【第十話】
「といわれても、陛下の命令は絶対だし、手を抜くわけにはいかない、な」
「リズぅ」
聞き分けのない人間だとバルシェに非難されてリズはそうじゃないと首を横に振った。
「レンネードは陛下から見れば幼子なんだ」
「そりゃ、見ればわかるし、陛下も言ってたし」
「でも、成人なんだよ」
「は?」
「陛下は御自分の基準で判断し分別なさっているが、レンネードは兎族から見れば立派な成人で大人なんだよ」
「って、ああ? なんだ、そうなのか。ああー、言われてみれば、兎族が成人を迎えるのは獅子より早いんだっけ? 種族の成長速度の差って奴か、めんどいな」
「陛下のは確かに誤解を招くが、陛下が幼子は相手にしないのは知ってるだろ? レンネードの立場は考えればとても複雑だ」
「ここ数日陛下が静かなのはそのせいか。ふぅん? アルエが担当を外されたのも頷けるし、リズがその後任に選ばれたのもわかった気がする」
「理解を得られて安心した」
「安心?」
怪訝そうにバルシェは問い返した。
「バルシェも機嫌が悪かったから」
「あー」
気まずげに語尾を伸ばしてバルシェは当惑の表情を浮かべた。隠しに手を伸ばして煙草の箱を取り出す。
「そんなことばかり言って、壊れても知らないぞ」
論点をわざとずらしたリズにバルシェは合わせてくれたようだ。リズはまっすぐと向けられたバルシェの瞳に軽く両肩を竦めた。
「ずいぶんなご忠告だ」
あくまでも軽く流そうとする上官に尚も語調を強めて進言するも、リズの性格を知っているバルシェは箱から煙草を一本引き抜いて、ランプから火を拝借した。
「笑い事じゃない。月花草も星花草も媚薬で麻薬で劇薬には違いないんだ。自覚症状がでないからって調子に乗って毒薬を馬鹿みたいに体に入れて、いつまでも正気で居られると思い上がっているなよ」
疲れないのも、眠らずに行動できるのも、全ては麻薬の恩恵を受けているからこそだ。つい昨日騒動で腕に一本打ってしまったとはいえ、依存性や禁断症状に縛られないとは言いつつ、常習性があるリズは事実完全なる中毒者に成り下がっている。
限度を知らないということは、ある日突然臨界を突破して精神崩壊を起こしてもおかしくないということだ。しかし、その危険性を当の本人が一番わかってない。
危機感を煽っても意味が無いなと自嘲交じりにバルシェは言って、煙草を銜えずに右手から左手へと持ち替えた。それだけの動作で細くたなびく紫煙が大きく歪んで空間に霧散する。
沈黙が垂れ込んだ。
部下が上官に物申すという軍人には有るまじき行動にバルシェが出た、ということにリズは少なからず思う所が在った。バルシェが自分の立場を知って、以降は口を閉ざすだろうことも悟った。
ふと、呼吸を潜ませたバルシェに、つい反応してしまったリズは、そんな自分を取り繕うように時計に視線を走らせた。
「バルシェ、そろそろ頃合じゃないか?」
「おまえってさ、時間の調整が必要になりましたって一言で全部把握すんなよ」
戦闘が主な任務ではないせいか、私設軍の指揮系統は不思議なもので国王から賓客担当者それぞれに命令が下る。時にはリズを通すこともあるが、多くはラウルが直接伝えていた。好きに扱える私設だからこそ許される横暴なので、リズがその内容をラウルから受けることは少なく、リズは王や部下との会話から事を把握するようにしたら思わぬ特技に発展してしまっただけだ。今更、気味悪がれてもリズは返す言葉を持っていない。
「ま、リズが陛下の言葉の一つとて取りこぼさないのはいつものことか」
諦めも濃く半眼で呻いたバルシェはリズに背を向けて歩き出した。
「んじゃ、行ってくる」
「バルシェ」
軽く挙げられた手に、リズは応える代わりに小さく名前を呼んだ。
「ん?」
顔だけ振り返った部下に、上官は手振りを添えた。
「煙草」
注意を受けて一度目を瞬かせたバルシェは短く笑い、
「おまえこそ寝ろや」
吐き捨てると、そのまま事務室を出て行った。
靴音の反響音すら聞こえなくなってから、息を詰める様に押し黙っていたリズは長々と肺に残っていた息を全て吐き出した。
「レンネードの件はまだ陛下が迷っているんだよ」
零した独り言は寝静まる空気に滲んで消える。
あの艶やかに美しい彼は、兎族としては大人であり、獅子族から見れば子供であり、それ以前に、異種族の増して「強弱の双仔」という希少種としての価値が引っかかっていた。
ラウルがお気に入りの一人であるアルエの動向を気にするのも、反感を買うとわかっていてリズに担当を代えたのも、そのせいだ。
「迷っているんだ」
掴むべきタイミングを見失って。
欲しくて手に入れたのに、手を出せないとはどんな心境なのだろう。
「迷って、いるのだろうか?」
疑問が口を滑る。リズの知っているラウルという人物は果たしてレンを取り巻く事情に配慮する人間だったか、と。
獅子から見ての判断なだけで、レンは年齢容姿血統全てにおいて上等でありなんら遜色はない。
通常の手段では絶対に手に入れられないと戦争まで仕掛けて、今更何を怯むことがあるというのだ。
ラウルが迷っているのは目に見えてわかっていた。ただ、その迷いが、手を出せない、のではなく、手を出さない、からきているのだとしたら。タイミングを見失っているのではなく、掴むべきタイミングを見計らっているのなのだとしたら。
だとしたら。
「迷って、おいでなのだろうな」
国王は砂粒一つでバランスを崩す天秤を相手にしているのだろう。加重されていく欲望に反対側の皿が浮き上がらず、平衡がいつまで維持できるかを見極めているのだろう。今はただそのさじ加減を愉しんでいるのだ。
考えを巡らせるリズは知らず下唇を噛んでいた。
「なんだ、この違和感……」
もしラウルの考えがそうだとしたら、と仮説を立てると府が落ちない。ラウルという人物を知り尽くしているリズには、これは違和感でしかなかった。
リズから見て、ラウルにとってこの現状は、足りないのか。それとも、満たされ過ぎているのか、それすらも把握できずにわからなかった。
嘆息ののち、リズは机上を照らしていた蝋燭の炎を、息を吹いて消し、音を立てないよう椅子から立ち上がった。
元々学がない自分の頭では考えていても詮無いことと瞬時に判断を下したリズは、時間としては少々早いものの地下後宮の見回りに出かけることを決め、天井に吊るされたランプの油糧を確かめてから地下後宮に続く扉へと向かった。
扉を閉める寸前、誰かが起き出したらしいが、誰が起きたのか仕事内容を独自に頭に叩き込んでいるリズは特に気に留めることなく、情緒を脅かす不穏な空気がたゆたう通路を歩き出した。
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