第22話 本末転倒

淡々と話しだすその声に、脳裏がむずがゆく痺れるのを感じた。

もう二十年は聞いていなかったその声。でも瑠衣は、それが誰なのか一瞬で分かってしまう。気が付いたら握りしめていた受話器に、耳を当てる。


「…もしもし」


絞り出した声は、酷く掠れていた。


「やあ。久しぶりだね、瑠衣」

「……」

「おや、もしかして私のこと、忘れてしまったかい?」

「…父さん?」

「ああ、そうだ」

「ほんとに、父さんなのか?…死んで、なかったのか?」

「勝手に人を殺すんじゃないよ。この通り、しっかり生きているさ」


壁に手をつき、ふらつく体を何とか持ちこたえさせる。風呂上がりにも関わらず汗でじっとりと濡れた背中は、下着越しに血の気をなくした肌を露にさせていた。


あの時。瑠衣にトラウマを植え付けた、あの火災。全焼だった家。ちかちかとフラッシュバックするあの光景。いよいよ瑠衣は壁をなぞるようにして、その場にしゃがみこんだ。


「あ…はぁ、はぁ、っ」

「落ち着くんだ瑠衣。ほら、息を吸って、吐いて…」

「くっ…すぅ、はぁ、」

「すまないね。…今まで君を見てやれなくて」

「父さん…あんた、どこにいるんだよ。どうして、僕を放って行ったんだよ!」

「…瑠衣、」

「質問に答えてくれよ!!…頼む、から」


柄にもなく荒げた声をあげる。ドンッ、と拳をついたラックが大きな音を立てる。噛みしめた唇からは薄く血が垂れ、いつも冷酷な視線を放っているその目は、弱々しく潤んでいた。


「そのことを、今お前に話したくてね。二十五になったお前なら...この話を理解してくれると思うから」


そう淡々と話し出す父に、瑠衣はただ唖然としていた。死別したと思っていた父親がいま電話の向こう側にいるなんて。信じろという方が難しい話だった。








暁郁朗。彼は資産家の息子であった。

彼には姉が1人いた。容姿端麗、成績優秀の彼女を両親は異常に贔屓しており、残された郁郎は次第に不良化していった。そして高一の夏、事件は起こる。


『…陽性だった。四週目、だって』

「え?…嘘だ、冗談だろ?」

『……』

「だって、俺たちまだ十六だ。そんなの…」

『責任取れない…って言うの?』

「…!」

『私は産みたい。…このお腹の中にいる、小さな命と出会いたいの』

「そんな、でも…」

『だから、きっちり責任取ってほしい。…結婚しよ』


そして4年後。郁朗はめでたく入籍を遂げた。腹の中にいた子は当時3歳。明るくて優しく、少し小柄な女の子だった。


「ほら、こっちおいで」

「ママ、あたし、つみきであそぶ!」

「きゃーっ、うちの子可愛すぎる!ねっ、郁朗!」

「...そうだな。お前が幸せそうで何よりだよ。ほら、おいで。パパも遊んであげよう」

「パーパ、パーパ!!おしろつくって!」

「ははっ。お前はいい子だなぁ。...絶対、パパみたいになるんじゃないぞ」

「なんで?」

「ちょっと、郁朗...」


定期的に自虐的になる郁朗を、妻はとても心配していた。しかしその反面、彼の優しさにはとても惹かれるものがあった。どんなに言い争っても別れなかったのは、それが大きな理由であった。





第二子の妊娠が発覚したのは、子供が高校生になった頃だった。


「おめでとう。私…ほんと、嬉しいよ。この年だから、如何に赤ちゃんが小さくて可愛いか、しっかりわかるし」

「本当ね。立派なお姉ちゃんになれるといいわね…」


この頃から、妻はおかしかった。

事あるごとに遠い目をしているし、性格が一気におとなしくなったのだ。郁郎の性格がまんま乗り移ったみたいに。郁郎自身気が付いてはいたが、きっと妊娠期間の精神的不調なのだろう、程度にしか考えていなかった。

しかし、ある日のことだ。


「…ん」


物置の整理をしていた郁郎は、コートの詰められた箱の底の方に、一束にされた書類を発見した。見覚えはなく、奥の方にしまってあったにも関わらず汚れのひとつもない。

怪しく思った郁朗はそれを取り出し、ぺらぺらとめくっていった。


肺癌。


まずその二文字が飛び込んできた。嫌な予感がした。郁朗は心臓をバクバクと跳ねさせ、恐る恐る患者名の欄を見る。


それは紛れもない、妻の名だった。


「あっ」


後ろから気の抜けたような声がして振り向くと、そこにはまさにその妻がいた。真っ青になった顔は、郁朗の表情を伺っているように見えた。


「見つけ...ちゃったんだ」


何とか絞り出したのだろうその声は、諦めの響きがあった。


ステージ2。健康診断で発覚したそうで、この状態での出産は、双方の命の危険があるらしい。妻は、郁朗を悲しませたくなかったのだと素直に白状した。


「本当に、ごめんなさい。怒ってる...よね」

「...お前は、どうしたいんだ」

「え?」

「産みたいのか?それとも癌の治療に専念するか?俺は...出来るものならどちらも助かる道がいい。でも、それがないとなれば...お前の意思に従うしかない。それが俺の意見だ」

「い、郁朗...」


逡巡した表情を浮かべ、妻は真っ青な顔に手を添える。その手もがくがくと震えていた。そして血色の無い唇を薄く開いて、消え入るような声で言う。


「...私、産みたい。自分の命より...この子の命を、尊重したい」

「...本当に、それでいいんだな」

「うん」


それから、妻の妊娠期間に並行した闘病生活が始まった。彼女はずっと病院のベッドに横たわり、点滴を打たれ続ける毎日。痛くて、苦しくて、制限だらけの日々を生きる。しかし容態が回復することはなく、むしろ日に日に衰弱していった。


仕事の合間に病院を訪ねてきた郁朗に泣いて飛びつくと、妻はよくこう言ったものだ。


「苦しい、けど、お腹の子は、もっと、頑張ってるから、私も、頑張る」



いよいよ運命の日がやって来た。


「通してください!オペ室向かいます!」


響き渡る看護師の声。

体中から汗を流し、はあはあと苦しげに息をする妻に、郁朗は「おい」と一言声をかけた。彼女の首がゆっくりとこちらを向く。


「簡単には、死ぬんじゃないぞ。...お前は、死なない。赤ん坊も、もちろん。だって、タフなお前の息子なんだからな」

「...!...」


ふふっ、と一瞬ほほ笑みを浮かべたような気が、郁朗にはした。しかし次の瞬間には重々しい扉ががしゃんと閉まり、フロアに静寂が広がった。






「元気な男の子ですよ」


ベッドに寝かせられたその小さな身体は、いつぶりかの感動を郁郎に与えた。しかし彼の表情はどうにも曇っていた。同じく隣でそれを見下ろす姉も、嬉しそうとはどうにも言い難い、悔しげな表情を浮かべていた。


「あの、お母様のことなんですが…」


ばつの悪そうな顔で、看護士がそう切り出す。なにを言われるかはわかっていた。でも、信じたくはなかった。すると突然、隣で姉が立ち上がった。


「死んだの?」

「ちょっ、お前…」

「お母さん、殺したの?」


今にも殴りかかる勢いで看護士に詰め寄る。


「どうして助けてくれなかったの!?どうして私の大好きなお母さんを、見殺しにしたの!?命を救うのが、医者の仕事じゃないの…?」


普段は人見知りで無口の娘が、声を荒げている。その光景は相当なものであった。それをただ呆然と眺めることしか出来なかった郁郎は、己の無力さを恨んだ。頭の中で謝罪の言葉を叫んでいた。空気の読めない赤子の泣き声が、病室に響いていた。






シングルファザーとなった郁郎は、幼い息子…瑠衣の世話をする傍ら、娘の受験の手伝いをしていた。両親には「何がなんでも名門校に入らせろ」と圧力を受けていたが、郁郎は正直自信がなかった。なにせ、娘は…控え目に言っても理解力が乏しく、勉強の出来は悪く、そこらの公立校ですら難儀な状況であったのだ。郁郎もそれなりに成績は良かった方なのだが、はっきり言ってどうしようもなかった。


「ごめん、パパ。私が出来ないばっかりに…」

「気にすることはないさ。自分の実力で目指せるところを目指したらいいんだ」

「うん…ごめんね」


娘が発する言葉には、いつも謝罪が含まれていた。その度に、郁郎は胸がずきりと痛むのを感じた。


そんな中、ある日郁郎は両親に呼ばれた。なんでも娘について、話があるとか。いやな予感しかしなかったが、行かないわけにはいかなかった。


「…久しぶりだな郁郎。こう、面と向かって話すのは、いつぶりだろう。元気、してたか」

「ぼちぼち」


散々姉を贔屓しておいてよくそんな親父面が出来るなと、郁郎は一周回って感心してしまう。


「で、何?話って」

「ああ、お前の娘のことだ。この前、成績表を見せてもらったが…ひどいな、あれは。お前の教育がなっていないんじゃないのか?」

「なっ…あんまりだろ、それは。俺はちゃんと勉強に付き添っているし、分からないところも説明してやってる。あの子の親として、これ以上ないくらい尽くしてるさ」

「尽くして、これか」


ぴしゃり、と親父が言ってのける。汚れ物を見るようなその目は虚ろで、どこを見ているかすら定かでなかった。


「…あいつは、精一杯やっている」

「精一杯、でどうにかなる世の中じゃない。いいか、もしあの子が名門校に受からなかった場合、お前は私と縁を切ってもらうからな」

「…!!どうしてそうなるんだよ!」

「どうして?我ら一家にふさわしくないからに決まっているだろう。出来損ないに用はない」

「そんな…」


郁郎は、楯突くことができなかった。何せ当時、片親だからという理由で実家から多大な支援金を送ってもらっていたのだ。それを一切絶たれるとなると、生活に支障が出てくる。まだ小さな赤子がいるということもあって、家庭のダメージは相当なものだ。


「……」


その夜、郁郎は全員が寝静まったのを見計らい、外へ出掛けた。大きな袋に通帳を放り込み、街へと繰り出す。通りの角にある小さな銀行に入り、迷うことなく「引き出し」のボタンを押したのだった。


郁郎たちの住む町は、治安が良かった。警察の整備がなっていたからではない。人口が少ないせいで、犯罪件数が異常に少ないだけなのだ。


「…これで、」


手に持った鞄を開けながら、郁郎は切り出す。


「うちの娘を…ここに入学させて頂きたい」


目の前には厳めしい雰囲気の校長がひょこ、と眉を上げ、隣のいかにも気弱で優しそうな教員がおどおどと汗を拭っていた。


「…賄賂ですか」

「ええ」


郁郎にはもうその手段しか残されていなかった。娘を、この幸せな生活を続けていくためには。


「それが犯罪であることは…あなた、お分かりですよね?」

「……」

「そして、私ども学校の運営側をも道連れにする行為だと…」

「そんなことわかっています。覚悟の上です」

「覚悟、ねぇ。この際あなたの覚悟はどうでもいいのですよ。何せ立派な」

「しかしあなたが従わなければ」


郁郎は被せるようにそう言う。


「この学校はピンチになる…そうでしょう?何でしたっけ…確か、いじめで自殺者が出た、とか」

「…!!な、なぜそれを!」

「おや。適当に言ってみただけですが、当たってましたか?」

「え…」

「経営に成功しているものは、それなりの秘密を抱えている…私の勘は当たっていたようですね」

「……」

「私の父は資産家でしてね。あなた方の罪を匿うくらいの金なら出せます。…さあ、いかがですか?悪くない『取引』だと思いますが」

「くっ…くそっ」


校長は観念したように唇を噛み、俯いた。






思いもよらない事態であった。郁郎の両親は何の疑いも持たずに喜び、その噂はたちまちに広がり、ついには町の小さなニュースになった。娘の入学はそれほどの大事件であった。


「よかったな。…これで、お前も一人前だ」

「……」


郁郎は後ろめたさをひた隠すように、笑顔を浮かべる。ぼーっとした表情の娘は、なにか言いたげなように口をパクパクとさせていたが、特に何かを言及することもなかった。


父の心配に反して、娘の学校生活はそれなりに充実しているようだった。


「パパ、私最近友達できたんだ」

「パパ、研修旅行だって!東京とうきょう!!」

「彼氏ほしいな…」

「ねえパパ成績が!!過去1なんだけど!」


娘の明るい報告ほど、郁郎を喜ばせるものはなかった。賄賂の罪悪感もほぼ消し飛び、郁郎はただただ純粋な笑みを浮かべるようになっていった。


「ねえパパ」


ある日、またいつもの声が聞こえた。今度はなんだろうと振り向くと、そこにはいつにも増してキラキラとした表情の娘がいた。


「私、東京でお仕事がしたい!」


郁郎は言葉の通り固まった。突然のことであるのはもちろん、娘が自主的に将来のことを考えていたのにも驚愕であった。


「ちょ、ちょっと待て。…東京?」

「うん!」

「具体的には?」

「うーん、なんだろうな…法曹界に行きたい、っていうのはあるかも」

「……」


郁郎は思わず大きな溜め息を溢した。法曹界。つまりは必然的に、「あの」司法試験を受ける必要がある。高校に入ってから前よりも学力が上がったものの、そんなものに合格するなど、娘には夢のまた夢でも起こり得ないことである。


「無理だろう」

「え?」

「能力が足りなさすぎる」

「そんな、でも私最近、成績が伸びて」

「そんな甘いものじゃないんだ、その界隈は」

「……」

「そもそも、お前が何故名門校に入れたか…分かっているんだろう?」

「!!う、う…」


娘は驚いたように目を見開くと、しゅんとばつの悪そうな顔をして俯いた。それは肯定と等しかった。分かってはいたが、胸が苦しくなった。


「お前にはもうじき話そうと思っていたが、もう今でいい…いいか。お前は金で人間としての価値を付与されているんだ。だから調子にのるんじゃない。じきにお前の将来も買ってやるから…お願いだ。それまでは、こことは違うところで生活をしてほしい。金は出す」

「え…」


唐突の話に、娘は理解が追い付いていないようであった。実の父親から別居を言い渡されたのだ。無理もない。


「なんで…どうして!」

「瑠衣がいるからだ」

「!!」

「あいつは、3歳にしてもう読み書きができる。いわば天才だ。…小学生になる頃には、あいつはすぐ、賄賂のことに勘づくだろう」

「まさか、そんなこと」

「だからあの子の記憶からは…お前を消しておいた方がいい。そういうことだ」

「……」


娘は黙って唇を噛み、恨めしげに郁朗を睨みつける。当然だ。郁朗の今の発言は、誰が聞いたって完全に瑠衣を優先とした意見だからである。確かに頭脳の違いは否定出来ないが、それでもあんまりだ。


しかしその表情を見た瞬間、郁朗は理不尽な怒りを覚えた。

なんだ。お前の幸せな人生のために、こんなにも考えてやっているのに。いちばん手が込んだのはお前だというのに。その有難みが、分からないのか。


「…あまり、父さんに逆らわない方がいい。もしそんなことをするようなら、父さんは今までの賄賂の件を全て公開する。…お前も道連れだ。わかるな」


気がついたら、棘のある口調でそう言い放っていた。目の前の我が子の瞳が、恐怖の色を宿す。しかしもう後には引けない。


「どうなんだ」

「…荷物を、まとめてきます」

「それでいいんだ、清子」


怒りと恐怖でぐちゃぐちゃになった彼女…清子は、こちらを見ることなく部屋へ戻って行った。






「ねえ」

「ん?」

「姉ちゃんどこ?」

「姉ちゃん?なんの話だ」

「え…?」


それから郁朗は、瑠衣の記憶から清子を消すべく一種の洗脳のように、彼女のことはしらばっくれていた。いくら瑠衣でも、幼児の脳は実に単純であった。2年が経つ頃には、瑠衣は一切の姉の記憶を無くしていた。


それから時が経ち。


「ただいま」

「おかえり瑠衣。今日はどうだった?」

「また担任に怒られちゃった。木垣がさぁ…」


高校生になった瑠衣は他の生徒と何ら変わらない学校生活を送っていた。変わらない…そうは言っても、それはうわべだけ。成績は学力体力どちらも校内ぶっちぎりのトップ。父親譲りの高身長と母親譲りのルックスの良さで、まるでアイドルのような扱いを受けていた。


「…ははっ!!そりゃあ傑作だな」

「笑い事じゃないよ…。放課後カラオケ行くつもりだったのに、おじゃんだよ」

「まあまあそんな日もあるさ。いい奴なんだろ?葉介くん」

「う、うん」

「なら大事にしてやれ。お前の真の味方なんだからな」

「真の…味方」

「ああ。今日も、一緒に帰ってきたんだろ?」

「え、えと、今日は一緒じゃなかった…」

「ん?どうした珍しいな。喧嘩か?」

「いや、葉介が『弟を見張りに』って」

「弟?遼一くん、何かやらかした?」

「いや、そういうわけでもなさそうだけど…なんか、『こいのすきゃんだる』の匂いがしたらしい」

「ほお。面白いじゃねーの。聞かせて?」

「僕も詳しいことはわかんないけどね。…先生とデキてるとか」

「おおっと、それは穏やかじゃないな」

「ね?いやー、僕は分かんないな、そういう感性」

「ませてる子はいるさ、一定数。で、その先生はお前、知ってるのか?」

「知ってるというか…社会の授業、その人にやってもらってるからね」

「お、近いな。名前は?」

「聞いても分からないでしょ?」

「まあまあ、興味だよ」

「ふうん、まあそんなもんか。神戸先生っていって、」


その瞬間、郁郎の思考は停止した。

神戸、神戸。脳内で繰り返される響きは郁朗に酷く恐怖を与えた。


「...その先生、年齢は分かるか?」

「え、なになに、興味津々じゃん。えーとね、葉介が14歳差とか言ってた気がする...30歳かな」


30歳。清子と同じ歳だ。

偶然、なのか?郁朗はついに頭を抱えてしまう。


「ちょ、どうしたの父さん」

「少し、1人にしてくれないか」

「...?」


怪訝そうな目をしながらも、瑠衣はそっと居間から出ていった。残された父はひとり、机に突っ伏し息をついた。


学校内にいるなんて、すっかり油断していた。あいつに教員免許が取れるほどの頭脳が果たしてあっただろうか?というか、東京に行くんじゃなかったのか?考えうる全ての疑問が頭を駆けていく。


確かめなければ。


翌日、瑠衣を見送ってから郁郎は素早く着替え、普段は滅多に乗らない電車の席に座り、町までやって来た。学校の最寄りである。


門の前で見張りをしていた警備員に「忘れ物を届けに来た」と名刺を差し出す。恐らく苗字よりもその肩書きに反応したのだろう、警備員はすぐさま郁郎を通した。


勢いで来てしまったものの、職員室もなにも場所が分からない。廊下をうろつく郁郎に、チラチラと学生たちが視線を向ける。


「…でね、神戸せんせーが…」


その時、何処からともなく聞こえてきた声に、郁郎は反射的に振り向いた。女子生徒が二人、わいわいと話しながら歩いている。


「あの…」

「え?」


考えるより先に声が出てしまっていた。怪訝そうな二人の視線が突き刺さる。当然だ、見知らぬ中年男性に話しかけられたんだから。


「なに…え、なんですか」

「突然で申し訳ないんだけど…この学校に神戸、っていう教師、いるかな?」

「ああ、歴史教えてる」

「ボブの可愛い先生」

「多分その人。今どこにいるとか…分かったりする?」

「そうそう、ちょうど今、先生の話してたとこなんです。自クラスの生徒の指導?してるらしくて。あの人怒っても怖くないし、反省文も手伝ってくれるからむしろ授業休めてて羨ましい、って」

「ホントそうなんです。あの人授業も分かりやすいし、雑談面白いし大好きなんだけど、いくら悪い子でもあんまりきつく怒らないから、メリハリがない?って感じかも」

「あ、わかる」


恐らく気まずさを紛らわす為であろう、彼女らは思い付く限りの情報を話してくれた。郁郎が生徒指導室の場所を尋ねると、「こういって、こう」と、抽象的ではあるが教えてもらえた。郁郎は二人に軽く会釈をし、その場を後にした。


明かりの透けて見える、指導室の扉。

流石に指導中を突撃する勇気はないので、先程からおよそ15分の間、郁郎は待ち続けている。


生徒たちの言葉からは、彼女が娘なのか否かどうにも判断がつかない。髪型は違うが、単に切っただけかもしれない。もとは生物が得意だったが、同じ暗記系ではあるから一概には言い切れない。でももし…別人だったなら。それはそれで、娘は今どこにいるのだろう。尽きない思考が回り続けていた。

その時であった。


ガチャ。

「次からは気をつけて、成績はそのままにしといてあげるから」

「ほんと、すみません…」


項垂れた生徒と、もう1人…ボブヘアの女教師が出てきた。

目があった瞬間に、それは確信に変わった。

神戸清子。俺の、娘。


「あ…」

「先生、この人は…?」

「先に戻ってて」

「え、」

「すぐ行くから」

「は、はい…」


清子は先程とは打って変わって、鋭い声色で生徒に命じる。何かを察したのだろう、生徒は小走りでその場から去っていった。


「…なんで来たの」

「瑠衣から聞いたんだよ。お前がここにいるって」

「瑠衣は覚えてたの?私のこと」

「お前が姉であることはきれいさっぱり忘れてるよ。…それよりも、なんでお前がこんなとこにいるんだよ」

「…取り敢えず、入って」


清子は再び指導室の扉を開け、郁郎を促した。予鈴が鳴り、移動教室の生徒がぞろぞろと廊下に現れだす。郁郎は少し迷ったが、素直に従うことにした。

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