【第十二話】
話し声が聞こえると足音を忍ばせるのは最早癖だった。
獅子族の中で生活するとどうも悪い癖ばかり増えていくが、それを咎めてくれる存在が居ないのは単に肩書きのせいだろう。
悪癖を自覚しているリズなので、立聞きがどれほどの悪趣味か理解していが、両の足は扉の前で止まったまま動かない。
「どうしてもっていうなら止めはしないけどさ。でも、わかってんだろ?」
事務室では時間的に世話の手が空いたのだろう二人が、ふたりっきりなのを理由に空いた手を動かさず私語を交し合っているようだった。
閉まり切れず僅かに開いた扉の隙間から漏れ聞こえる会話には、しかし、一切と歓談の気配は無くシュリンの細い声が言葉を更に重ねていた。
「アルエだって陛下のお気に入りだもの、どうすることもできないじゃないか」
「だからって――」
「だからってそんなに反対したいの?」
シュリンが反論しようとしたアルエの言葉尻を奪った。その声の強さに室内はますますと緊張感に空気が張り詰められている。
「いい加減にしてくれよ。隊長に怒られてまだ懲りないの? 言っとくけど四人しか居なくても私設軍はやっぱり軍なんだよ。連帯責任ってものがあるんだ。甘く考えないでよ」
扉の隙間は狭すぎて位置的にも二人の姿は全く見えなかった。表情はわからなかったがどうやらシュリンがアルエに抑えきれない怒りがあるらしい。ただの喧嘩かと好きにやらせようかと考えが巡るリズだったが、『陛下』の単語にその場に足は縫われ耳は研ぎ澄まされていく。
シュリンが嘆息した。
「らしくないよ、アルエ。なんでそんなに急いでいるんだ? 僕の目から見てもアルエには砂糖よりも大甘な隊長ですら怒らなきゃならない状況を作って、自分を追い詰めて何しようっていうのさ。自分を持て余してんの? 目に見えて憐れだよ。アルエは馬鹿じゃないだろ。一体どうしたっていうんだよ」
最後は心配してしまうほど哀しく見えてしまうとシュリンの縋る様な声は、アルエにどう届きどう響いたのか知り得ないが長い沈黙の末、「なら、さ」と、アルエが口を開いた。
「陛下のお気に入りのシュリンならわかるだろ」
「何が?」
「陛下の、ご趣味、だよ」
シュリンが押し黙った。アルエが立ち位置を変えたらしく靴音が静かな室内響く。
「気に入らないんだ」
「アルエ」
「気に入らないんだよ」
感情を押さえ込むようにアルエの声の調子が一層と低くなった。
「あの兎族だよ。陛下の目に適っただけはあると思うけど、だから俺はとてもじゃないがあれが陛下の賓客だなんて認めたくないね。あれじゃリズがのめり込むのも時間の問題じゃないか」
「隊長を呼び捨てにするなって言ってるだろ。たとえ僕とふたりっきりだからでも。それに、陛下の賓客の担当っていう世話役を担うなら隊長は仕事をこなすだけだよ。のめり込むなんて言い方は失礼じゃないか?」
「たかが子供ひとり相手に連日一睡もせずに、か?」
「それは元々忙しいのにアルエが事を大きくしているせいだよ」
シュリンの冷静な突っ込みに今度はアルエが押し黙った。
「毎日の様にアルエが問題を起こして、隊長はそれを解決して更にその責任を取らされているんだよ。終いにはアルエの為に星花草まで。そりゃ眠たくても眠れないし、脱走の手引き者が身内に居る限り休めるものも休めないよ」
隊長もこんな奴締め出せばいいのにと、シュリンは不満を吐き出した。
「本ッ当に隊長はアルエに甘いよね。確かにね、隊長は隊長になってただでさえ私設軍本来の仕事以上に護衛やら雑務やらで忙殺されてるのに、その上で賓客の担当になりました。なんて部下である僕だって納得いかない部分はあるよ。バルシェだって良い顔してなかったしね。けどね、たぶんそれを隊長はこなせるんだよ。だから陛下には躊躇いも容赦もないんだ。陛下だって戯れで人間を潰そうってほど冷酷じゃないよ。そりゃ悪趣味はいつものことだけど、隊長だってわかってて承諾したはずなんだ。それなのにアルエが事を掻き乱して収集つかなくしているんだよ。ねぇ、ちゃんと自覚ある?」
詰め寄る声はアルエを責めている。シュリンはアルエが受けてきた月花草を用いた罰の内容を知っているし、同様の罰をリズが受けていることも知っている。語調がきつくなっていくのを止められないほど感情が昂ぶっているのはそういう理由が大半なんだろう。自分の相性が良い故の相性が悪いという事実の恐ろしさを誰よりも知っているが為だろう。
「本当にいい加減にしてくれよ。アルエの責任はアルエが取れば良いって言う問題じゃないんだよ。アルエは自分の嫉妬を理由にして隊長を殺したいのか?」
傍から聞けばなんとも聞こえの良い言葉だが、シュリンの私設軍入隊の動機を知っているリズは思わず自嘲を零す。
「俺が嫉妬してリズを殺す?」
「そう」
肯定を受けて、アルエが吐き出すように短く笑った。
「アルエ?」
笑いは決して大きくなく、隙間から響いたのは、ほんの数秒だった。
「嫉妬どころじゃないさ。それにリズを殺すのは俺じゃない」
アルエの声に嘆きが滲んだ。
「シュリンも陛下のお気に入りだから気づくと思ってたんだが、どうやら俺だけみたいだな」
アルエの確信篭った言葉にリズは無意識に自分の口を籠を持たない片手で覆った。脳裏にきつい紅色が鮮やかに甦る。
「あの兎は俺がそのまま担当してればよかったんだよ。陛下の気まぐれにはいつもむかついてたけど、やっぱり腹が立つ」
シュリンと同僚の名前を呼んでアルエが笑った。
絶望が混ざる自嘲に近い短い笑い声だった。
「俺は嫉妬なんてしないし、リズを殺すのは陛下だ」
俺だけしか気づけなかったとアルエは主張した。
リズの籠を下げる手に力がこもる。
「陛下しかリズを殺せない」
だから。
「だからリズは降りるべきだ」
リズは扉の取っ手に手をかけた。
「リズは兎の担当から降りるべきなんだ」
事務室の扉を開け放ったリズに、宣言するように断言したアルエは苦々しい表情を満面の笑みへと切り替えて上司に向かって振り返った。
その奥でシュリンは突如として乱入した人物に混乱を覚え状況に対応しきれず頬を強張らせている。
「隊長、お疲れ様です」
やや芝居がかった仕草でリズへと近づいてくるアルエからは前ほどの緊迫感は感じられない。貼り付けられた様なアルエの微笑みにリズはうっすらと目を細めた。
「アルエ」
「はい。なんでしょう?」
素直に聞き返す様は呼び捨てていた時のような傲慢さは無く、訓練された犬族のような従順さが滲み出ていて、盗み聞きしていた会話が夢のようだった。未だ硬直が解けないシュリンを横目で確認しなければ先の会話はむしろ無かったものとも思えたほどに。
「俺が居たことに気づいていたな」
「まさか。隊長が気配を消したら誰も気づくことなんてできませんよ」
言葉は否定を述べるが、増々と深くなった笑みは肯定を示している。
「の割には驚かないな」
「そんな。これでも驚いてますよ。けれど隊長が神出鬼没なのはいつものことですからね。居たら居たで不思議はありません」
アルエはしれっと語るが態度がリズの存在を知っていてると物語っている。ようやく硬直が解けたシュリンはシュリンで挑発的なアルエの言動に色を無くしていた。
リズは息を吸った。問題点にどう切り込むか一瞬考えが巡る。
「そうか。ところで、レンネードの担当を降りろとはどういう意味だ?」
基本的に駆け引きが苦手なリズは、手の内を見せないアルエに直球で聞くしかなかった。
あそこまで断言できる確信と、あそこまで断言できた根拠は、果たしてどこからきているのか。
その答えを得ることができれば、アルエが一連に起こす問題行動の理由が理解できるのかもしれない。アルエの処遇も含めた一切の責任を担うリズは、甘いと自分でもわかっていながら冷静な判断をと考えていた。
抑えた声音のリズに、幾分か落ち着いた表情をしているアルエは首を傾げた。
「そのままの意味ですよ」
青年はあどけなさの面影を残した精悍な顔で問いかけの視線をリズへと流した。
「隊長のことですからね。キスのひとつやふたつなんてもうお済みなんじゃないですか?」
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