【第六話】




「愚か、だよな」

 リズの呟きにアルエの肩が怯えに跳ねる。

「そんなに欲しいのならやろう。それでおまえが死なないというのなら、俺をおまえにやろう」

 目を見開くアルエにリズは長袖を捲り上げて見るのも痛々しい腕を曝け出した。何度も見ていながら見慣れることのできないリズの腕に、アルエは僅か目元を引きつらせる。

 絶句する部下の名を呼び、注意を寄せると、リズは注射器内の空気を抜き無造作に自分の腕に針先を突き刺した。

 そして、空になった注射器を机上に転がした。

「これで俺はおまえのものだ」

 向けるリズの目は静かに、囁くように落ち着いた声で宣言する。

 アルエの目に映る金色の髪の狐族の青年の姿を認め、その金色の眼差しの冷たさにリズは自分が思いのほか怒りを抱いていたのかと再確認した。

 見やると、アルエは、「違う」と喉の奥で呻いる。

「アルエ。これで俺はおまえのもの」

 否定しようとしたアルエにリズは強引に言葉を重ねた。

 リズの行動と言葉に、アルエは「違う」と呟きを繰り返す。それを見て捲くった袖を戻し釦を留めるリズは金色の瞳を見下すように眇めた。

「満足か?」

 これで、満足か。

 アルエへと問う声は決して責めるような響きを帯びてはいなかったはずだ。

 はらはらと泣き出したアルエにリズは益々と目を細めた。

 アルエは注射器に入っていた液体の名を知っている。

 それをリズが厳重に管理していることも知っている。

 自分がどんな衝動に駆られ、どんな行動を起こしたのか、リズはわからなくとも本人であるアルエ自身はよくわかっているはずだ。

 リズにとって年甲斐も無く子供っぽいところはあるものの、アルエは素直で聞き分けがよく、強く信頼でき、良き部下で頼もしい友人だ。リズは狐族という異種族ではあったが手を貸せるのなら喜んで貸せるしむしろ助けたいと思っている。

 自暴自棄に走らせたいわけじゃない。

 泣かせたいわけでもない。

 アルエを止めようとして起こした行動が、結果アルエを泣かせている。

 涙を流す理由を示したのは、

「だから言ったろ。無駄なんだって」

 巡回を終わらせて戻ってきたバルシェだった。

 一部始終を見ていたのだろうか、開け放たれた扉に体重を預けていた彼は、奥で隠れるようにしていたシュリンと共に事務室へと入ってきた。

 見ただけで笑いを誘うようなふたつおさげのバルシェが室内に入ってきて、張り詰めていた緊張感が崩れるように解けていく。それが手に取るようにわかりアルエが更にはらはらと滝の涙を流した。

 声もなく泣き続けるアルエに侮蔑に近い一瞥を配べ、バルシェは顎を持ち上げて見下ろした。

「わかったろ?」

 嘲笑を受けてアルエが堪らず事務室から逃げ出した。

「アルエッ」

 シュリンがその彼を追って事務室を後にする。

 バルシェが右手で首の横を摩りながらリズに視線を投げ寄こした。

「随分思い切ったことすんだな」

 嗅いだだけで唾液すら甘くなるような香りの正体をバルシェも知っている。用済みと転がされた注射器を顎で示されてリズは肺の底から息を吐き出した。

「知っていたのか」

「ああ。シュリンが心配で心配で夜も寝られないっていうから巡回に行く前に問い詰めた。したらこんな馬鹿なことしてたんかい。無理だ無駄だって言ったのに、結局は自滅かよ」

 笑い捨てる気も起きないと、バルシェは舌打ちする。

「満足か、ねぇ。リズおまえ良くそんな台詞が言えるな。なんで追い詰められた獣に最後の一押ししてんだよ」

 何度試しても駄目で、命さえ張っても駄目で、最後の手段を取ったのにそれも駄目だった。

 満足か。

 その言葉は彼が行った全ての行動を茶番劇の一言で片付けられたも同然だった。

 アルエを奈落に突き落とすには充分過ぎるほどにも充分な言葉だった。放心し泣き崩れ、逃げ出すほどの衝撃を与えたのだった。

「失いたくないだけだ。これに懲りてもらえればいいんだが」

 まさか泣き出すまでとは思わなかったが、突き放すつもりでいたリズは前髪を掻き上げて後ろに流す。

「なんにしろ仕事に支障をきたすような真似はしてもらいたくない」

「おまえは相変わらず仕事人間だな」

「あのな、俺は陛下から全てを任されているんだ。バルシェ、文句があるなら国王ラウルの私設軍に身を置き、狐族の部下になった自分に言うんだな」

 リズもバルシェも前王の時代から私設軍に配属されていた古い仲であった。ふたりで居る時は口調も砕け、喧嘩腰に近いやりとりを平気で交わしもする。

 ふたりは互いに肩を竦め、リズは遅れている仕事をこなすべく歩き出した。が、その背に声がかかった。

「確認したいんだが」

 振り返ると、遠慮のない強引さでバルシェが顎で注射器を示した。

「それ、想像はついてんだが、まさかと思って」

 嗚呼、とリズが返した。

「星花草だ」

 変わらず静かに答えたリズにバルシェは顔を不快に歪めた。

 星花草は、奇跡を呼ぶと世に謳われる至上の麻薬の名だ。

 月花草と全く同じく影響を受けている様子を見せないリズの姿に、バルシェは「そりゃアルエも泣くしかないわ」と嘆く。

「馬鹿じゃねぇの?」

 リズが腕に打ったのは麻薬だ。媚薬ではない。そもそも媚薬の時点でかなり常識はずれな話ではあるが、目の前の出来事が信じられないとばかりに、バルシェはリズを罵倒した。

「そうだな」

 バルシェの罵倒は余裕がある証拠とリズは取り合わなかった。

 仕事道具をまとめるとリズは地下後宮へ続く扉の取っ手を掴んだ。

「行ってくる。アルエとシュリンが戻ったら、時間まで自由に居て構わない」

 言うと、返事も待たず事務室を後にした。

 地下後宮に足を踏み入れ扉を閉めると視界は一気に薄暗くなった。

 扉一枚でこうも空気が変わるのか。人を狂わすに相応しい闇を抱える空間に、慣れたとは言え、リズは自分が緊張していくのを静かに感じていた。

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