ごく、ちゅうし…」

「瑠衣さんの高校時代の話は、知ってる?」

「え、瑠衣さん?」

「瑠衣さんも同時期にね、家が大火事になって。親父が焼け死んだんだよ」

「…!昨日の電話…」

「ん?昨日、なにか言ってたの?」


里音はしばらく考え込んでいた。

考え込んで、そして気づいた。


『葉介には弟がいた、同じ苦しみを分け合えていた!だけど僕はどうだよ!知らぬ間に姉さんの存在を忘れさせられて、母さんは僕を優先したせいで死んだ!犬は骨すら残らず焼けて、そして父さんは!父さん自身に死んだと思い込まされていた!』


「…もしかして、署長は…」

「里音ちゃん?」

「遼一さん!!」

「はいっ!!…え、どうしたの」

「署長のところへ行きましょう!」

「署長のとこって…東京!?本気!?」

「きっとそこに瑠衣さんがいるはずなんです!お願いです、力を貸してください!」

「で、でも里音ちゃん…」


―速報です。


ふと、つけっぱなしのテレビからアナウンサーの声が聞こえた。



今朝未明、東京都内の病院で、弁護士でタレントの岡部清子さんが亡くなっているのが見つかりました。

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殺人実験 天秤 @gyakusaitobump

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