【第十七話】




 事務所を出て左回り五つ目の部屋。

 そこには紅い目の兎が居る。

 が、照明たる蝋燭の揺らめきが消えていた。通路に一箇所、大きな穴が開いている様に、ぽっかりとそこだけが暗い。

 定期的に明かりを入れ替える通路とは違って、個室はあくまでも担当者が管理しているのでうっかり忘れた日にはこうして蝋燭が燃え尽きることがあった。

「起きてるか?」

 格子越しに問うと暗闇の奥から衣擦れの音が返って来る。

「起きてるよ。なんか用?」

 明かりが無いせいだろう。手の施しようが無いほど不機嫌なのは声だけで知れた。

 獅子族よりも成長度合いの早い兎族で種族年齢で成人を迎えているはずのレンの声は、声変わりを迎え終わっているというのに高く細く女が醸す艶を滲ませている。しかし、高くて細い割りに女性とは明らかに違う確固たる男声に、聴いている方は不思議な感覚だ。それが強弱の仔の特徴と言われればそれまでだが、こう姿が見えないと騙されているようで不審を誘う。

「声がはっきりしている。薬が切れたか」

 寝台とおぼしき場所に視線をずらしても姿は見えない。光が落ちた場所は計り知れない闇ばかりで、暗闇の向こう側から見れば煌々と蝋燭の明かりが揺らめく通路側は逆にはっきりと見えているのだろうか。しかし、それは兎がこちらを見る気があればの話であり、だから気づきもしないのだ。

「逃げられないのに眠り薬ってなんの意味があるのか。って思っちゃうよ。そだね、頭はすっきりと冴えているから、眠気はきれいさっぱり無いよ」

 起き上がったのか立ち上がったのか一度大きく衣擦れの音が響いた。

「出て来い」

 突き放したような淡白な声にレンの呼吸音が一度止まった。一拍を置いて盛大な溜息を吐き出した。

 冷たい石の床を踏みつける裸足の足音。やがて、浮き上がるように暗闇からレンは姿を現した。寝乱れた白い髪を片手で押さえている。その手の下から覗き見える表情は予想通りとても不機嫌そうだった。

「で、何の用?」

 質問を繰り返すレンは早く話を切り上げたくて堪らなさそうだったが、そんな兎の不満などお構いなしに本題を切り出そうと右手が格子を掴んだ。

「ここから逃がしてやる」

「は?」

 間髪いれずに冷笑された。

「出来るの? さんざ失敗してるんだけど?」

 半眼になり非難すら混じる眼差しは冷ややかに、皮肉に唇は歪み、獅子の王を射止めた華やかさは息を潜めてレンは闇を背に背負い冷暗と佇んでいた。

 疑心に満ちた絶対的拒絶を露わにする兎に格子を握り締める手は万力を宿す。

「失敗は無い。必ず逃がしてやろう」

 確固たる意思を宿した宣言にレンの顔には驚きの波紋が広がった。広がって不信に揺らめいた。

 格子越しに対峙する。

「逃がす」

 断言にレンの不信の色が強まった。

「ホント?」

 念を押す声に苛立ちが混じっている。追求が片言に聞こえたのは、レンが兎族特有の発音をしたせいだ。不審に色めいているがここに来てようやくレンの本心が僅かに顔を出したらしい。それはつまり逃げたいという欲求は消えることなく在るという証。

「絶対に逃がしてやる」

 意気込みを言葉にして重ねるだけでもレンを煽るには充分だった。

「どうしてそんなに必死なの?」

 ちらつかせる希望に、期待を裏切られたくないレンが理由を欲した。絶対の言葉にほだされて過去何度も裏切られているというのに、脱走に向けてその一歩を踏み出す。

「見ていると苛々するんだ」

「え?」

「苛々するんだ」

 いろいろと。本当に色々で様々なものがると歯軋り混じりの声音で語り出す。

「陛下の趣味は知っていた。だからレンネードを見初めた理由なんてすぐに察しがついた。俺は陛下のお気に入りだ。そして陛下は俺を良く理解している。上手く、ずっと上手くいっていたのに、陛下のご趣味はこの平安を保たせてはくれない。あの肉食獣特有の眼で己の欲望をどう満たそうか、ずっと息を潜めていたに過ぎなかった」

 とても幸せな日々だったのに、と続ける。

「今でもはっきりと思い出す。レンネードが初めて城に来たときの陛下の表情を。陛下の歓び様を。そして、それを間近に見た自分の感情を。危機感しか、危機感しかなかった」

 ぎりぎりと右手が格子を締め上げた。

「レンを眺める陛下を見て初めて自分の本音に気づいた」

 自嘲気味に告白にレンは僅かばかり身を引いた様だった。それでも構わずに続ける。

「知ってるか? 陛下のご趣味を?」

 レンは半身を引きながら沈黙を守っていた。返答を待たずに吐息を吐いた。

「想像もできないだろう。けど、予感はしているはずだ。陛下が選んだお前なら言わなくても察するだろう」

 左腕を伸ばしレンの頬にかかる彼の白い髪を指で掬い耳にかけさせる。紅い瞳が近場をうろつく指に嫌悪の色を宿すがレンは身動ぎ一つしなかった。睨める兎に笑いが零れた。

「陛下はご自分しか愛せない人だ。ま、獅子族全般そんな奴ばっかりだけど、陛下は抜きん出てな。それもお約束なことにかなり歪んでいて、陛下はお一人では決して満たされないんだよ。自分で自分を愛するだけでは到底賄えない欲望の持ち主なんだ」

 レンが変な顔になった。無理解だと一目でわかった。

「ゆえに悪癖だと俺は評している」

 淡白に言い放つと格子から手を離し、常備している合鍵を腰の鍵束から選び出して檻に掛けられた鍵を解錠する。

「出てこい。陛下は自分と良く似た人間を見つけると支配せずにはいられない。しかも、自分を愛してくれるのではなく嫌悪する人間しか選ばない」

 嫌悪と恐怖に理性を逼迫され本能のまま泣き叫ぶ姿に満足を見い出す獅子の王ラウル。それは弱者を虐げるよりも甘美なる快感と愉悦を知る人間の名である。

「レンネード。お前は死よりも恐ろしい思いはしたくないだろ?」

 解放に開けられた檻。先の合同演習の時とは違うらしくレンは大きく息を吸って吐いていた。捕虜になってから夢にまで見たこの瞬間に、夢が現実となったこの瞬間に、どんな表情をしたらいいのかわからなくなったらしい。それでも心が逸っているのか周りを伺う余裕もないまま一歩を踏み出した。


「まぁ、その辺、だろうな」


 突如として響いた声にレンとアルエの二人が同時にこちらを向いた。

 始終静かに見ていたリズはラウルの肩越しに逃亡を発見され驚愕に声を失った二人を認め、ふと、天秤の傾きについて考えていた自分を思い出した。

 緊張した空気の中、先に動いたのはアルエだった。固まったレンの腕を取り全速で走り出した。

「リズ。バルシェ」

 発せられた命に、控えていたバルシェが先行する。瞬発力の差で遅れたリズも同じく走りながら追いついたバルシェの肩を軽く叩いた。

「レンネードを頼む」

 顔を向けないまま伝え言うと、更にリズは加速した。狐が追うのは兎ではなく獅子なのだ。それに少し走っただけで足が縺れて転んでしまうような弱い者をリズは粗野にしか扱えない。ここは女性に手馴れたバルシェに預けるのが妥当だった。

 そう考えて通路に転がって捨てるように置いて行かれたレンの横を過ぎて、前を走るアルエの背に迫った。

 追いついてその腕を掴み、捻り上げた。ぐらついた重心の隙をつき、そのまま地に伏せさせる。抵抗されないよう片腕を捻り背中に押し付けたが、組み敷いたアルエは思ったより大人しい。

「リズ」

 聞こえた声に首だけ振り向くとそんなに距離は離れていないらしく、ラウルの表情が確認できた。バルシェにお姫様抱っこされたレンも大人しくしているようだった。

「バルシェ」

 ラウルの声が歪んで聞こえる。

「そのまま余の部屋に連れておいで」

 個人名を出さなかったということは、ふたりとも、という意味だ。

 バルシェがラウルからリズへと視線をずらしてきて、目と目が合ってしまった。リズが頷くとバルシェは心底嫌そうな顔をして溜息を吐いた。

 諦めて命令に従う為に動いたバルシェに続きリズも大人しいアルエを引っ立てて歩き出した。

 進む先で、一人歩む王の背中を見つめながらリズは傾く天秤の行く末に思いを馳せる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る