【第五話】




 結局女ひとりでは足りなくなって国王は二人ほど遊び部屋に女を追加した。結果、リズが警護の任から開放されたのは翌日の昼中頃だった。

 今後の段取りを組み上げたリズは区切りをつけるように頷くと事務室の扉を開ける。

 出迎えたのは仕置から復帰したアルエの一人だけ。

「そうか、巡回の時間か」

 リズ自身は時間の合間を縫って見回るが、基本的に巡回は二人一組で時間も不定期で決められている。リズを含めてたったの四人しか居ないのだから、別に罰を受け終わったばかりのアルエが一人で事務室に残っていることなんて今更驚くようなものではない。

「アルエ」

 ただ、状況がリズの気に障った。

 歩き進める。

「何をしている?」

 否、とリズは首を横に振った。

「別に俺の席に座っているのが悪いと言っているわけじゃない」

 自分の机を挟んでアルエと対峙したリズは、彼の腕を乱暴に掴み上げた。

「あ」

 止まらぬ早さで右手を取られてアルエは手に持っていた注射器を取り落とす。

 注射器に納められていながら、周囲には爛れそうになるほどにも甘く濃厚な蜜の香りが立ち昇る。その香りはリズにも覚えがあった。記憶にも新しいはずだ、それは昨日のアルエを躾けたあの部屋の中で嗅いだばかりである。濃度が濃ければ匂いだけでも効力が作用する麻薬だ。月花草の苦痛を和らげる為に使っていた劇薬だ。

 月花草と類を同じくした、しかし上品とは正反対な強烈な魅惑の甘い毒。

「なにをしている。と聞いている」

 絶望の瞳で床に落ちてしまった注射器を眺めるアルエに問うリズの声は、本人が思った以上に静かなほど事務的で、アルエの肩が怯えにびくりと引きつく。リズから目を逸らしたまま顔すら上げない。

 狐が獅子に問い詰めるというこの構図は、しかし、とても笑えるようなものではなかった。

「アルエ」

 リズの声音はますますと硬質な響きを帯びる。部下を見る金色の瞳には明らかな怒りを宿していた。掴む指は万力を宿し、アルエの右手首にきつく食い込んでいく。

「死ぬ身になっても何故懲りない?」

 動かせない体を震わせる程の月花草の毒に晒されて尚、どうしてこういう行動に出られるのか、リズは理解できない。

「アルエ」

 リズは怒鳴らない。ただ、問う。その徹底した態度にアルエは掴まれた腕を乱暴に振り払ってリズに抵抗した。自由になったその手で落ちた注射器を拾い、背に隠す。

 狐が眉間に皺を寄せた。

「おまえをそこまで追い詰めているのは何だ?」

 感情が消え去った声音の詰問に、いよいよもってリズを怒らせたアルエが口角を持ち上げた。

「隊長……貴方にはわからない」

 もったいぶるように緩慢な動きでリズの前に注射器を晒した。

「貴方には絶対にわからないッ!」

 叫ぶと同時にその針先をアルエは自分の腕に向かって振り上げ、下ろした。

「アルエッ!」

 叫び返したリズは寸前でアルエの手を掴み止めた。

 止まらぬ速さで腕を取られ驚きと衝撃でアルエは再び注射器を床に落とす。

 結局は未遂で終わってしまった。床を転がる硝子の残響に、終わらされてしまったと、全身から力が抜けたアルエは椅子に落ちるように腰を落とした。

 抵抗する意思を失った部下に上官は悟られぬ様胸を撫で下ろす。拾われるより先にと注射器を回収した。甘い芳香が一層と濃い。空気さえ纏いつくような粘着質を帯びているかの様だった。

 アルエを見遣ると、彼はきつく両目を閉じている。腿に置かれた両の手は硬く握りこまれて、震えていた。悔しいのだろうか、唇さえ噛み締めていた。

 呆けるのかと危惧したものの予想とは違ったアルエにリズは安堵の息を吐いた。

「アルエ。俺はおまえが生きていることに感謝している」

 リズは正直に伝える。リズは誰に対しても本音で語る。元より駆け引きは苦手だ。

「お前は俺の大事な友人で、頼れる部下だ。アルエが死なずに済むのならどんな手段も俺は厭わず行使しよう。けれど、俺の気持ちを逆手に取って、俺の意に反するようなことをされるのは正直おもしろくない」

 アルエが顔を上げた。なんとも形容しがたい複雑な顔をしている。反抗心が薄れたようだと判断して、リズは彼の目の前で、見せびらかすように注射器を振った。

「これがなんなのかわかっているよな?」

 確認を取ると、アルエが力なく頷き返してきた。それなりに厳しく管理していたはずだが、どこから鍵を手に入れたのか、うまく持ち出されてリズは付け入れられるような隙があった自分に落胆していた。

「盗んだことはこの際仕方ない。俺も悪いのだろう。ただ、な?

 悪用しなければ、俺は咎めはするが特には怒らない。俺が言いたいことはわかるな?」

 リズはあえて怒っているという姿勢を強調した。

「規則に違反して罰ばかり受けて、話も聞かず耳も貸さず態度すら改めず、どうしてそう自分を追い詰める?」

 緩やかに自滅の道を歩む姿をリズは見ていられない。見上げ続けてくるアルエを無表情のまま見下ろすことしかできない。

 アルエという名の獅子族の青年。彼はリズよりも二つほど年上で、獅子族では珍しい金の艶を帯びる小麦色の髪を持っていて、精悍な顔にはどこか少年めいたあどけなさが残り、活発で良く笑い朗らかで、また、頼もしいほどにも強く加えて人懐こい性分で、気づけばリズの弟分のような存在になっていた。

 そんなアルエから笑顔が消えたのはいつ頃からだろうか。

「アルエ。おまえ、そんなに俺が欲しいのか?」

 薄々感じていた事を疑問という形で投げかける。

 何も不思議な事ではない。この地下後宮に居ると誰もが狂わされるのだ。感覚そのものが狂ってしまうのだ。それほどにまで地上とは一線を記した異常空間なのである。正気を保つ為に常識を捨てるか、常識を捨てられずに正気を失うかを問われ続ける。精神の安定を求めてなのか、最初の頃と比べてアルエはリズへの依存傾向が顕著になっていた。

「自分の命を賭けるまで俺が欲しいのか?」

 月花草に中毒性は無い。相性が悪い場合、死の恐怖しか無い。それでもそれが怖くないということは、この場合構って欲しいということだ。

 リズは部下を死なせない。それをアルエは逆手に取っているのだ。

 ゆえにリズはバルシェの様に笑うことも、シュリンの様に憂いることもしない。怒り、呆れ、終には諦めた。

 今この瞬間、諦めてしまった。

 彼は月花草がもたらす死を恐れるどころか、受け入れていることにリズは気づいてしまった。

 アルエにとって月花草は、最早リズを獲得するための餌と成り果てていた。

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