【第八話】
「理由。か」
レンを床から寝台に移す一連の行動の間は無言を貫いたリズだったが、睨めつけてくる知りたがりのレンの執念に根負けだと溜息を吐いた。
レンは動かせる両手を使って寝台の上で器用に重心をずらした。顔は渋い色のままだが聞く体勢のレンにリズは内心自分の甘さに嫌気がさしそうになる。
「そうだな」
膝を曲げ半ば中腰の姿勢でレンと視線を合わせたリズは言葉を区切るように頷いた。その動作につられたわけではないだろうが、ゆら、と通路に置かれた蝋燭の炎が震え、照らし出される床に写る格子の細い影が一瞬だけ歪んだ。
リズの耳は蝋燭の芯が焦げる音と、遥か遠くで響き渡る靴音を拾っていた。誰かが巡回でも始めたのだろうかと思考の隅で考えが巡る。
「拘束具による損傷を避けたい。というのが主な……」
僅かに動いたレンの表情にリズは途中で口を噤んだ。
「大概はこれで納得してくれているんだが、駄目か?」
「丸め込めようとしてるのがバレバレ」
指摘を受けてリズは一度口を真横に引き結んだ。
目的を知っているリズはレンにそれを打ち明ける気は欠片も無かったし、この現状を打破できるだけの話術も持ち合わせてはいなかった。
そもそもここまで喰らい付く賓客も過去に居なかったので、対処に困惑さえ覚えてもいた。
「傷つかないように。それはわかるよ。けど、それじゃ、それだけじゃ弱い。最初はオレもそう考えた。だけどそれだけだとオレの直感が納得しないんだ。わかるかな、おかしいんだよ。理由が足りないんだ。オレは頭が悪いからさ他の方法なんて全然思いつかないけど、やっぱり納得できないんだ。傷つかないように。そんな理由なら手を封じるだろ。足よりも遥かに自由だ。じゃぁ、逃げ出さない為? それも違う。他の奴は知らないけど、弱の仔であるオレじゃとてもじゃないが一人で脱走なんて無理だ。実際何度やっても失敗ばかりだし。
じゃぁ、なんで足の感覚を失う必要がある?」
考える時間だけは無限にあった。その時間だけはレンの味方であったのだろう。彼は諦めようとしない。
それでもレンの主張を最後まで聞いたリズは安堵に胸を撫で下ろしそうになっていた。
レンの大いなる味方であろう膨大な時間は、しかし答えへに導き到るまでの力にはならなかったようだ。レンの足の感覚が消失しているのは手段ではなく結果だ。そこに気づかねばどんなに考えても答えなどわかるはずもないのだが、リズは油断することができない。
現王ラウルの賓客は、元々リズが気を抜いても良い相手ではないのだ。慎重に慎重を重ねて過ぎることはない。
「リズ」
催促の呼び声は微かに急いた響きを含んでいた。
「そんなに焦るほど答えが欲しいのか? 陛下に選んでいただいて、何が不服か」
気づけば本音がリズの口から零れた。
「そもそも知ってどうする。知っても知らなくてもそんなこと変わりはしない。無駄なことはしないほうが――」
「無駄じゃないッ!」
耳が自分の台詞を聞き終えて慌てて軌道の修正をしようとしたリズの声をレンは絶叫まがいに否定した。
大声で遮られてしまいリズは己の言葉を喉奥に押し込んだ。
レンの細い両腕が伸びてきて、繊細そうな両指がリズの襟首を掴み己へと寄せるように引っ張る。
「レンネード」
が、引っ張りきれず、リズとレンの間に曖昧な距離が生まれた。
互いの鼻先が触れ合うには遠く、吐息がかかるくらいには近い、探り合うように保たれた空間の気まずさに最初に折れたのはレンだった。
「……あるよ」
瞼を伏せて押し出すように吐かれた言葉に、リズは襟を掴む指を離す様レンの手に自分の手を重ねた。
リズの耳は近づいてくる足音を捉えるのに集中していた。
「そうか」
八つ当たりでもしなければ感情の捌け口が無いと訴えてくる瞳にリズは肩を竦めた。すがるように掴む指を静かに払った。
「それだけ言えれば充分だ」
「じゅうぶん?」
聞き捨てなら無いと荒んだ色に染まっているレンに、そう凄むなとリズはやんわりと受け止めた。
「元気だ。と言いたかった」
陽光石が広げる蝋燭の明かりを反射させて金色に輝く目でリズは続けた。
「元気なのは良い事だ」
視線の高さを揃えて切り出すも、リズとレンの関係では、見つめ合いという甘い場面は決して訪れない。
正確には、リズはレンの瞳に映る自分の姿を見ていた。食い入る様に、紅い瞳に映る金色の瞳を見つめ続けていた。
「陛下は元気な方を好まれる。他者を弱らせるなどの趣味は本当は持ち合わせてないし、ご自分のお客人をそれはそれは大切にしておいでだ。もちろん、そこにレンネードも他の地下後宮の賓客達も含まれている」
口を閉ざし、言葉を閉ざし、息を詰める様にリズの表情を見つめているレンは、滔々と滑らかに語るリズの話の腰を途中で折ることはなしかった。だからと言って大人しく耳を傾けているわけではないのだろう。己が知りたい答えを探し出そうと目つきは鋭いままだった。
「しかもレンネードは特別待遇といっても過言じゃない。この事実を知ったら他の賓客達が黙っていないほどだ。もしかしたら嫉妬の的にされて命すら危ういかもしれない」
レンはただ聞いていた。表情を硬くしたまま聞いていた。リズが瞳に映る自分の姿しか見ていないことに気づいても、ただ聞いていた。
リズも聞いていた。聞こえ続ける足音を。
「レンネード」
つぃ、と動かされた焦点が、意識が結び合って、レンが驚きに目を見開いた。
話に夢中だったリズは息を呑んだ兎の喉音に、光を受けて金色に揺らぐ目を確かめるように閉じ開けて「眠たくはないか?」とレンに問うた。
突然と話を振られ「え」と間抜けた声を出したレンは直後にきつく唇を噛み締めた。レンの紅い瞳が警戒そのものの色に染まる。
「なんだ、ずいぶん気持ち悪い流れで喋るから変だなって思ったら、なんだ、時間稼ぎか」
レンは投げやりぎみに体の左右で両腕を広げ、
「たくさん喋るから思わず疑ったけど、本当にそんなつまらないことしかしないんだね」
最大な溜息を吐いてから寝台に背中から倒れこんだ。
舞い上がった風圧に巻き込まれリズとレンの金の髪と白い髪がそれぞれ微かに揺れる。
三秒の沈黙の後、目を閉じたのはリズだった。またレンも目を閉じているだろう。見えなくても安らかな寝息がそれを証明していた。
音を吸収するものが極端に少ない場所では些細な距離は関係が無いらしく、そんなに接近しているわけでもないのに、吐息みたいな小声や呼吸すらしっかりと聞き取れて、何かひどく狭い場所に押し込められ二人密着しているような錯覚を起こす。
目を開けるとそこは現実だ。逃げる場所があるとしたらそれは眠りの中だろう。両足の麻痺が、手段が成功した結果なら、この眠りは目的を成功させる手段そのものだ。この地下後宮で与えることができる安息は夢を見ない眠りだけだ。
個室の前で足音が止まった。
「丁寧に扱うのは苦手です」
体ごと振り向くと、そこにはバルシェを従えた獅子の王ラウルが立っていた。
「だからと言って乱暴に扱うわけではなかろう」
リズの呟きにラウルは実に満足そうだった。正面に向きなおるとリズは死んだように眠るレンに視線を落とした。肉という肉が弛緩した体は抗いを忘れた無防備さで、先程まで理不尽だと吼えていたのが虚像の様で、その安らかな寝顔は至福の眠りに満足気だった。
微笑と無表情の中間である死者の表情を真似るレンは文字通り安らぎを手に入れているのだろう。
背中と両膝の下に腕を忍ばせレンを抱えたリズは、動くごとに砂の如く軽やかに零れ落ちる白絹を痛めないよう手繰り、兎の彼を寝台に横たえ直した。仕上げに掛け布をレンの首元まで引き上げる。
「そもそも乱暴と丁寧の差など然したるものよ。余は優しいが手緩いというわけでもない」
朗々と語るラウルに、優しさを測る物差しが一体どのような形状をしているのか、比較対象を持ち得ないリズは無反応を取り、どんな言葉遊びを始めたのだろうかと冷やかしを込めてバルシェは細く笑んだ。
「案ずとも良い。リズは余の思う通りに動けている」
褒めの言葉にリズはレンが眠る寝台から離れると早足に距離を詰め格子越しにラウルの元に寄った。腰を深く折る、貴族に仕える行儀見習いが取る礼儀作法に則った一礼を送り一歩分横に退いた。
リズの体が退かれ、格子越しに見えるようになったレンの寝姿を眺めるラウルに、これは時間がかかるかと判断しながらもリズはただ沈黙を守り通した。
「レン・ア・ネードが元気そうで安心した」
長い時間をかけてレンの寝顔を堪能したラウルがようやく口を開いた。
ぽつりと零された独り言に、その声音に潜む本音をリズとバルシェはそれぞれの解釈で汲み取りつつも、
「アルエの一件があったからな。少々心配していたのだよ。余は幼子に仕置きをする趣味は持ち合わせておらぬからなぁ」
滲む愉悦の色にバルシェは愕然とした表情で声もなく驚き、対してリズはただ無表情に控えの形を崩さず不動を保つ。が、崩さないつもりでいたリズだったが驚きの尾を引いているにバルシェにいつまで間抜けた顔をしているのかと思わずきつい目配せをした。
リズがラウルに一礼をした。
「お気をつけてお帰りを」
「そう何度も礼に尽くされては困るな。そのような趣向を取らせた覚えはないぞ? しかたない。今度はリズに供を願おうか」
国王に見事胸中見透かされて、リズは口を閉ざした。
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