貴方に捧げる忠誠 ―― 月花草

保坂紫子

【第一話】




 リズは獅子族の王が囲う私設軍に籍を置く、軍人の中ではただ一人の狐族である。

 世界地図から見て西大陸のほぼ全土を治める獅子の国は最近まで大きな戦争をしていたが、王自ら指揮する私設の軍という特殊な組織に属していた為に軍人の肩書きを持ちながらリズが戦地へと駆り出されることはなかった。

 相手の国を滅ぼすという大いなる勝利を収め、大手を振って凱旋してくる仲間たちを尻目に物見台に悠然と立つ獅子王の側に控えていたリズの興味は、自然と城内の広場に運び込まれて積み上げられていく戦利品へと移って行った。

「リズ」

 獅子の王が振り向かないまま片腕を上げる。

「あれが、兎族の仔よ」

 まっすぐに示された先を目で追ったリズは息を呑んだ。リズだけではなく、興味本位で顔を出していた従者の多くが、戦利品を運ぶ長い列に混じったそれを見つけてはと大いに動揺していく。

「名をレン・ア・ネードと言う。余の賓客だ」

 ただ一人生け捕りにした兎族を眺め、王は歌うようにリズに告げた。




 覇王が治める獅子の国。

 その巨大な城の地下には地下後宮と呼ばれる特殊な施設が存在する。

 元は牢として使われたそれは地上の光など届きもせず、等間隔に灯された蝋燭の明かりだけが頼りというなんとも寂しく薄ら寒い場所であった。場を飾る花どころか取り巻く色彩は薄暗い闇ばかり。大声を出しても誰にも声が届かないという孤独に耐え切れず、精神に不調をきたし入所している賓客達が自殺騒ぎを起こすのは少なくなかった。

 太い鉄格子が嵌まる部屋のひとつひとつを丹念に観察して歩くリズは、憔悴にただ寝台の上で丸く横たわっている賓客達を、自害した方が確かに楽だろうなと眺めては思う。

 後宮と称されているものの、国中の美女が住まう地上の楽園こうきゅうとはあまりに環境が違っている。ここには花一輪とて咲き綻ぶことはないだろう。あるのは途切れ途切れと喘ぐような虫の吐息だけ。

 老若男女問わず地下後宮に集められるのは王の趣向に沿った者達だけだ。貴族から犯罪者、浮浪者や移民、横も縦も上も下も右も左も節操もなしに掻き集められた者達だけだ。時には金を積み、時には騙し、時には力ずくで奪い取った者達ばかりだ。

 そんな賓客と呼ばれる彼等の末路は定められた未来のように決まっていた。

「で、作業は進んでいるのか?」

 事務室の左側から数えて五つ目の個室の前でリズは足を止める。

 リズの問いかけに、今の今まで聞こえていた砂で鉄を擦る音がぴたりと止んだ。

 石の土台に深く埋められた太い格子に小石の混ざる砂を塗した布を巻きつけていたレンにリズは眉根を寄せる。

 疑問を投げかけられたことに驚いたレンは弾けるように顔を上げていた。リズを見仰ぐその顔は兎族の間で時折生まれる〝強弱の双仔〟の〝弱の仔〟特有のそれだが、今は残念ながら目一杯口一杯に驚愕びっくりの文字が占めており大変コミカルである。

 それでも。

 それでも、尚、美しかった。

 そんなおちゃめともお世辞にも言えない表情でさえ、美しかった。

 レンという容姿を言葉として評せば、華麗、となる。

 強弱の双仔。

 弱の仔の話を耳にしたことのあったリズではあるが、レンを一目見た時のその存在の希少さと存在しているが為の影響力、それ以上に生き抜くことの種族が成した手段を見せつけられて、迫力に声を失ったものだ。

 絹艶を帯びる白い髪も、その白絹に埋もれる長く垂れた同色の耳も、魅惑の輪郭を描く頬や顎、通った鼻梁、薄紅の唇に濃厚な紅を満たす瞳。存在そのもの全てが艶めいていて本当に自分と同じ人間かと、そもそも血の通った生き物かと目を疑った。

 それは強者に脅かされ続けた結果の果てに生き残る為に手に入れた極端な繁栄の形だった。決して崩れることのない術であり手段だからこそ、どんな状況や状態であってもその美貌は欠けやしない。

「あ、え、うそ、え、もうそんな時間?」

 それでも足りない語彙ながらこれだけ美しいという言葉を繰り返してさえ、彼は悲しいまでに慌てているらしい。布を持つ手が思考の混乱で完全に動きを止めている。

 そんな彼にリズは溜息を漏らした。

「物音や靴音で気づかなかったのか?」

 どれ程まで作業に熱中していたのか。見つかっただけで慌ててしまうのなら最初からやらなければいいものを。と、リズは脱力感に襲われる。

「着眼点はいいかもしれないが、そんなのは鑢の代わりにもならないぞ」

 盛大な溜息と共に言われたことでレンの表情が不機嫌のそれへと変わった。

「別に。そんなんじゃない」

 暗に無駄な努力と指摘されて、言い訳を見つけられなかったレンはきつく鉄棒に巻きつけた布を緩ませた。

 素直に従う様にリズは胸を撫で下ろした。

 突飛な行動に出られるのは規律と監視を行う立場としては構えずにはいられず気疲れする。

「そんなんじゃないけど、やっぱり逃げられるのは困る?」

 明らかに安堵したリズをレンは上目遣いで見仰ぐ。

 見上げてくるレンの赤い瞳に何かを探り出そうとする意思を認めて、リズは迷いなく頷いてみせた。

「仮にも陛下の客だからな」

 困ると即答する。

 レンが脱走を試みて、それを咎めるのはこれで三回目なのだが、彼の目は諦めの色は陰りすらしない。どんな考えを持っているのかありありとわかり、これ以上妙な気を起こされてもただ困るだけなのだ。

 逃げようと必死なレンに素直に答えたが、リズは自分の真意が彼に正しくは届かないだろうと諦めていた。

 リズは決して酷いことも手荒な扱いもしたくない。しかし、リズの脳裏には繰り返される抵抗と倍になって受ける行為に精も根も尽き果て疲れ切り、虫の息で横たわったまま日々を過ごす賓客達の姿が浮かんでは消えていく。

「客、ね」と、落胆の色を見せた声音でレンが呟いた。

「客、か」と、諦めの色を消した表情でレンは囁く。

 そんなレンを眺めて、リズは奥歯を噛み締めた。

 レンがこうやって挑発的なまでに元気なのは彼が賓客達の中で一番の新参者であるからだろう。彼はまだ王の機嫌を損ねたことがない。否、王の機嫌を左右する機会が訪れてないと述べたほうが正しいか。

 彼はまだ賓客という立場で王と接したことがない。だから、彼はまだ自分の立ち位置を知らない。知らないからリズに対してこういう表情ができる。

 レンは怒りを奥底に秘めた瞳で挑むように睨み怖いものなどまるで無いと言わんばかりに不敵に笑った。

 負けない、と、無言のままにリズに告げる。

 その態度は酷くリズを落胆させた。私設軍に長く籍を置いているリズにとっては、レンの言動は憐れみの心を誘うだけだった。

 過去に多くの者が解放を求めて挑戦してきた。そして、多くの者達は自分達に用意された未来に絶望していった。屈して敗北していった。目の前のレンが、この年相応の無邪気な少年が、例外なく同じ末路を辿るのだろうと想像するだけで同情を禁じえなかった。

 レンが自分の立場を理解できず現状を打破しようなどと考えて欲しくなかった。

 が、きっとこの想いは届かないだろう。

「逃げられないと、忠告を重ねることはあまり意味がないことを俺は知っている」

 リズの経験が語る。軍人というより、地下後宮に住まう賓客達の世話役としての彼の経験が、そう語る。

 何度も言葉を変えて伝えても、どう願っても嘆願が聞き届けられた試しがない。故にリズは〝定め〟と評する。各々個性のある人間だというのに皆同じ末路を辿るので〝運命〟と評した。

「だから余計に思う。せめて自分の置かれた立場くらい理解してもらいたいと」

 賓客が無言になった。

 過去の賓客達も無言になった。しかし、真意が届いたことは一度としてなかった。

 今回も同じだと思うとリズの顔から自然と表情が消える。

 レンは自分は捕虜だと考えている。先の戦争の戦利品の一つだと認識している。所有物という物であって人ではない。レンが理解できる彼の置かれた立場とは、つまりそういうことであり、リズの真意が伝わるような要素は何ひとつ含まれていない。

 地下後宮の闇にリズの表情は半ばも翳り、蝋燭の明かりに狐族特有の金の瞳は硬質な光を反射させてレンを見下ろしていることだろう。

 さながら絵に描いた冷たい軍人のように。

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