【第十一話】
籠の中には二つの水筒が入っている。
大きい水筒にも小さい水筒にも水がなみなみと満たされている。
そのどちらを与えるかの選択権はリズが持っていた。
大きい水筒と小さい水筒と、そのどちらを乗せれば均衡を保つラウルの天秤は傾き始めるだろう。
「ところでさ、いつまでこうしてるの?」
素朴な疑問だと、軽い口調で投げかけられた問いに、洗い立ての着替えを小さな衣装箱に入れようとしたリズはその手を止めた。片膝立ちのまま腰を捻り、上半身だけをレンに向ける。
リズが担当している賓客は寝台の上に居た。最近は慣れたものなのか、動かない両足を投げ出し壁に背を向ける格好で、大人しいものだった。
相変わらず物怖じしない紅い瞳は威圧的だったが、不快感がなく、むしろ爽やかな印象さえ与えてくるもの。
兎族の特殊な双仔。
弱の仔故の特別な容姿。
双仔でありながら、世界に一つしかない、例外的希少な容貌。
「いつまでも」
リズはいつものように常に変わらない反応速度で即答した。
ラウルという人間に選ばれた賓客が、彼の人の手を逃れるなど断じてあるわけがない。
レンが体を前に伸ばす。
「レンネードッ」
突如として寝台から転げ落ちたレンにリズは手にしていた服を投げ出して寝台に駆け寄った。
解放を望むレンが、それが叶わないと知って良い顔をするわけでもなく、得られた回答に不満を露わにするのは当然のことだった。行動でそれを示されるのは予測の範疇であるはずなのに対応を怠ったのはリズの落ち度だろう。
助けと差し伸べた手を有無を言わさない速さで掴まれてリズが息を詰めた。
「いつまでッ」
驚くリズの耳をレンの声が打つ。
向けられる視線は射殺さんばかりの強い意思に紅く光り輝いていた。
「いつまでこうされているの?」
「いつ――」
「言葉を変える。俺はいつまで此処で待てばいい?」
先の問答を繰り返そうとしたリズの返答を予感してか、レンは切り口を変えて質問を繰り返した。
「いつまで、ここで、まてば、いい?」
強い言葉の問責。
強い声音の焦心。
「俺は確かに世間知れずかも知れない。世情にも疎い。けれど、獅子族の変態ぶりは知らないわけじゃない。敵国になりうるだろう相手国の王の噂を知らないわけじゃない。なにより、捕虜という立場がどういうものなのか理解できないわけじゃない!」
半ば叫びに近い荒声で畳み掛けられて、リズは呼吸を止める。
「いつまで待たされるのかな。いつまでほっとかれるのかな。獅子族が攻めて来て俺がここに居る理由は、知りたくも無いけど、たぶんそうなんだろ? なら、そうしてくれよ。好きなようにしろよ。逃げたくても逃げられないのに、くそ、生殺しにして楽しいのかよ」
殺すのなら、さっさと殺してくれ。そう、潔く言い放つレンは最後に吐き捨てるように怨嗟を繰り返す。
ここ数日間でレンの焦りは怒りへと転換したようだ。赤々と滾り燃え、鎮火の兆しすら忘れたかのような感情の燃え上がりに彼の瞳は最高温度を維持しながらも、リズの手を掴むレンの手はしかし、とても冷たかった。
興奮しているのとは違うのか、呼吸も静かだった。
レンはとても静かだった。
静かであり、リズを見上げるレンの瞳には怒りの輝きを放っている。それは責めるのとは全く趣の違う威迫の色であった。
微かにリズは戸惑いを覚えた。見下ろすレンの顔に面影が重なって見えて、リズは口内に苦味として溜まる感情を飲み下すように喉を上下に動かした。
動揺で動けなくなった狐に、捕虜には答えられないのかと勝手に解釈したレンは自棄気味に掴んでいたリズの手を乱暴に振り払った。
「戻して」
命令を下すレンの声に感情は無かった。
下された命令にリズの体が動いた。ただ、思考がぐらつき茫然自失にリズが陥っていた為、その動きは酷くぎこちない。
「あんたさ」
背と両膝の下に腕を差し込むリズをレンは見上げた。
「俺のことなんだと思っているの? あ、いや、あんたの言葉を使えば『賓客』なんだろうけど、そんな意味じゃなくて、なんだろうな、なんていうんだろうこの感覚」
寝台に下ろされながら話すレンは、リズを見上げつつも目の焦点は横にずれている。言葉を選んでいるのだろうか、まごついた時間が生まれた。
リズの沈黙を催促と取ったのかレンは慌てたように素早く首を左右に振った。
「いいや。わっかんないから、いいや。ごめん。忘れて」
結局思考から疑問を振り落としたようだった。
言葉にリズは頷いた。
「わかった。そうしよう」
頷きつつもリズはレンに自分の動揺を悟らせまいと必死だった。
レンの眼差しが、顔が、姿が、幻影と重なって見えて、二重の現実にリズは眩暈を覚えて惑う。
腕に抱くそれは違うのだと、自分を宥めるのに全神経を使っていた。ただ、眼差しを向けられているのだと思えば思うほど、呼吸することすら忘れそうになり首を絞められたかのように息苦しくなっていった。酸欠で喘ぎそうになるリズは途切れかける意識を引き止めようと奥歯を噛み締めた。
ここ一週間の激務で己の体がどれだけ追い詰められているのか、実際の所リズは把握できていなかった。眼差し一つで幻影が重なるという現状に抗えず流されて、己に圧し掛かっている負荷よりも、歓喜を覚えてしまい、出口を求めて吹き上がってくる感情の勢いを止められない。
レンを寝台に乗せ直したリズは掛け布を手に取った。ただそれだけの動きをするだけで腕すら震えだしそうだった。
悟られまいと焦ったのがいけなかったのか、レンの視線に訝しみの色が混じった。
ほどよく素直な反応を見せるレンにリズは動揺してしまい目を閉じる。
レンはリズにとって『陛下の賓客』という価値ある存在だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そもそも他に対象を置いて比較できるようなものではない。
『陛下の賓客』とは即ち、リズの『賓客』でもあるのだから。
リズはレンの疑問に対して明確な答えを持っている。持っていながら、『賓客』という絶対価値に抱く感情と、あくまでも『陛下の賓客』という彼らの立場を慮る理性とで、それをレンに打ち明ける気は無い。
自分の立ち位置を本能的に悟りつつあるレンに答えを提示してしまったら、という懸念もあった。答えを聞いて逃げ出されても困るのだ。ただでさえレンは脱走しようと機会を伺っている。
籠の中には二つの水筒が入っている。
水がたっぷりと満たされた大小の水筒。
そのどちらを与えるかの選択権はリズが持っていた。
大きい水筒と小さい水筒と、そのどちらを天秤の皿に乗せればリズは陛下の望みに適う行動ができるのだろう。
目を開けたリズは不審がるレンに注意しつつ立ち上がり、籠から大小の水筒の内の小さい方を取り出した。
「リズ?」
レンの表情が歪んだが、リズは気にせず蓋を開けた水筒から水を木杯に注ぎいれた。
「飲むの?」
豊かな水の香りが辺りに漂い、レンはますます顔を曇らせる。
「ただの水だ」
自分で言ってても胡散臭くてなんの説得力もなかった。
「じゃぁ、そっちのは?」
「それもただの水だ」
「なら一個だけでいいじゃない。そもそもリズが持ってきた水がただの水だったことなんて一度もないじゃないか」
ごもっとも。
飲み水は巡回のついでに水差しごとに入れ替えられる。レンが揶揄するのはリズが持参してくる水のことだ。
それでも口では言うものの毎度のことであり生死に関わらないからと理解を示し、レンの警戒はそこで解かれた。
天を仰ぐように煽って、一息で水を飲み干したレンは、木杯をリズに突き出した。
まっすぐと向けられたレンの瞳は先程と同じまま紅色に滾り揺らめいている。陽光に熱された大地から陽炎が立ち昇るように己の瞳にリズの姿を映し揺らめいていた。
「リズ。俺はいつまで待て……ば……」
言い終わらずに倒れこんできたレンをリズは受け止める。理想を思い描き元々細かったレンの体はここ数日の食事制限で更に軽さを増していた。肉が薄くなり骨格が際立ち、抱き心地はしっかりと男性的である。
レンに対して全ての選択権を与えられていたリズは賓客の仕上がり具合に僅かばかり両目を細める。
それなりに弄っていたつもりだったが、兎族としてこれが外見の完全体なのだろう。変わったのは抱き心地だけで、生存の為に約束された美貌は欠ける事もまた増す事もなく、リズの腕の中で瞳を閉じていた。
紅の瞳は最後まで、リズを圧していた。
リズの目にはレンの姿に重なる面影という名の幻影が消えずに残っている。
脳裏にバルシェの「寝ろよ」という声が蘇るので、リズは音も無く笑った。
実際のところ、バルシェの警告などリズは理解などしていなかった。今この時点でリズは理性と本能の境界線を失っていたに等しかった。そのことすら、自覚がない。
これが常の自分なのか頭のネジが緩んでいるのか本人すら判断がつかなかった。
つくづくとラウルの趣味の良さにリズは自嘲の笑みを零さずにはいられない。
呼ぶべき名前は知らないが、溢れんばかりに感情が胸底から湧き上がってくるこの激情には覚えがあった。口にする言葉も勇気もないが、この興奮にも覚えがあった。
体中が震えているのが、わかる。
気づいた時にはレンの唇に自分の唇を重ねていた。
口の中が焼けるように乾いていくのに気づき、リズは目を閉じる。
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