【第十六話】




「ん?」

「神話のどこに薬漬けの神などいるのでしょう」

 今更ながらバルシェの皮肉が耳元で囁いている。

 本当にいつまでこの偽りに塗り固められた茶番を突き通せるだろうか。

「獅子より強い種族などこの世界のどこにもいません」

 ハルウェットの人生に致命傷を与えた兎族希少種の強の仔以外に個体で勝る種族をリズは知らない。

「でも、余は知ってるぞ。薬漬けになる前でも獅子より強い者を余は知っている」

 それでもラウルは全てを否定した。否定し、揺るがないものだと肯定した。

「陛下」

「リズよ」

 思わず語調を強めてしまったリズにラウルは彼の名前を被せた。

「お前は余の良い駒ぞ?」

 蝋燭の揺らめきにつられてリズの影が大きく歪んだ。

 真横一文字に唇を引き結ぶ自分に向けられた視線に気づき、リズは気まずげに瞳だけ横にずらした。

 沈黙は嫌いではないが、今現在部屋に満ちる垂れ込めるように落ち行く静寂からは逃げ出したい気分だった。

 焦燥感に喉の奥が干上がり、焦げそうだ。

 思考が同じところを駆け巡り停止するのも時間の問題だろう。

 自分の生唾を飲み込む動作にリズはハッと我に返った。

「リズ」

 ラウルの声が異様に近い。知らず下げていた視界にラウルの靴先が見えた。

「珍しいな。考え事か?」

 数瞬とはいえ、接近に気づけず本来の役割である警備の任すら放棄していた自分にリズは奥歯を噛み締める。

「リズ」

 正面から抱き締められて、リズは顎を上げて顔を上向けた。

「はい」

 質問されていたリズは小さな声で答えた。答えて「いえ」と否定した。

「リズ」

 何度、名を呼ばれる気でいるのだろうか。抱きすくめられて身動き適わず、自分よりも上背のあるラウルを見上げながらリズは周囲の空気が甘くなっていくのを肌で感じる。

「リズは本当に余の良い駒ぞ?」

 ラウルの指先が首筋を伝い下から上に昇ってくる。引っ掛けられた顎が僅かに持ち上がった。

「お前が女の腹に居た頃から知っているが、その頃からお前は余の良い駒だった」

 若い王と言ってもリズとは倍ほども年の差があるラウルの軽い口付けを受けてリズは反射的に目を閉じた。

 ――リズ隊長のことですからキスの一つや二つ、もうお済じゃないですか?

 閉じて、不意にアルエの声を思い出した。

「リズ?」

 心音のずれですら指摘されそうな間近い距離でラウルがそれに気づかないはずがなかった。顎に添えられたラルウの指が枷になり、顔を背けさせることすらリズには許されない。

「陛下は、 ――いえ、陛下のお考えであれば俺は従うのみです」

 抵抗もせずに抱き締められたまま、更に右腕を王の腰に回し力を込めるリズにラウルは物騒に目を眇める。

「ああ、そうか。レン・ア・ネードのことか」

 何の前兆も無いのに唐突に持ち上がった名前にリズは大きく目を見開いた。そんな狐の左肩をリズの顎を支えるのを止めたラウルの手が鷲掴んだ。

「別に驚くこともなかろう。あの部屋はお前の母が居た部屋でもあるのだからな。一度は自由の身になったのに、好んで余の元に舞い戻るリズの考えを見通すなど余にとっては造作もない」

 前兆が無いわけではなかった。あの個室の事を思えば、過去の話へと連想されるのはとても簡単な話だった。

 全ての事象をひっくるめて兎族希少種双仔の弱の仔をあの個室に宛がうラウルの意向にリズは笑うしかなかった。笑わないが、笑うしかなかった。笑えないまま、ラウルの体を抱く右腕に更に力を込める。

「陛下のお考えであれば俺は従うのみです」

 そして、言葉を繰り返し重ねた。リズの真意に揺るぎは無いと忠誠を誓う。

「その言葉、リズが言うのなら本当なのだろうな」

 獣そのものの光を帯びた王の眼に晒されて、真意を問われたリズは、しかし、生唾を飲み込んだ。

 今自分が腕に抱き、自分が腕に抱かれているのが獅子の王なのだと唐突に自覚した。自覚して、せり上がる焦りに心臓の鼓動が早くなっていく自分を抑えられない。

 唇に、羽のような軽さの虚ろしか返さない、空しさだけが残る口付けの感触が生々しく甦る。

 思い出して、リズは焦った。同時に襲う困惑と動揺に冷静さを振り落とした。

 自分を取り巻く状況を理解しようとすればするほど思考が反転と空転を繰り返した。思考がどこかで焼き切れているのか、堂々巡りを繰り返して答えがでない。

 連日の疲れと今日の出来事の負荷に脳が耐えられず、自分がいつもどう物事を判断し行動していたのかすら見失っていることにリズは気がついていない。

「陛下」

 ラウルの熱に煽られて息苦しさに耐えられず、リズは正面の男を呼び喘いだ。

「名を呼んでも良いのだぞ?」

 ラウルが発する親しげな響きを意にも介さず、リズはただ王の目を食い入るように見つめる。

「……陛下」

 繰り返される変わらぬ呼称にラウルは小さく笑っただけだった。

 諦念の苦笑いで笑っただけだった。

「相も変わらぬ執着ぶりよ。ま、それでこそリズだ」

 リズの左肩を掴むラウルの手がはずれた。

「陛下」

「良いよ。言うてみ」

 懇願に許しが出て、リズは空かさず左腕もラウルの胴に回し、彼を抱きすくめた。抱きすくめて、リズが俯くと互いの身長差で、リズの額はラウルの胸に落ち、着く。

「陛下」

「なんだ?」

 唇に感触が甦る。

「陛下」

 ――リズ隊長のことですからキスの一つや二つ、もうお済じゃないですか?

 繰り返して止まないアルエの問いかけ。

 その裏に隠れた確信。

 表に出さない非難。

 射抜かれた本音。

 ラウルの胸に顔を埋めたままのリズは目を閉じ、開けた。

「時間を。陛下の時間を俺にくれませんか?」

 つくづくと。つくづくとラウルをリズは恨まずにいられない。

「時間をくれませんか」

 自分の目が金色にぎらついていくのを止められないリズが、ラウルに向かって誘いの吐息を吐いた。

「良いよ」

 ラウルが笑って応える。

 どんな意味で笑ったのか、ラウルの胸に額を押し付けているリズには、顔が見えなくてもそれでもわかった。主従の関係が長いからわかったのではなく、わかってしまうくらい、リズはどうしようもないのだ。

 常にあった判断力は思考回路が焼き切れているのか正常に働いていない。理性と感情と欲望の三竦みに視界さえ歪み撓んでぐらついている。

 この飢えに似た衝動にもし名前を付ける事ができるのなら、この瞳に映える欲望のぎらつきも抑えられるだろうか。

 そんな心にもない期待を抱きながら、リズはラウルの頬に片手を添えた。

 脳裏に眼差しが甦る。

 あの、

 素直で、

 不機嫌で、

 純真無垢であるからこそ、

 すぐにふてくされて、

 裏表を持ち合わせず、

 不快も顕に、

 憎らしさで恨んでしまいそうなほどの、

 なんの屈託もなく、

 自分を偽らない彼の、

 あでやかで艶やかな強い意志を宿した鮮やかな紅色を、

 目の前の男と口付けを交わしながらリズは思い出していた。

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