【第二十一話】
時が流れるのは早いもので、あの日から一ヶ月経った。
「一ヶ月経ったね」
とフードの下、仮面の奥でレンはリズに投げかけた。
「楽しそうだな」
「毎日毎日王様のお相手してるのに、いつもいつもいーつも夜だもの」
太陽の下に出るのがそんなに嬉しいのか、レンは常になくそわそわしている。仮面と外套の点検を終えたリズは彼を個室から連れ出した。
あの日を境に文字通り毎夜王の私室に連れ込まれているレンは見かけと反して元気そうである。
弱の仔の特性を思えば一日に蓄積された疲労が半日で回復されるのは当たり前だ。精神も強靭なもので落ち込んでいたのは最初の一日だけだった。知りたかった事柄の殆どを知った今、自分の立場を正面から見つめるレンは日々健やかに過ごすので、リズは賓客としてはあまりに異質な彼の振る舞いに戸惑いを隠せない。そして挫けず毎回脱走を試みるレンにただでさえ多忙を極めているリズは本当の意味で忙殺されかけていた。
月に一度の合同演習の実施を聞き、レンの喜びは輝んばかりだ。
逸る彼を宥めてリズはレンを賓客席に座らせる。
人の保護欲を誘う容姿からはとても想像できない前向きな思考にリズは兎族に対しての認識を改めざる終えない。
獅子を従えさせるリズは、しかし、レンに振り回されている。
その憂さを払うかのように剣を振るい、リズは一人結構な速さで戦績を上げた。
前回ハルウェットを倒した実力を見せ付けられたせいで単なる演習とはいえ尻込みしている獅子の塊に鋭く切りかかる。幾人もの屍を積み上げて気づけばリズが参加している隊の象徴の旗が終了の笛の音と共に高々と掲げられた。
と、いつぞやのハルウェットを彷彿とさせるどよめきが場内を揺るがした。
あまりの騒がしさに弾む息を無理やり整えて顔を上げたリズは自分の隣で持ち上げられた細くて白い腕に両目を見開いた。
白い外套を風にはためかせて、練習用の鈍らな剣を国王に突きつけている姿に息が止まりかける。
「レンネード……」
〝王の座〟の宣言で興奮する民衆に応えるようにレンは仮面を毟り取ると空高く投げ上げた。
白日の下に晒されたレンの美貌に一瞬にして空気が凍った。
凍って、一様に国民は声を潜めて隣人と囁きあった。乱入者が兎族と知って、落胆を隠さない。いくら挑戦者には寛大な獅子族もリズを相手にするレンに安易な展開を想像して不憫だと頷きあう。
「レン」
リズは愕然と相手の名前を呼んだ。
前回見たのと同じく速やかに競技場が闘技場へと変化していくのを眺めレンは満足に頷きながらリズに振り返った。
「鎖で繋げば良かったんだよ」
獅子族に圧倒されて過去誰も賓客席から立とうとしなかった経験がこの油断を誘ったと告げるレンにリズは短く笑った。
「冗談、だろ?」
「まさか、いつも本気だけど?」
「死ぬぞ」
呟きが漏れる。
陽光の下、その柔らかな白絹が目に痛いほども煌いて、レンの肩口を滝の如く滑り落ちた。
「お前、死ぬぞ」
震える声で忠告するリズにレンはあの日と同じく奮えながら頷いた。
「勝つよ」
「相手が誰だかわかってるのか! 俺と陛下だぞッ!」
リズは自分の胸を右手で叩いた。
「兎族のお前がどう勝てると言うんだ。死ぬしかないだろ!」
絶叫が誰も彼もが押し黙り静まり返った闘技場内を切り裂くように響き渡った。
その絶叫の余韻を追って一陣の風が砂を巻き上げる。
はためく髪を片手で押さえて、レンは笑う。
リズにこれでもかと言わんばかりに挑発的に笑った。
「勝つよ」
練習用の鈍らを片手に、七年もの間、ラウルの玉座を護り抜いたリズに向かって高らかに宣言した。
「生きても、死んでも、勝つよ。だって俺は自由を手に入れるんだから。だってオレの直感がそう言っている!」
至福に満ちた満面の笑みで勝利を確信しているレンに、勝敗を決める基準の違いを見せ付けられてリズは唖然とした。
一ヶ月考え続けて出したレンの結論に、リズは言葉を失った。
生きていても地獄を味わうだけの日々。しかし、自分からは死ねない。ではどうすればいいのか。その結果が、〝王の座〟の宣言に結びついた。
この時点で正しく、レンは自分の勝利を勝ち取っていた。
ここ一ヶ月晴れやかに健やかに過ごせていたのは、全てはこの日を迎える確信があったからこそだ。
リズはこの決闘で、リズの陛下は最愛の恋人を失い、リズ自身も最大の慰み者を亡くすのだ。
突き付けられた現実に情けなくも膝が笑い崩れそうになる。やっと手に入れた安寧を失う絶望をどう表現できよう。
胸の奥が痛い。そして、押し潰すような痛みに紛れて、高鳴りが大きくなる。
期待が、膨らんでいく。
レンを見据える程に湧き上がってくる感情にリズは気づいた。気づいて、それが今までレンに抱いていたあの淡い期待と同じものだとわかった瞬間、目の前が真っ白になるほどの衝撃を受けた。
愕然としてしまった。
期待通りになった。と、知ってしまった。
レンは自由を得るべく、自ら剣を取り、切っ先を王へと向けている。
その構図が、その場面が、長年思い描いていた光景と、重なる。
理性と感情が明滅を繰り返し、息が止まりそうだった。
自分が誰に何を投影していたのか、わかった。
ひた隠しにしていた本心が、そこに、在った。
――在った。
現実に存在した。
そう、
今まさに、
目の前で。
レンの姿勢の強さにリズの視線は一度ラウルに泳いでしまった。
リズの陛下は、笑っていた。それは、理由が存在しない、単なる微笑だった。
判断は任せると、ラウルは優美に笑う。
勝って生きるか、負けて死ぬか、リズに与えられた選択肢はたったのふたつだけだった。
唐突に、大小ふたつの水筒を思い出して、リズは笑い飛ばすように短く息を吐き捨てる。
選んだ道は、自分が思っている以上に、リズにとって笑えるものだった。
リズは練習用の剣を投げ捨てると、常に携えていた短剣を鞘から引き抜く。
そして、躊躇いも無く己の腹にそれを突き立てた。
ラウルへと振り仰ぐ。
「致命傷を負いました。抜けば死にます」
ついで、呆然としているレンに面と向い、笑った。
「王の座の宣言だ、自由を勝ち取ってこい」
最後に短剣を持たない左手を大きく振り上げた。
「俺の負けだッ」
叫ぶと、大きく声を上げて笑う。
笑わずにはいられなかった。
陛下の従者であろうとした自分が、まさか判断に迷うとは知らなかった。
優劣を付けられなかった。
ハルウェットの時の様に、感情を切り捨てられなかった。
現王ラウルが自分と似た者を好んでいるのを知って、価値は同等としていが、まさか陛下と賓客を同列に扱っていたとは知らなかった。
レンはリズにとって陛下の身代わりに成りえなかった。
代替えでもなかった。
レンという人間に誰を投影し、自分は何を求めていたのか、知らなかった道を示され、麻薬で感覚が鈍化し、思考だけが鮮明な中、陛下もレンも、どちらも選べなかったリズは、残されるしかなかった選択に笑うしかなかった。
これは、裏切りだろうか、と疑問が過ぎる。期待など一切とされなかった従者の理想を裏切った自分に陛下はどんな感情を抱くだろうか。
不安に、しかし、表情は晴れやかに、ひとしきり笑い声を上げ続けたリズは、そのまま膝から崩れ落ち、地面に倒れ伏した。
視界の隅で、レンが呆然と立ち竦んでいるのが見えた。
「少しは、喜べよ」
呟いたリズの意識はそうして暗転する。
不意に意識が戻った。
清潔感溢れる白い天井と仕切り布越しに届く淡い陽光にリズは思わず目を細める。
「あ、気づいた?」
声に視線を巡らすとレンが覗き込むように身を乗り出した。
「此処は?」
空気を含み柔らかに体を包む寝台にリズは自分が横たわっているのに気づいた。
「びょーしつ。死ななくて良かったね」
レンは溜息を吐いた。
「簡単に説明すると保留になったんだよ。リズが生きてれば引き分け、死んだら続行。王様の特例だってさ」
完結に述べられた〝王の座〟の行方にリズは大きく目を見開いた。
〝王の座〟の決闘で負けた人間の治療を行ったというのか。強者に挑んで死ぬという誇りを重んじる獅子族とは考えられない行いに、ラウルという人間にリズは驚きを隠せない。
獅子族の社会で生まれ育ったリズは型に嵌らないラウルという人間性にその思考に考えが追いつけずため息を吐いた。
致命傷のリズが生きるか死ぬかそれも見物と決闘を延期させた結果は、この時点で所詮リズのことだ腹に一突きでは死なないだろうなというラルウの勘が当たった形で、引き分けという終幕を下ろした。
「獅子の歴史に名前を刻んだな」
部屋に甘ったるい匂いが充満していることにリズが気づいた。リズの視線の先を追って、レンが頷いた。
「点滴に星花草を使うなんて信じられない」
リズの見るも無残な腕を隠すように被せられた布の上から伸びる点滴針に視線を流してレンは口を曲げる。
レンはリズの担当だから、レンはリズと同室でここ数日を過ごしていたらしい。
「単なる痛み止めの代わりだろ。重病の末期患者に薄めて使われると聞いたことがある。ところで、脱走はしないのか?」
「凄かったんだよ。ラウルが医者にその場で処置させるし、正規軍は妙に興奮してるしさ、アルエは大暴れだし、医者は医者でリズの裂いたお腹を見てこんな中身初めてだって小躍りしはじめるし、大変だったんだ」
レンは答える代わりに愚痴り始めた。兎族の弱の仔は不快と眉間に皺を寄せる憂い顔にですら朝露に濡れる花の様に色気が匂い立つ。
「俺はずっとリズについてろって言われるし、だからって拘束とかなくて自由だし、医者も看護婦も侍女もすれ違うたびに頭撫でたり肩叩いたり激励されるし、なんか獅子族の対応が怖いくらい気持ち悪くて」
逃げる気力も湧かなかった。と言外に語る。
獅子族は良くも悪くも実力社会だ。強ければ認められる。事情を知らない者から見ればレンは何もせずにリズを倒したとしか見えず、彼は気づけば獅子族から一目を置かれているらしい。
「なんだよ。なんであの時腹なんて切ったんだよ」
本題に切り込んできたレンに、リズは目を閉じた。
「なんで、だろうな」
吐息の声で答えたリズにレンは跳ね上げるように眦を吊り上げた。
「はぐらかすの? あんだけ笑っておいて理由なんて知りません、なんてすっとぼけるの?」
どういうつもりだと詰め寄るレンの怒った表情を想像し、リズはうっすらと目を開けた。案の定、想像したのと同じ顔でレンがむくれている。
「否、本当にわからないんだ。俺には陛下しか要らないのに、選べなかったんだ」
「え、なにそれ。なんか愛の告白っぽい上に完全に自己完結していて気色悪いんだけど」
正直に答えたというのに、身震いまでされるリズだった。
「深読みしすぎだ」
言うが、実際外れてもいなさそうでリズは心中複雑だった。
あの忙殺されていた一週間で、現在の陛下と同じ色をその紅の瞳に見い出してから、どうにも調子が狂っているのは、それが真実だからだろうか。
身代わりとして求めていたはずだったが、
愛してしまったのだろうか。
自問し、自答が返ってこない自分に、リズはレンの問いかけを繰り返しはぐらかした。
矢継ぎ早に話しかけてくるレンに、リズは何度目かの相槌を打つ。
応えながら思う。リズが回復したらレンのこの自由は夢のように消え去るだろう。彼は再び賓客として地下後宮へと誘われる。
逃れられない現実にレンは再び立ち向かうだろうか。
レンという個人を陛下と同列に扱い、最早どちらが優先と選べないリズは腕を伸ばし、ぎこちなくレンの頬を撫でた。
「リズ?」
「負けるなよ」
言うと、リズは力尽きた。閉じ行く最後の視界に、レンの困惑した顔が見えた。
先は見えないものの、しばらくは手の届く場所に居ると考えて、リズは安らかに眠りに落ちていった。
そして至福の夢を見る。
【終】
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