約束

 * *


「そばに……ぃ、たい、ミツキ……私は」

 意識が薄れて、那津の指から力が抜ける。ミツキはその手を握り返していた。


 もう聞こえないと分かっていたから、決して伝えられない言葉をこぼした。

「俺もだよ、那津。好きになって……ごめんな」

 ずっと、一緒にいられるために、神様である自分が那津にできる最善をミツキは、その晩ずっと、考え続けていた。


 目が覚めると、窓の外の提灯が赤く灯っていた。この世界へきてからは、山の一軒家に一人暮らしだったので、那津は、こんなにも明るく賑やかな夜は初めてだった。

 ただ、それと対比するように部屋の中は、静かさが際立っている。

 外にいるのは、亡者ばかりだ。

 地獄の裁判を受けるまでの、ほんの束の間の幸せな時間を過ごしている。


(……私も、死者の国へ来た日、ここにいたはずなんだよね)

 きっと、今が那津にとっての幸せな時間だと思った。考えてみれば、他の亡者よりも、長くその幸せな時間をもらっている。

 死者の国で一番にミツキに会えた。現世ではできなかった仕事が出来た。

 それらは、那津にとって意味のある時間だったと今でも思っている。後悔もない。

 ――神様がくれた贈り物だ。

 自分は、もう十分すぎるものを、この世界から受け取っていると思った。これ以上望めば、きっと罰が当たるだろう。


「目、覚めたのか」

 那津が布団から体を起こすと、ミツキは、自分と同じように窓の外をみていた。

「うん。ミツキ……帰らなくていいの?」

「お前を、置いて帰るわけにはいかない」

 多分ここは、鹿島がいうところの綺麗なお姉さんがいるお店の部屋なのだろう。ミツキが店主に何を言って部屋を使わせてもらったのか分からないし、確かに一人置いていかれると困る。

「そっか、ありがとう」

 けれど那津は、なかなか次の言葉をいうことができない。

 喉元まで上がってきている別れの言葉が、どうしても、まだ口に出せなかった。先に話を切り出したのは、ミツキだった。

「……酷いことして悪かった。体、つらくないか?」

「ううん。大丈夫」

 それなら、良かったと、ミツキは小さく息を吐いた。その様子から自分が目を覚ますまで、ずっと心配してくれていたのだと分かった。

「本当は、那津に謝りたくて、三途の川に行ったんだ」

「謝る? 何を」

「昼間、お前に酷いこと言っただろう。仕事の邪魔だって。俺の仕事とお前がここにいることはなんの関係もないのに、頭に血が上ってて、本当に悪かったと思ってる」

「……ミツキ」

 那津は、そっとミツキの手に自分の手を重ねた。

「あのね、謝らなきゃいけないのは、私だから」

 那津は決心をした。もう迷いはなかった。それでも、ミツキの顔を見たら、その決心が鈍る気がして下を向いたままだった。

「なんで那津が謝る?」

 静かな声でミツキはそう返す。そして、下を向いたままの那津の頭に手を置いた。

「あのね、ごめん、ミツキ怒ると思うけど、泰広王に……昔のこと聞いて」

「ッ……」

 ミツキは、言葉を詰まらせた。

「本当にごめん、ミツキは、私に秘密にしてたのに」

 那津は謝罪を繰り返した。謝っても、もう知ってしまったので記憶は消えないし、自分にはどうすることも出来ない。

「那津、いいんだ。遅かれ早かれ、どこかで耳に入る話だ」

「本当に……ごめんなさい」

 ここへきて再び会えたとき、ミツキは那津の姿を見て「どうして」と涙を流していた。そのときは、泣き上戸で、ただ酒に酔っているのだと思っていた。

 けれど、ミツキは、ずっと。那津が、寿命で死ぬまでずっと、見守ってくれていた。幸せであるようにと。

「……別に怒ってない。全部、俺が勝手に、やったことだ」

「本当はね、さっきまで、なんでとか、どうしてとか、私のためにそこまでする必要がないとか、私のせいでミツキの修行の邪魔をしてしまったとか思ってた」

 どうすれば、ミツキに償えるのか、そればかり考えていた。

 けれど、自分の命にミツキが願うほどの価値がないと考えることは、ミツキの行いを軽んじるのと同じだと分かった。

 那津は、ミツキの願いが無駄だったなんて少しも思わない。

 那津はミツキと出会って幸せだったから。

「那津、お前は何も悪くないよ」

 ミツキは那津を抱きしめた。

「ミツキ、さっき泰広王にね、神として道を外れたミツキのこと、卑怯なことをした悪い神様だって思うかって聞かれて、私はね、思えなかった。もちろん、ミツキがしようとしたことに関して、ありがとうなんて言いたくないよ。でも、悪いことをしたのはミツキが十分分かってる、だから」

 那津は、ミツキの肩に手を置くと、そっと体を離してミツキと視線を交わす。ミツキの瞳は戸惑いと不安に揺れていた。

「ミツキ、私はね。幸せだよ」

「那津、俺は何も、出来なかったんだ」

 那津は首を横に振った。那津の幸せを誰よりも願い続けたミツキの思いが届かないはずがない。

 それを証明できるのは自分だけだと那津は思った。

 自分がどれほど、ミツキに幸せをもらったのか、自分が一番知っている。

「ミツキと出会わなければ、きっと、こんな気持ちになれなかった」

「……那津」

「それでね……だから、今度は、私がミツキの幸せを叶えたいと思った」

 那津は、そう言って笑った。ミツキが自分に幸せを願ってくれた。

 那津が次の命を紡ぐことが、ミツキの考える幸せなのだとしたら、それを叶えることができるのは……自分だけだと思った。

 寂しくて、苦しくて、胸は痛むけれど、それが那津の出した答えだった。

「明日、続きの裁判を受けます」

「……そうか」

「次は、私、今よりもっと、幸せになれるよね、ミツキ」

「そんなの、当たり前、だろ」

「……そっか、ミツキが言うんだから、絶対だ」

 自分でも上手に笑えているか分からない。けれど、これが今の自分にできる精一杯のミツキにできる恩返しだと思った。

「それでね、あと、一つだけ、最後にお願い聞いてもらってもいいかな」

「なんだ?」

「私との約束、覚えてる? 神様の国、綺麗だって、いつか見せてくれるって、言ってたでしょう」

「あぁ」

 お互いに忘れることのない。

 幸せな、あの日の記憶。

「連れてってくれる?」

「……すまない、許可がないと、お前は、神様の国には入れないんだよ」

「大丈夫。泰広王に、許可証もらったから」

 着物の袖に入れていた木札をミツキに見せた。

「どうして、それを」

「泰広王が、ミツキに言いたいことがあるなら、言ってこいっていわれて。でも、ほら、言いたいことは、今言っちゃったし、あと心残りはそれくらいだから」

「……分かった。今から、行くのか?」

「ううん。朝になったら」

「分かった」

「だから、ね。それまで、ミツキの手、握っててもいい?」

 那津のその言葉に、ミツキは頷き、そっと手を握り返した。


 青い夜明けの光部屋の中を照らす頃。

 那津は、ミツキと手を繋ぎ宿の外へ出た。赤い遊郭の灯は、いつの間にか全て消えていた。そんな静かな街の中を二人で歩く。

 外は自分たち以外、誰もいなかった。


「ミツキの住んでいる山って、ここから遠いかな?」

 よくよく考えれば、ミツキの住んでいる山の場所を那津は知らなかった。話しながら大門の下をくぐり外に出ると、ミツキはおもむろに那津の手を引いて胸に抱く。

「ミツキ?」

 ミツキの背で黒い翼が開き一度、バサリと大きな音を立てた。

「歩けば遠い。けど、歩いて帰ったことは、俺もない」

「じゃあ、どうやって?」

「飛んでいく」

「えっ、うそ、待って!」

「待たない」

 急に体が宙に浮き上がる感覚に、那津は驚き一生懸命ミツキに抱き付いた。あっというまに、地面が遠くなり、いつも自分が仕事をしている三途の川や、住んでいる山から離れていく。

「怖いか?」

 体が密着しているのでミツキの声が直接自分の体に響いているみたいに感じた。その声に次第に落ち着きを取り戻していく。

「え、と。少し、空を飛ぶなんて……私、初めてだし、いや、人間は普通飛んだり出来ないんだけどね」

「そうだったな」

 まだ明るくない空を飛んでいると、なんだか海の中を泳いでいるような心地だった。実際は泳いだこともないのだけれど。

「空は……現世も、ここも変わらないな。朝も昼も夜もある。だから、ずっと那津に繋がっていると思ってみてた」

 一面の青い世界。けれど、ゆっくりと白んで色が変わっていく。

「うん。私も、空、見てたよ。いつも」

 小指をかざしていつも、空を見ていた。

 いつか、ミツキにもう一度会えると信じていた。

 そして、出会えた。こんな奇跡もあるんだと思った。だから、もう何も望まない。

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