許されない存在

 那津は一人で川の水面をぼんやりと見つめていた。

 今日、渡河予定だった亡者たちは、裁判所へ向かったため辺りは静かだった。聞こえるのは流れる小さな水音ばかり。

 定期船を出すまでは、まだ時間があった。


「――ねぇ、お兄ちゃん、だぁれ?」

 唐突に後ろから声をかけられた那津は、びっくりして振り返った。

 目の前には小さな女の子が立っていた。亡者たちのような白い着物ではない。下界でよく見たようなキャラクターのトレーナーと紺色のスカート。どこか不安そうな顔をしていた。

「私は、ここでお仕事をしてる那津と言います」

「なつさん?」

「はい。迷子かな?」

 女の子はきょろきょろと周りを見渡し、誰かを探しているようだった。

「うん。あのね、きづいたらここにいたの。さっきまでね、パパとママとあと、ともだちとね、遊んでてね」

「……そっか」

 那津は、事故にあって亡くなったのだろうかと思った。

 那津の場合は、自分が死ぬことを理解していたから、死者の国へ来ても少しも戸惑うことはなかった。

(どうしよう。一人で置いていくなんて出来ないし、連れて行くとしたら裁判所かな)

 裁判所へ行って戻るくらいの休憩時間は残っていた。

 幸い、裁判所へは一度行ったことがあるので、道のりは知っている。那津は女の子を連れて行くことを決めた。

 ミツキも同じように、那津を裁判所へ連れていってくれたから。

 だから、自分の行いは、何も問題がないと思った。

「ね、お名前は?」

「……りか」

「りかちゃんか。じゃあ、お兄ちゃんが、パパとママのところに連れていってあげる」

 那津はそういったけれど、もし女の子が死んでしまっているのだとしたら、もう両親に会うことは叶わないかもしれない。

 それは、とても悲しいことだ。けれど真実を伝えるのは那津の仕事ではない。

 先日ミツキに諭されて理解した。

 自分は自分の思う通りの道を進む。けれど、他の子たちの命の使い方は誰も口を出してはいけない。

(それに、自分は、亡者なのだから。ミツキのようにこの子を導くことはできない)

「じゃあ、行こっか」

「うん!」

 不安そうだった女の子は、大きな声で返事を返す。那津は、その明るい声に安心して女の子に手を伸ばそうとした。

 その時だった。突然目の前で突風が巻き起こる。

 那津は思わず目を閉じた。

「那津さん、ダメですよ! その子に触っては! 離れて!」

「えっ、宇多さん?」

 宇多の声が頭上から聞こえた次の瞬間、女の子は宇多に手を引かれ、那津はその場に尻餅をついて倒れた。

「ま、間に合った! 良かった」

 宇多は心の底から安心したような声を出す。目には涙まで浮かべていた。

「宇多! 気づくのが遅い!」

「それは、ミツキ様も同じでしょう」

 突然巻き起こった強風に驚いたのか、近くの小屋の中にいた三島と鹿島が慌てて外に出てくる。

「迷い子……」

 鹿島は、宇多が抱えている女の子と那津を見て眉を顰めそうこぼした。

(迷い子?)

 那津は、周りが見せる焦りと戸惑いの表情の理由が分からなかった。また何かやってしまうところだったのかと恐ろしくなる。

 指先は小刻みに震え、倒れたままの姿勢で動けなかった。

 次の瞬間、河原にミツキの怒声が響いた。

「鹿島! お前も雇用主なら、ちゃんと教えておけ! もし、那津がこの子に触れていたら戻れなくなっていただろう! 何度、俺の仕事の邪魔をすれば……」

「まぁまぁ、ミツキ様、大事に至らなかったのですから、いいじゃないですか、ね」

 激昂するミツキを宇多が宥める。宇多は、少女を抱き上げてその場から立ち上がると、安心させるようにふわりと笑みを浮かべる。

「怖かったですねー。大丈夫ですよ? この黒いお兄ちゃんは、怖いけど、本当は優しいですから。ちょーっと機嫌が悪いだけで」

「ほんと? ねーお兄ちゃんの白いうさぎのお耳ほんもの? すごーい」

 女の子は、宇多の頭の上に手を伸ばして耳を触ろうとする。

「そうですよー、いいでしょ。ほらぁ、ミツキ様、笑って笑って? なんのために河原で子どもと戯れる修行してると思ってるんですか、ほら、にこーって」

「……笑えるか、楽しいこともないのに、つか、別にあれは、子どもと戯れる修行じゃない」

「しょうがないですねぇ。じゃあ、りかちゃん。お兄ちゃん達は少しお話があるから、その間は私とお話ししましょう」

「うん!」

 宇多は、そう言うと自分たちに背を向けて女の子と他愛もない話を始める。

 ――自分が、あの子に触れていたら。

「ミツキ様、確かにこちらにも、落ち度はあったかもしれないけれど、迷い子は、そちらの管轄でしょう、対応が遅れたのを、三途の川の責任にするのは違うわ」

「分かってる……だが、こちらがどんなに急いだって」

 ミツキは言葉を切った。それで、那津は理解した。自分がこの場にいなければ、この件はきっと何も問題ではなかった。

 那津だけが、この死者の国で例外。

「戻れなくなるって、どういうことですか」

 那津が、そう二人に尋ねると、鹿島と三島は顔を見合わせた。先に口を開いたのは三島だった。

「えっとね、なっちゃんは、亡者で、あの子は、迷い子。まだ現世ではちゃんと生きているんだよ。下界では神隠しっていうのかな? 時々こっちの世界に生きている人間が迷いこんでしまうことがあって……それで、生きている人間が、亡者に触れると、もう戻れなくなる。つまり、死んでしまう」

 三島の説明に那津は言葉をなくす。もし那津が触れていたら、女の子は一生、両親に会えなくなっていた。

(そんなの……)

「あの、ごめんなさい。知らなくて……」

 謝って済む問題ではない。取り返しがつかなくなるところだった。ミツキや宇多が焦っていた訳も、ミツキが怒った理由も、嫌という程に理解できた。

 三島は首を首を横に振った。

「俺らが教えてなかったんだもの、なっちゃんは気にしなくていいって」

 三島は、那津をフォローしようとするけれど、その目の動揺は隠せない。

「いいや気にしろ、だから……那津は早く転生するべきなんだ」

 心からミツキの言う通りだと思う。那津がこの世界で生を望むことで、誰かに不幸を招くというのなら、いくら選択の自由を持っていたとしても、望みを叶えてはいけないと思った。

 今度ばかりは、何も言い返せない。

(もう十分分かったから)

「ミツキ様、お待ちください。それとこれは違います。それに、そんな言い方は卑怯ですよ。那津さん、今のはミツキ様の言い方が悪いので、私からもいいますが、今回の件は気にしなくていいです」

 振り返った宇多はミツキを叱るが、ミツキは首を横に振った。

「宇多、卑怯でもいい。俺は、何度でも同じことを言う。俺の仕事の邪魔になるから、那津には、転生して欲しい」

「……ミツキごめん。言い訳はしない、この前の件も私が悪かったから、本当にごめんなさい」

 那津は頭を下げる。ミツキは那津から体を背けた。

「宇多、その子の記憶消して、下界へ送っておけ」

「承知しました」

 ミツキは宇多に命じると、踵を返しその場から飛び去って行った。

 那津はどうすればいいのか分からなくなった。まだ仕事中なのだから、どんなことがあっても、選んだ仕事を最後までしなければいけない。中途半端に投げ出すなんて、それこそ、ここにいる意味がなくなる。

 理由がなくなれば、消えてしまう。

 けれど、その場から足が動かなかった。

「那津さん。本当にミツキ様のことは、気にしなくていいですからね。ちょっと、イライラしているだけなんです。あとで、絶対自分の言ったこと後悔するんですから」

「でも、私が悪いんだから。ミツキは怒って当然です」

「それでも、那津さんは自分で決めたなら最後まで、ここに本当にいるべきか時間いっぱい考えないといけません。そうでないと、那津さんは絶対後悔しますから。これは年長者としての助言です」

「年長者?」

「あ、私。これでも、百年以上は生きているので、ミツキ様より年上ですよ。ミツキ様なんかまだまだヒヨッコなんですからね」

「ひゃ、ひゃくねん、宇多さんが」

 てっきり自分より年下だと思っていた。

「では、私は、この子を下界へ送ってまいります」

 女の子は、宇多の腕の中でじっと那津の方を見ている。

「バイバイ。りかちゃん。ごめんね」

 手を振ったけれど、女の子は、何か恐ろしいもののように那津を見た。

 当然だ。彼女にとっては、自分が死神になるかもしれなかったのだから。

(死神、か……)

 寿命を過ぎて、なお命の灯火を消さずにいる自分は、確かにもう化け物になっている。この世界にいる鬼たちよりも、よっぽど異形のものだ。

「ねぇ、那津くん」

 鹿島に呼ばれて、那津は慌てて立ち上がり向き直った。

「あ、あの……すみませんでした。騒ぎ起こしちゃって。すぐ仕事戻ります」

 那津はそのまま船着場まで戻ろうとするが鹿島に手を引かれた。

「いや。それは、いいわ。私の代わりにちょっと泰広庁まで、お使いに行ってきてくれない? 急ぎで」

「お使い、ですか?」

「あー、その、亡者の渡航リストを持って行って欲しいの。このあと手が離せない用事があって」

「それは……構いませんけど」

「ここへ来た時に世話してもらった、ほら、事務官の女の人が居たでしょう。水華さんっていうんだけど、その人に渡してくれたらいいから」

「はい」

「じゃあ、取ってくるわ、ここで待ってて」

 泰広庁へ行く用事は、いつも鹿島か三島が行なっていた。使いを頼まれるのは初めてだった。

「なっちゃん、変だって思ってる? 急にお使いに行かされるの」

 その場に一緒に残っていた三島は那津の顔を覗き込んだ。

「はい。あ、でも、色々仕事覚えたいし、大丈夫です」

「そうじゃなくて。息抜き、しておいでよ。今日は、仕事にならないでしょ」

「あ……」

「気にしなくて大丈夫だから、ね」

 那津は、三島の言いたいことが分かった。きっと、今日このまま仕事を続けても上の空だから。

(ほんと、駄目だな……私、仕事をしたいって思ってここにいるのに、全然役に立ってない)

 小屋から書類を手に戻ってきた鹿島は、那津に書類を差し出した。

「はい。じゃあ、これ、よろしく」

「急いで行ってきますね」

「ん。今日は、もう直帰でいいよ。ついでに街でも見てきたら良いし。ほら、死者の国へきてから仕事場ばっかりで、他はまだ見に行ってないでしょう」

「街、ですか?」

 那津は首を傾げる。確かに自分の家がある山と三途の川くらいしかまだ知らない。必要なものは大体家に揃っていたので、どこかに買い物へ行く必要もなかった。

「那津くんは、死出の旅で六文銭も使ってないんでしょう。ならせっかくだしそれで遊んできたら?」

「でも……私、亡者で、それに……ここにいるのは働く為で」

 遊べと言われても、死者の国と呼ばれる亡者の世界で、自分みたいな半端者が遊んでも良いものなのだろうか判断に迷う。

 怠惰だと判断されるようなことは慎むべきだと思っていた。

 少なくともこの世界に存在を認められ、本当に死者の国の住人になるまでは。

「あー心配ない心配ない、街って言っても、基本的には、亡者の客相手に開いている店ばっかりだから。ほら、裁判の前に、亡者が最後にぱーっと遊ぶ場所なの、あそこは」

 そんな場所があるのかと思いながら那津は鹿島の話を聞いていた。自分は、この世界へやってきた時に、三途の川も渡っていないし、裁判も途中で放棄してしまっている。今更だが、まだこの世界のことは知らないことばかりだった。

 知らないことばかりだから、ミツキにも迷惑をかけている。再び、深い思考の海に落ちそうになって頭を振った。

「場所は、泰広庁に行く途中にあるから、きっと分かるよ。まぁ、気が向いたら行ってみたら良い」

「あの、鹿島さんは、私に気を使ってくれているんですよね……すみません、なんか私、役立たずで……」

 三島の言う通り、仕事場から離れられるように気を使ってくれているのだ。急に遊んでこいと言われたのも、そういう理由だろう。「那津くん! 今回のことは、教えていなかった私たちに責任があるの。ミツキの神使が言う通り、那津くんが落ち込んだり、それを理由に、自分が決めた信念を曲げたりするのはいけない。わかる?」

「でも」

「まだ、ここへ来たばかりじゃない。別に私は、遊んで気分転換してこいって言ってるんじゃないの。もう少し周りを見た方がいいってこと。この世界がどういうところか、それを知って、那津くんがどう思うか、どうしたいか。結果、那津くんが何を選んでも私たちはそれを尊重するつもり」

「……鹿島さん」

「同じ職場で働く、仲間なんだから、ね」

 怒るでもなく慰めるでもなく、ただ、周りを見て、知って考えるべきだと鹿島は言う。那津は、それを聞いて、自分もちゃんと考えたいと思った。

 ここにいたい理由も、ここを去る理由も、自分で考えたものでなければ、絶対後悔するから。

「鹿島さんも三島さんも……ありがとうございます」

 那津が、深々と頭を下げ泰広庁へ向かおうとした時だった。三島が何かを思い出したような顔をした。

「ねぇ鹿島。けど、あの亡者相手の歓楽街ってさ、綺麗なお姉さんがいるお店ばっかりだよ。そんなところへなっちゃん行かせるなんて、ちょっと……三途の川の上司としてどうかと思う」

 三島は、意味深な笑みを浮かべる。

「綺麗なお姉さん?」

「そ、半分は遊郭みたいなものだから、えっちなお店ばっかりだよ、あそこは」

「ちょっと、べ、別に、そういうお店があるってだけで、それだけじゃないでしょう。屋台とかあって楽しいじゃない」

「……ふーん、やけに詳しいねぇ。鹿島も行きたいなら、別に行ってもいいよ。綺麗なお姉ちゃんのいかがわしいお店」

 三島は、意地の悪い笑みを浮かべると鹿島の唇に人差し指を滑らせた。

「み、三島」

「正直に言ってみ。行ったこと、あるの?」

「ありません! 私は、那津くんが楽しめたらと思っただけだからね!」

「まー、そういうことにしておいてあげてもいいけど」

 三島は、鹿島で遊んで気が済んだのか、いつもの飄々とした笑顔に戻った。

(あ、そういう意味の、遊ぶ街なんだ)

「とにかく、行きたいのなら、行ってみたらってだけ。けど、行くのは仕事終わってからだからね」

「はい。えーっと、多分、行かないと思いますけど、では」

「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 那津は今度こそ二人に送りだされて泰広庁へと向かった。

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