兎との出会い
那津は子どもの頃から自分は長く生きられないと気付いていた。十八になる今日まで都会の大きな病院で入院、その入院生活が終わっても人里離れた山奥で療養生活。
その繰り返しばかりで、学校にもあまり通えなかった。
だから最後まで自分の人生はあまり自由がなかったように思う。
それでも病と向き合いながら寿命まで明るく生きたことは、那津にとって短い人生の誇りだった。けれど病人として真面目で優等生だった那津も、一度くらいは周りに我儘を言ってみようと考えた。
つらくても泣かずに頑張った自分へ、最後にご褒美をあげたい。
那津が両親に願った我儘は「一人旅」だった。
最初は病気の体で無謀だと、医者も含めて誰も許してくれなかった。でも那津があまりにも必死に頼むので、両親も根負けし最終的には許してくれた。
那津が向かった場所は、子どもの頃、療養の為に暮らしていた空気の澄んだ田舎の山奥だった。
「――思ったより、遠かったなぁ」
最後の旅行に来ているのだから、温泉や観光スポットを巡ればいいのに、那津はそんな場所には目もくれず、ある場所を目指していた。
今、那津は登山をしている。
両親もまさか余命を宣告された息子が山道を歩いているなんて、想像もしていないだろう。
ここへくると知っていたら、一人旅など許してくれなかったはずだ。
秋の登山シーズンには少し早く、山を登っているときに誰かにすれ違うこともない。
山の麓にある村は療養に向いていたが、住んでいるのは、お年寄りばかりで同じ年頃の子どもは一人もいなかった。だから那津にとっては、里山も病院と変わらず、とてもつまらない場所だった。
――ミツキに出会うまでは。
那津はミツキに会うために神社を目指していた。痩せぎすで思うように動かないポンコツの体で、なんとか山頂にたどり着いた那津は、はやる気持ちを抑えて鳥居をくぐった。
昔は初老の神主が時々山に登って管理していた。
ナツは一周してみたが朽ち果てた神社に人のいる気配はない。それどころか社務所の奥の障子は外れ、奥のガラス戸は割れている。社のあちこちには蜘蛛の巣がかかり埃だらけだった。長い間、誰にも手入れされていないようだった。
那津は、拝殿の前に立って。鈴を鳴らしてみた。
「ミツキ、聞こえる? あのね、ミツキの結んでくれた糸のお陰で、明るく楽しく今日まで生きることができました」
那津の感謝の言葉が彼に届く確証などない。そもそもミツキが、この社に祀られている神様かどうかも那津は知らなかった。
那津が知っているのは「ミツキ」という名前だけ。
那津はミツキにお礼を言うためこの場所へ来た。ここへ来れば、神様のミツキにもう一度会えるかもしれないと期待していた。
けれど山の社には、神様の気配どころか人の気配すらない。
「痛くても苦しくても、楽しく生きられたのは、ミツキの結んでくれた糸のお陰だよ」
自分が死ぬ未来は決まっている。だから、その未来が変えられないのなら、せめて死んだ後の世界に希望が欲しかった。
那津は子どもの頃に聞いた神様の国の話を、もう一度ミツキか聴きたかった。
「ねぇ、ミツキ。私は、死んだら神様の国に行けるだろうか。やっぱり人間だから無理だろうか」
那津がそう問いかけると、強い風が吹き抜けた。突風は那津の色素の薄い赤茶の髪を容赦なく掻き乱した。
その風は、神様の国へ行きたいと願う分不相応な那津を叱責しているかのようだった。
結局、ミツキとの再会は叶わなかったが、社でお礼を伝える目的は達成できた。
思い出の場所に後ろ髪を引かれたが、拝殿の前で頭を深々と下げ、那津は山頂の神社を後にした。
下山途中、日暮れまでまだ十分に時間があったので、少し休憩しようと思った。
あまり無理をして歩くと宿まで体力が持たない。元々無理のできる体ではなかった。那津は、ちょうどいい大きさの岩を見つけて座ると、リュックから水筒を出しお茶を飲む。
「ほんと、誰ともすれ違わないなぁ、多分いまここで倒れたら秋まで誰にも発見されない」
余命数ヶ月で山登り。人様に迷惑をかけないためにも、体調に気をつけて家まで帰らなければいけなかった。
「家に帰るまでが遠足です、と」
ひとりごちて晴れ渡った雲ひとつない青い空を眺めていた。
すると急に草むらがガサガサと音を立て始める。山なのだからキツネやタヌキくらい出てくるかもしれない。那津は、そう思って草むらへ目をこらしていると、白いもこもこした塊が自分の方へ飛び出してきた。
「え、兎」
動物と触れ合ったことがなかったが、なんだか無性にそのふわふわで柔らかそうな兎に触ってみたくなる。
「わーおいでおいで、兎さん」
十八歳にもなったのに動物に話しかけるなんて、見た目もさることながら幼いなぁと感じた。身長は百六十と少ししかないし、垂れ目で童顔。この日のために用意した。登山用のシャツやベストも、なんだか服に着られているようで浮いていた。
その格好や行動は、とても十八の青年には見えない。
ただ幸いここには那津と兎だけなので、ナツを奇異に思う人がいない。そもそも呼んだところで餌もないし逃げられるだろう。
けれど予想に反して、兎は逃げずに那津が座っている岩の側まで跳ねてやってきた。
「おやおや、今の時期に珍しいですね。人間のお兄さん。まだ紅葉前ですよ」
白いふわふわの塊は、唐突に首を傾げて那津に話しかけてきた。
痛み止めに強い薬を使っているし、幻覚の一つや二つ見たところで、おかしくないだろう。那津は不思議な状況を簡単に順応していた。
(まぁ、喋る兎にだって出会うよね。もう少ししたら死ぬんだし)
子どもの頃に神様に出会ったのだから、喋る兎に出会うこともあるだろう。そうやって自分を納得させると那津は兎に向かって話を続けた。
「こんにちは、兎さん。ちょっと会いたい人がいて、この先の神社まで来たんです。兎さんはお散歩ですか?」
那津は、にこりと笑みを浮かべながら話しかけた。兎は、まさか自分の言葉が人間に通じるとは思っていなかったのか、逆に驚いて後ずさりをする。
「いや、驚いてくださいよ! 兎が喋ってるんですよ! 兎が! ってなんで話せるんですかっ! 貴方は」
「え? 私、ちゃんと、驚いてますよ? まぁ、そうですね。もう死期が近いから、兎さんとだって話せてもおかしくない気がして」
「死期が近い?」
「そう。私、もうすぐ病気で死んじゃうんです。今日はこの山へ最後の旅行に来ました」
那津は、そう言いながら兎に手を伸ばして頭を撫でた。柔らかそうな見た目の期待を裏切ることなくふわふわで、とても手触りがいい。
「お、お兄さん。も、もっと撫でてもいいですよ。なんでも兎は現世で癒し系らしいですからね!」
「あ、心配してくれているんですか? ありがとう。けど、私、死ぬことを悲しんで山に来たわけじゃないんです」
「そうなんです? てっきり傷心旅行かと思っちゃいましたよ」
「私、死ぬと言われて落ち込むほど病人歴は短くないんですよ。ここまでくるともう病人のプロですから」
全く自慢にもならないことをけろりと言っていた。
「どうりで。お若いのにお爺さんみたいに達観したお兄さんですね。それに、とても明るいし」
「病院の先生にも、よく言われるよ。お爺さんみたいって」
那津は兎に勧められるままに、ふわふわの毛並みを堪能していた。
「私、実は兎さわるの初めてなんです。あったかくて……それにもふもふしてる。ねぇ、やっぱり、兎ってさみしいと死んじゃうの?」
「死にませんよ。それに私は兎の姿をしていますが、神使ですから」
兎はドヤ顔して胸をはった。実際、顔自体は無表情なので、那津からそういう顔に見えたに過ぎないが、なんだか面白い兎だなぁと思った。
「シンシ?」
「神様のお使いなんですよ」
「神様のお使い……。あ、だったら、知ってるかな? 昔この山の神社に、ミツキって神様がいたんだけど」
「おや。ミツキ様をご存知なのですか?」
兎は、不思議そうな顔をする。
「うん。昔会ったことがあるんだ。すごく、綺麗な黒いを翼を持った小さい神様で」
「小さい……小さい? 私からしたら、皆さんとても大きいので、ミツキ様が小さいかどうかはわかりませんが。実は私、あの方の神使なんですよ」
「え! ミツキの?」
那津は驚き、撫でていた兎を抱き上げ、膝の上に乗せた。
「はい。ミツキ様のお仕事で今現世に来ているんです」
「そっか。ミツキは、神様の国で元気にしているんだね」
荒れ果てた神社を見て少しだけ心配していたが、ちゃんと天界に帰って元気に暮らしているのなら良かったと那津は安心した。
「昔ミツキ様とここで会ったのでしたら下界で修行中だったのでしょう。その先にある神社はミツキ様と縁のある場所なので」
「ミツキは、何の神様なの?」
「うーん。簡単に言えば導きの神様? ですかね」
導きの神様が一体どういった仕事をするのか、那津にはよくわからなかった。例えば、勝負事などに勝てたりするのだろうかとぼんやりと考える。
「あ、じゃあ、もう一つだけ兎さん。もし、もしも私が死んだとしたら、ミツキに会えたりするのかな」
那津は、ここへ来るときにずっと頭の中でそのことを考えていた。子どもの時にミツキが言っていた、いつか会えるという話は、もしかしたら那津が死んだ後のことだったのかもしれない、と。
それなら困った顔をしたミツキの表情にも納得がいく。
「死者の国で、ですか? うーん、どうでしょう。亡者は裁判が終われば巡り巡って最後には生まれ変わりますし、その道程で会えるかと言われると」
兎は那津の質問について何か難しいことを考えているようだった。
「私、さっき神社へ行って、そこへ行けばまたミツキに会えるかもしれないと思ったんだけど。叶わなかったから」
残念そうに肩を落とす那津を兎は気の毒そうな目で見つめる。
「ミツキ様とお知り合いだったんですね」
「うん、子どもの頃に出会った大切な友達なんだ」
「そうですね、神様に会える可能性はあるには、あるんです」
那津は驚いた声を上げ兎の目を覗き込む。
「どんな方法なの? 教えて兎さん」
「えーっとですね。死者の国で、最初の裁判の時に、ここで働きたいと、裁判官に願うことです」
「働きたい?」
「はい。死出の旅路が終わった後、最初の裁判があります。その時、死者の国で働きたいと言うんです」
「へぇ、死んだあとに働けるんだ。それはいいね。私、働いたことがないから。アルバイトとかずっと憧れてたなぁ」
「面白いことをいうのですね。死んで働きたいなんて。そんなのは嫌とおっしゃられると思ってたので……ちょっと驚きました」
兎は、そもそも那津が、この提案を受け入れないだろうと想像していたらしい。
「ほら私、病気ばっかりで学校もまともに通えていないし、結局働くこともできなかったから」
「なるほど。それでですね、死者の国は、神様の国と隣同士で繋がっています。お兄さんは、ミツキ様とこの世界で出会っているので、おそらく何かしらの縁が結ばれているはず。糸で引かれ合えば、死者の国で過ごしている間に運が良ければ出会えるかもしれません」
「糸で、引かれあう?」
兎に糸と言われた時、那津は、あの日ミツキが小指に糸を結んだときの言葉を思い出した。
――いつか、遠い未来に那津が神様の国に来たとき、迷わず俺の前に来られますように。それから……現世で那津が明るく楽しく元気に暮らせますように。
「人間が神様に祈ると、縁が繋がるっていいますよね。それと同じことです。もちろん運が良ければですが。けれど、あまり長い間、死者の国にいると、輪廻の鎖から外れてしまうので、決して長居をしてはいけませんよ。死者の国の住人になってしまいますから、四十九日経てば出ていかなければいけません」
「え、住人になっちゃいけないの?」
「えーっと、ダメではないですが、長い間いれば、生まれ変わりの機会がなくなってしまいます。まぁ、ずっとそこに居たいなんて願う人はよっぽど、人の世で嫌なことがあったとか、神様になりたいとか……訳ありな人ばかりですね」
「え、死者の国で働けば神様になれるの人間が?」
「神様になるための修行も必要ですよ。よっぽど現世で徳を積んでいれば、簡単ですが、それでも人間からみれば、気の遠くなるような時間がかかります」
「修行なんて、なんだか漫画みたい」
いつも病院にたくさんあった少年漫画が頭に浮かんだ。
「ミツキ様も修行して神様になられたんですよ。まぁ、少し寄り道しているんですが」
「寄り道?」
「あぁ! 今のは聞かなかったことにしてください! 誰かの耳に入ったら私が怒られてしまいます」
「うん、分かった。死ぬ前に色々教えてくれてありがとう」
お礼を言って笑った那津を見た兎は、どこか戸惑っているようだった。
「あの、けど、お兄さんは、死んだ後、早く生まれ変わりたくないのですか?」
「うーん。私はね、この世界で自分なりに明るく楽しく一生懸命生きて、心残りがないように病気と戦ったつもり。それでも、この自由にならない体を捨てられるなら、どんなに幸せなことだろうって、いつも思ってた。これっておかしいかな?」
「そう、ですか」
兎は那津の膝から飛んで地面へ降りる。
「話してしまった手前、老婆心ながら。死者の住人になることは、よくよく考えた方がいいです」
「うん、そうだね。ちゃんと考えてみる」
那津がそう返事した時、兎は耳をピクリと一度動かした。
「あ、そうだ、そうだ。待ってください。忘れてた。人間の亡者には、もう一つ会いたい者に出会う方法がありました。ミツキ様と一目会うだけでいいのなら、死出の旅で、最初の山を越えるとき、会いたい者のことを強く願って歩くんです」
死後、一人だけ会いたい人にもう一度会わせてくれるのだと兎は教えてくれた。
「あの方は夜、山にいることが多いのです。運が良ければ会えるかもしれません。でも、もし会えたとしても、ちゃんと元の死者の旅に戻らないといけませんよ。最初の裁判がありますから。遅刻はいけません」
「本当に色々、ありがとう兎さん」
「兎さんではありません。私の名前、宇多(ウタ)といいます」
兎の耳をピコピコと動かして、宇多はぺこりと頭を下げた。
「ご丁寧に、どうも。私は那津といいます」
「それでは、那津さんが苦しまないで、こちらの世界にこられるように祈ってます」
「ありがとう、ミツキによろしく伝えてって言ってはいけないのかな」
「えぇ、すみません。お使いの途中なので、ここで油売っていることがバレたらミツキ様に叱られてしまいますから、秘密です」
そういって宇多は、再び草むらの方へ入って姿が見えなくなった。
宇多とした会話は、那津をなんだか不思議な気持ちにさせた。死ぬことをこんな風に肯定的に誰かと話したことが今までなかった。医者も可哀想な子という目で那津をみる。
両親は、いつだって那津に隠れて泣いていた。母親からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ子どもが自分より先に死ぬだなんて不幸なことだろう。もちろんそのことは申し訳なく思っていた。
それでも、どうしようもない結末を嘆くより残された時間を一生懸命に生きたかった。
物心つく頃から、那津は泣いたことがない。悲しいとか、寂しいといった気持ちは確かに心の中にあるのに、不思議と、その感情はいつだって外に出てこない。
「ねぇ、ミツキ。私はやっぱり、もう一度会いたいよ」
那津は、その思いを胸にして山を下りた。
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