【第九話】




 地下故に詰め所を兼ねる事務室に窓は一切と無い。

 どの調度品よりも古い時計だけが生活の基盤だった。

 油を塗っても錆が浮いてしまう針は、虹色に濡れるその鋭い先端で深夜を横切りそろそろ明け方を示そうとしていた。

 緩やかなランプの明かりに照らされた机上でどれだけ作業に没頭していたのか。

 古時計の旋律が支配する空間を別の音が裂き入った。とリズが気づいた時には、すでに靴音は目の前で止まった。夢中になり過ぎて接近を許したリズは手に持つペンの先をインク壷に浸し、それを引き揚げる。

「リズ」

 私設軍の仲間内で上官を呼び捨てにするのは一人しかいない。リズは紙面に新たな一行を書き加えた。

「すまない。起こしてしまった」

 日誌から視線を上げると机を挟んだ向こう側でバルシェが生あくびを噛み殺している。軍服ではなく簡素な夜着の彼が些かまともな好青年に見えるのは寝乱れないようにと長髪を一束に纏めているからだ。三つ編みおさげだけでこうも印象が違って見える。

「いや。陛下の命令で姫君達の起床時間を調整している途中なんだ。つかまだ仕事してたんかよ」

 早く起きたのはリズのせいではないと首を横に振ってあくびで溢れた涙を拭うバルシェに、リズはおどける様に肩を上下させて見せた。作業を再開させる。

「久々に賓客を担当しているせいなのか時間配分が上手く取れなくて。ほら、あの頃はまだ隊長なんて肩書きも無かったし。こうやってみるとやることが多くて少し困っている」

 賓客の世話をしなくなって久しいリズは上官となってから国王の身辺警護と平行しながらの、再び与えられた世話役という仕事の拘束時間の多さに戸惑いを覚えていた。ひとつずつ地道に仕事を終わらせているはずなのに、目の前の課題は減るどころか増えている気がしてならない。

 困惑に、それこそ困り笑うしかない自分に溜息を禁じえないリズを見て、バルシェは肩を竦めた。

「リズ」

「ん?」

「昨日、陛下の部屋で擦れ違ったよな?」

 リズがレンの世話を終え、ラウルが散策を終え、リズとバルシェは護衛の交代に一度ラウルの部屋で言葉は交わさないもののお互いの姿を視認している。

「そうだな。それがどうした?」

 しかし、改めて問われる事柄でもないはずだ。妙に突っかかる言い方をされて、リズは素直に聞き返した。聞き返したのがいけなかったのか、バルシェが一目でわかるほどはっきりと顔を顰めた。そんな部下にリズもまた不可解と眉根を寄せる。

 すると、バルシェがワザとらしく舌打ちをした。渋い顔でリズから背を向けると仮眠用にと簡易な寝台が設置されている事務室の奥へと引っ込んで行った。乱暴な衣擦れの音がして、何かを投げ出したような音がして、長靴の音も高らかに足音も大きく響かせながらバルシェが戻ってきた。

 おまけと三つ編みおさげを両肩に一束ずつ左右に垂らすバルシェの顔からは着替えることで気分転換ができたらしく、先程までの不機嫌が綺麗に払拭されていた。

 なのでリズはバルシェがどうして機嫌を損ねたのかわからずじまいとなる。あまり理不尽な態度を取るような男でもないので、できれば知りたがったが長年の経験からこのタイミングで聞くと藪蛇になりそうな予感がした。日誌への記入作業を再開させる。

「そんなに音を立てたら他の者が起き出すぞ」

 話題を質問ではなく注意に切り替えたリズにバルシェはへらりと笑った。

「それより仮眠でも取るか?」

 嘲笑混じりの問いかけにリズの書き物を続けていた指が止まった。紙面から視線を上げると爽やかな笑顔のバルシェと目が合った。

「ここ一週間、きちんと寝てないだろ?」

 実に、爽やかで、底意地の悪い、嘲りの強い皮肉った満面の笑みだった。

「そんな怒んなって」

 感情が表情に出たらしい。バルシェが片手を上げて白旗を振った。

「怒ってない」

 あからさまな挑発に、無意味と判断したリズは無難な返答を選んだ。

「嘘だ。今の絶対そうだって。沸点低いなぁ」

 しかし、珍しいことにバルシェは引き下がらなかった。不快の腹を抱えるリズを言葉の指で引っかくようにバルシェは続ける。

「怒ってない」

 それでも、こんな時間に争う理由等無く、リズはあくまでも回避することを選んだ。

「いやいや。怒ってるって」

「怒ってない」

 争いを避けるつもりでリズは言葉の否定を重ねるが、バルシェが引かない。

「怒ってるって。ほら眉間に皺」

「怒ってない」

 伸ばされたバルシェの手を、リズは片手で払った。

「だから怒ってるって」

「怒ってないと否定している」

 バルシェの声にからかいの色が滲んでいることにリズは気づいた。そしてこの受け答えは彼の気が済むまで続けられるだろうことが安易に予想すらできた。できたのに、

「親切に怒ってるでしょって言ってるんだが?」

「だから怒ってないと言っているッ」

 早めに切り上げなければいつまでも繰り返される戯れに、しかし、リズは泥沼にはまる様に同じ答えを返している自分に気づいていなかった。バルシェの表情から笑みが消えたことにも気づいていなかった。

「だったらとっと寝ろって」

「怒ってないって言ってんだろッ!」

 バルシェの溜息混じりの語尾に被さる様な形でリズの怒声が事務室に響き渡った。

 持つペンごと机に拳を叩きつけたリズは、耳に残った自分の絶叫にハッとして息を詰める。

「あんだよ。ほんと、沸点低いなぁ。人の話を聞く余裕もないなんてらしくないぞ。おまえに怒鳴られるなんて何年ぶりだろな?」

 沈黙が訪れるかと思いきや、あっけらかんとした顔でバルシェは呟いた。

「やっすい挑発に乗んなよ。条件反射で言い返すなんて、上官失格だぜぇ?」

 増して、知らない仲でもあるまいし。

 わざとらしい動きで腰を屈めて目線を揃えてきたバルシェに、その向けられてくる嫌らしい微笑みから逃げるようにリズは片手で両目を覆った。

「気が滅入る」

 心の底からリズは正直な気持ちを吐き出した。

「そりゃご苦労なことで」

 気持ち悪い笑みとおどけた口調でバルシェは労った。真意が汲めない、あまりにふざけた様相にリズは閉口した。

「バルシェのそういう所が嫌いだ」

 今度こそ争いを放棄する為に、言葉を放つ。

 この男はどこまで物事を見透かしているのだろうか。底を明かさず飄々として、相手を苛立たせることしかしないで、無難に事態を収束させる実力がある癖に無責任に現状を放棄し、基本的に面倒なことはやらない。なまじ、付き合いが長いせいで、久々に向けられたバルシェの悪意に余計苛立ちが募った。

「嫌いか。良いね。有り難い褒め言葉だ」

 リズは長く息を吐いた。

「否、すまない。完全に八つ当たりだった」

「なんだ。あくまでも良い子チャンか。まぁ、いいか。時間も時間だしな」

 白旗を振るリズにバルシェもまた大人しく引き下がった。

「一週間か」

「んだ。どう見ても働きすぎだ。休めよ」

「疲れてない」

「でも寝不足だろ。寝ろよ。できないならせめて仮眠しろ」

「実は仮眠してるかもしれないぞ?」

「お前に限ってそれは無い」

「断言するなよ。なんか仕事人間みたいに聞こえる」

「陛下の命令とあるならば、何が何でも仕事人間だろが」

 あのな、とバルシェは続けた。

「おまえ働きすぎなんだよ」

 隊長格へと昇級し主に国王の護衛を勤めるようになり、賓客を担当しなくなって久しいリズに、世話役という仕事が陛下直々に再び与えられた時、難色を示したのはどうやらアルエだけではないようだ。

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