【第七話】




「なんでこんなに暗いのさ」

 事務室から左回りに数えて五つ目の部屋の中から新参者の兎が狐に渋い顔で不満を零す。

「こんなに薄暗いと何もできやしない。飽きたよ」

 格子越しで文句を垂れるあたり元気そうだ。

「そんなに暗くないだろ。希少な陽光石だって用意したんだし」

 確認するまでもなく蝋燭の炎はまだ揺らめいていた。光を吸収するのと同時に、何倍にも倍増させた光量を放つ陽光石はレンの個室を煌々と照らしている。個室の主たる兎は不機嫌な顔で部屋の中央で仁王立ちになっている。

 リズとそんなに身長が変わらないレンと格子越しとはいえ、こうして対峙してみるとリズは国王の趣味の良さにつくづくと溜息を吐いてしまう。

 仁王立ちする姿は黄金律を秘める女神の彫像そのものだ。

「ひ、ま」

 反抗的な態度で無遠慮に言われて、リズは足元に置いた仕事道具一式が入っている籠に手を突っ込み水筒と木杯を取り出した。

「言い返さないの?」

 見るとレンは不気味そうに顔を顰めていた。リズは構わず木杯に水を半分程度注ぎ入れて、それをレンへと差し出した。

「飲め」

「随分偉そうだよね」

「最初に特別に扱うつもりは無いと伝えたはずだ」

 賓客として接するが、だからと言って特別甲斐甲斐しくはしない。賓客に対してどう接するかは個人の裁量に任せるというのがラウルの指示だからだ。だからバルシェは恋人のように扱うし、シュリンは家族のように接するし、アルエは自分のできる限り丁寧に敬う。

 賓客の世話はラウルにとって最上と思える状況を整えるという作業の一環でしかないので、相手がどんな身分だろうとリズ自身は取り立ててどうこうとはしない。

「偉そうと感じたのはレンネードが偉い立場だったからじゃないか?」

 小国だったとはいえレン自身は国王を伯父に持つ王族という身分である。由緒正しい血統書付きの賓客は地下後宮にもう一人いるが、男という理由でレンのほうが位が高い。しかも強弱の双仔の片割れとなればその付加価値は一国の王と並ぶだろう。

 生れ落ちてどのような環境で育ったかは知らないが、置かれている状況に怯えもせず順応しているところを見ると過去に似たような経験や、現状を想像する機会を与えられていないようだと推察できた。捕虜だと本人はそうと思い込んでいるので余計余裕を持たせる要因になっているのかもしれない。

 まるで危機感を持たず無邪気で、どこまでも前向きで行動力があり、そして無鉄砲だった。

「あ、うーん……」

 しかし、間をもたせるつもりで放った問いかけにレンは歯切れも悪く、答えをリズに返そうとはしなかった。

「レンネード?」

「ん。いや。そう言われればそうだなって。オレって宮の外には出してもらえなかったけど、その分とびきり優しくしてもらっていたし我侭放題だったし、特別にしてもらってばかりだから、なんか勘違いしてたんだな。きっと。うん。

 ――ねぇ、オレは、捕虜なんだよな? 実感が湧かないないんだよ。全部夢だったんじゃないかって……」

 格子を両手で握り締めたレンが悲嘆を知らない眼差しでリズを見据える。

 彼は兎族の間に稀に生まれる〝強弱の双仔〟と呼ばれる異形児だ。増して国王と並ぶ価値があると謳われればレンを取り巻く環境をどうリズが想像できようか。ただ、〝弱の仔〟の特徴を鑑みればそれは籠の鳥のようなものだろうかとリズは思い馳せる。大切にされて、大切にされて、大切にされすぎていつしか飛べなくなってしまうような、そんな想像をしてしまうのだ。

 レンの細くて長い指が込められた力に、歪む。

「ちょっと、黙ってないでさ、喋ってよ」

 促されて、思い馳せることを止めたリズは、しかし何を言えばいいのだろうかと口を噤んだ。

 レンがそうと自分で想像している捕虜であることを再認識させればいいのだろうか。

 それとも現状が夢ではなく現実だということを認めさせるのがいいのか。

 しかし、どんなに言葉を与えても、レンの求めている答えはリズの中にはないのだ。

 リズの本意がレンに届かないのと同じように。

 リズは肩を竦めて、盛大な溜息を吐いた。

「気持ちはわかるが、まずはこれを飲んでくれ」

 言うと、レンの右手の指は強く格子を握り締めてから、脱力と共に鉄棒から離れた。

「あーあ。本当は優しい人なのかなーって思っていたんだけど」

 俯いて表情は伺えなかったが、小さく呟かれた声は落胆の色も濃く悲しげだった。

「わかってるんだ。本当は夢じゃないってわかっているんだ」

 風圧でリズの前髪がそよぐ程の勢いでレンが顔を上げた。

「飲めばいいんだろ、こんな水ッ!」

 大音量で叫び、リズから杯をひったくるとレンは全てを飲み干した。レンはリズに向かって空になった木杯を叩き付ける。リズの頬に当たった木杯はそのまま音を立てて石床へと落ちた。

「やっぱりあんた軍人だわッ」

 たった数日の接触でどんな期待を抱かれていたのかなんてリズは想像もできない。しかし、レンの荒れる様は何度も見てきた光景だった。

「ああ」

「ああ。じゃないよ。なんでそんなに冷静なのさ」

 力いっぱい木杯を叩きつけたというのに眉ひとつ動かさなかったリズにレンは顔を顰めた。

「レンネードが怒っているからそう見えるだけだ。ただ、国王の私設とはいえ予算が限られているのでね、水しか用意できないのは悪いなとは思っている」

 レンの唇が歪んだ。

「あまり怒るな。喉が渇くだけだぞ」

 レンを指摘し、リズは足元に転がっていた木杯を拾い上げる。

「だが、それだけ元気なら、なりより、だな」

 荒く肩を上下に揺らす呼吸を繰り返したレンは真っ赤な顔のまま、ふん、と大きく鼻を鳴らしリズに背を向けた。寝台に向かって一歩を踏み出し、そのまま前のめりに倒れこんだ。レンは両手で受身を取るも不恰好に転んだ自分に遅かったと舌打ちし、荒げる声でリズの名を呼んだ。

「少しきついか」

「だからなんでそんなに冷静なのさ!」

 飲んでから動けなくなるまでの時間を前回の例と比較し呟いたリズに両手で腰が抜けた体をなんとか支えていたレンが非難の声を上げる。

 悲鳴に近い声にも動じず扉に掛かっている錠に鍵を差込んで回し開錠するリズにレンは苛立ちが達したのか石床を数回殴った。

「必要なことだから」

 やり場のない怒りを持て余すレンを横目にリズは仕事道具が入った籠を持ち上げた。

「必要なこと?」

 個室に踏み入れるリズを見て、レンの声色に不穏な色が混ざった。リズが話題の中心を意図してずらしたことが既に看破されている。

「知らなくてもいいことだ。それより、よくその水を飲む気になれたな」

「なッ」

 レンは怒りで声を失い、

「飲めって言ったのは誰さッ! 毎回毎回毎回飲ませているのは誰だよッ! アルエは拘束だけだったのに、あんたはいつも体を麻痺させたりする変な薬入った水ばっかりでふざけたこと言うのも大概にしろッ!」

 爆発的に膨れ上がった激情のまま大声で捲くし立てた。

 興奮で顔を真っ赤にさせているレンを見下ろして、こんなにも元気な賓客も珍しいもんだとリズは感心してしまう。

「怪しくは無い。陛下もお遊びで女に飲ませているくらいだ。そこまで怒る必要も無い」

「俺が怒ってるのはそこじゃない!」

 会話が噛み合わないと終いには悲鳴に近い声を張り上げるレンだった。

「もう、時間が経っても治らなかったら覚えておいて!」

 怒りの矛先を向ける先が無くなったレンは自分を宥めるように大きく息を吐き出した。

「で、拘束から薬を使った両足の麻痺に方法を変えたのはどうして?」

 直接切り込んできた話題にリズは咄嗟にどんな顔をしていいのか、迷った。

「何故そんなことを聞く?」

 努めて平静に聞き返すが、質問を質問で返されたことにレンは眉根を寄せて不愉快を示した。

「理由くらい教えて欲しいな、ってね」

 口調は軽いが表情は硬いレンと対峙し、視線を彷徨わせる隙すら見出せなかったリズは仕方なしと向けられる紅い瞳を高い位置から見下した。

 無言で見下されていることに苛立ちを覚えたのかレンの瞳が物言いたげにきつく眇められた頃、リズはおもむろに腰を落とした。レンの体の下に両腕を差し込んで、彼に負担を与えないよう最小限の動きで抱き上げる。

 そしてレンの安全を確かめてからリズは抱え方を変えた。右手を背に沿わせ、両膝の裏を左腕を差し込んで支える、いわゆるお姫様抱っこの形へと。

 自分と背丈が変わらない男にお姫様抱っこをさせられて不快を覚えない男は居ない。増して年頃のレンは何としてでも避けたい状況だろうに、リズに抱えられた彼はしかし意外にも静かにしている。両目をきつく瞑るというささやかな拒絶を示すも、暴れ大声を出そうとはしなかった。

 代わりに、大人しく運ばれて寝台に下ろされたレンは目を開けると不機嫌な表情のまま、リズをこれでもかと睨みつけた。

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