【第二十話】
「レン・ア・ネード」
嫌悪を抱いているのに、それが自分にとってこれ以上も無い快感をもたらすものだと知ったとき人はどう考え行動するだろうか。
リズは絶望に打ちひしがれ死を持って逃げようとするレンから短剣を取り上げた。
取り上げて、そのまま鋼の切っ先をレンの口の中に突っ込んだ。
「陛下に選ばれながらも、それを拒絶するのか?」
無論、そう考えた末の今の彼の行動だ。だが、そんな選択肢はこれから先レンに提示されることは無いだろう。
傷つけないように喉の最奥まで差し入れられた短剣にレンは口を閉じられないまま不安定な形で生唾を飲み込んだ。
レンの瞳に映る金色の目のリズは冷めた表情で淡々と語り続ける。
「選ばれたことが幸運だと俺は思わない。だが、不運とも思えない。選ばれるということそれ自体に価値があるからだ。だから、陛下に選ばれたレンがとても羨ましい」
羨ましい、のだ。
「レン。俺は陛下しか要らない。陛下で無いと駄目だ。陛下が俺の全てだから、だから陛下が俺を選ぶことは決して無い。
陛下に選ばれるということは、ご自身しか愛せない陛下が自分と同じだと判断したからだ。陛下が等価値と見なされたレンは言わば陛下そのもの。レンは俺の中で陛下と同等の価値があり、価値以上にその存在意義は尊い」
レンが再び生唾を飲み込んだ。
「俺にとって今の陛下が全てだ。のちに現れるだろう次代の陛下に、俺は会えない。陛下が陛下である限り今のラウルが俺にとって生きる意味そのもの。
レン、残酷だとは思わないか?
俺は決して本当の意味で陛下に必要とされない。絶対に、だ。一度絶望して縋りついたことがある。案の定拒絶されたよ。良い駒だと上辺だけ褒めて、それだけだった。なのに陛下は俺に見切りをつけない。見捨てない。離さない。死なせてくれない。冷めた目で俺を見下ろして、優しく微笑むんだ。そして、悟るんだよ。俺が生かされている、その意味を」
リズの中で陛下は二人居る。前王と現王だ。しかしどちらも好奇心でリズを拾っておきながら、以降は放置を繰り返した。餌も水も増して捨てることも放流することも処分することもせず、責任を放り投げた。投げっぱなしにされて、最初から与えることを放棄されたリズは、何ひとつ与えられず飢えに飢えている。欲しているのに些細な想いすら満たされない苦痛に感覚は麻痺し、正常な思考回路はとっくの昔に焼き切れて消失していた。
一時の休息に幾分自分を取り戻したリズはしかし、組み敷くレンに面影を重ねずにはいられなかった。
「俺の陛下は今はラウルだ。ラウルの基準で同等として選ばれたレンは俺にとって別格な存在なんだ。わかるか? おまえに選ばれたい俺の気持ちが」
わからないだろう。失いたくないと切に願うこの想いが。
「死なせるわけにはいかないんだ。陛下の為にも、俺の為にも」
生かされ続けている理由はただひとつ。
レンの口に片手で短剣を突っ込んだままリズは左手で隠しを弄る。常備している薬液が入った小瓶を取り出した。
小瓶の蓋を親指だけで押し上げて外し、
「死ねない体にしてやろう」
言って、小瓶の中身を儀式めいた動作で短剣を支える右手に注いだ。
支えられている右手を伝い、重力に従って流れ落ちる薬液は、鈍色の刀身に透明な艶を綴りながら切っ先を目指した。
「喉を鳴らして飲み下せ」
唇を閉ざすこともできず、口移し以上に抗えない強引さにレンがきつく両目を閉じる。
その喉が嚥下に動いた。
「本当に死ねない体にするわけじゃない」
空になった小瓶も不要になった短剣も道具入れの籠の中に投げ入れ、寝台とレンの背中の間に片腕を差し込み、リズは彼の上体を抱え起こした。その動きだけでレンの体は安定を失いリズの胸に頭を預けた。
「……り、ず?」
「今レンが飲んだのは月花草だ」
吐息の声で名前を呼ばれたリズはレンの背に回す腕に力を込めた。それに応えてレンが顔を持ち上げるが、向けてくる瞳は焦点を失いリズの姿を求めて彷徨っていた。事前にレンと月花草との耐性と相性の度合いを確認していたリズはレンを自分に抱き寄せた。
「至高の媚薬と名高くても、月花草は合わない者が飲めばただの毒だ。耐性がなければ一滴でも致死量。症状は急激な体温の低下から始まる。ああ、寒いかレン・ア・ネード?」
言葉を掛けるが、果たしてリズの声は届いているか。
体温を失い冷たくなっていくのを肩を抱く手で感じ、それ以上にガタガタと震えているレンを片腕のままで一層強く抱き締める。アルエと同じ症状だ。耐性の程度は想像していたよりあるようで、リズは目を閉じた。時間の進み具合を伺うようにゆっくりと語り続ける。
「でも、まだまだ体温は下がる。耐性の無い者は大抵この辺りで耐えられずに死ぬ。レンは耐性がついているからこれで終わらない。そろそろ視覚が閉じられるから何も見えなくなる」
そして、触覚が消えて、最後に耳の機能が失われる。この時点で既に思考回路は壊れているので訪れた静寂にパニックを起こす。重くのし掛かる静寂に負けて抵抗も暴れることもできず、一時間も待たないで静かに死んでしまうのだ。
「……あ」
レンが一音を発した。「ひ、ぅ」と喉が弱々しい悲鳴を綴る。綴られた音に狐は閉じた目を開けた。レンが感覚の無い腕を持ち上げて、指先が空を探し始めている。
レンに静寂が訪れたのだ。
手を伸ばすのは足掻いているから。死へと続く闇夜の静謐から抜け出そうとレンが藻掻きだしている。
五等星の星の瞬きよりも儚い光を求め震えながら伸ばされた腕、その指先にリズは己の指を絡めた。
致死量を超えた毒を服用すれば死ぬのは当然。不死に近い兎族の強弱の双仔の弱の仔でも不死に近いというだけで、絶対の死は避けきれない。
死の恐怖は決して受け入れられるような代物ではない。
死に直面した場合、人はそれに抗おうとする。月花草を過剰摂取し死んで逝った人間を大勢看てきたリズは、ただ死を待つだけのレンに緩やかな視線を落とした。
死に逝く者達はこうやって暗闇の中、微かな光を求めて彷徨いだす。自分が死ぬと理解して、死にたくないと死から逃れようとする。
今レンが体験しているのは、彼が選ぼうとした道だ。その道は人間ならば簡単に選べてしまえる。他者の助力など必要としない。いつでもどこでも自害など自由にできる。それを阻止するには、救いと思えた道すら救いにならないとその道を断つしかない。
レンを死者にする。
それは、この世界どこを探しても、リズ一人でしか出来ない事だろう。リズがいるからこそ取れる手段だろう。
せっかく見つけた飢えを満たすだろう相手を失わずに済むのなら、リズは迷わずこの手段を選ぶ。リズは月花草が与える死から救いの手を差し出すことができるのだから。
「レン」
助けを求めるレンの唇に自分の唇を寄せ、押しつけた。
静寂を逃れようとするレンを導くように吸い、離す。再度、今度は長めに吸い、離す。それを何度か繰り返すと、リズはレンを寝台の上に横たえる。
一度は快楽に染まった肌に唇を落とし、その氷の様な冷たさに、知らずリズの唇は笑みを象った。薄氷の遙か底で温もりが横たわって抗いに蠢いているのを感じ、興奮が抑えられない。休息を与えられて落ち着いた本能が再び歓びを求めているのが喉の干上がり具合で知れた。
レンは生者だ。生者は死を厭う。死を厭う者は死を忌む。死を識った生者は死を忌避する。無意識にでも。
レンは、自害を選ばない。
笑みが、零れる。
頬が、頬の緩みが、緩みを帯びた歪みが、止められない。
柔肌に満遍なく散った快楽の花片を舌を使ってなぞる間も、時折せがまれて交わす口づけも、光を求めて伸ばされたままの腕も。
獅子族の王の残り香を漂わすこの肉体を丹念に舐る程、リズの笑みは深く深く愉悦の色味を濃くしていく。
獅子の王と、目の前の喰われた残骸如く絶望し弱り切った兎。歪んでしまった忠誠心がこのふたつにどんな差異があるのか確かめれば確かめる程、リズの舌は欲望で乾き、迫り上がる感情を抑え込めない。
リズは細く笑む。
ただひとり蝋燭揺らめく薄暗い室内で、僅か微笑む。
ラウルの寵愛を受ける賓客が抗おうと、彼らが自殺を図ろうと、その都度止めに入りその手段を奪う。
思い出して、微笑むしかなかった。
死ぬことを許されない賓客達を思い出して笑うしかなかった。
期待しては裏切られる。その連続に正気は既に失っているというのに、生き続けている自分に笑うしかなかった。
結局身代わりでは満たされないことなど疾うに知っているくせに、いつも期待してしまう。
期待して、所詮身代わりは身代わりで本人でないということを知り、勝手に相手を裏切り者呼ばわりするのだ。その腹いせに彼らの自殺という救済の道を閉ざすだけなのだ。
八つ当たりも甚だしい。
王の呪縛は解けやしないのだ。
利害が一致しているだけなのだから。
そこに恋や愛など、存在しない。
好意も愛情も受け入れてはくれない。
狂うことだけが許されている。
狂おしい程の激情。
この感情に名を付けることができるのなら、そこまで考えを巡らして、リズは思考することを放棄した。レンが体力を取り戻すのと比例してリズの余裕は無くなっていくのだった。
死に物狂いで縋り付く肢体。
全身全霊で求められる。
組み敷く腕の中で、この一瞬が、夢の様。
生者の欲望。
月花草の死から逃れるには抵抗が必須。
毒が抜け切るまで抵抗し続ける事。
救う者はそれに耐えなければならない。
生者の欲望には際限がない。
限度がない。
理性がない。
終わりがない。
蹂躙されているのは、どちら、だろうか。
「リズは本当に余の駒か?」
笑いさざめく獅子の王に、リズは顔を上げる。
無事落ち着きを取り戻したレンを確認し、事を終えて詰め襟に指を差し込み乱れを直したリズは格子越しの王へと向き直り背を正す。
軍人然としたリズにラウルはただ緩く笑んだ。
一体いつから、供も連れず、その場所で成り行きを眺めていたのだろうか。
周りへ配慮する余裕が持てなかったリズは僅か頬の内側を噛むが、表情には出さなかった。
「リズよ」
呼ばれ、
「レン・ア・ネードはお前の恋人に成り得るか?」
投げ掛けられた問い。
リズは直ぐさま答える。
「私の恋人は陛下だけです」
いつもの問いかけ。
いつもの返答。
これがリズとラウルの常であり、不変であり、永遠なのだ。
常に在り続けるリズの答えに、ラウルは緩く笑む。
それこそが今回の戯れの目的だったかの様にただ笑み、愉悦に喉を鳴らし、満足げに微笑んだ。
狐が飢えたまま狂う様を、餌さえ与えずに獅子はただ永久に眺めるのだろう。
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