番外編:神使になりたかった白兎

※宇多の過去話



 この世には、さまざまな兎が出てくるお話がある。

 仇討ちでタヌキを泥舟に乗せた兎、カメとかけっこした兎。

 そういえば可愛い女の子を不思議の国へ連れて行ったすごい兎もいただろうか? あとは、その身を焼いて月に行った兎とか?

 そんな感じで、とかく、兎は、よく分からない生き物らしい。


 宇多は、現世の人間の考えたその多岐にわたる兎のキャラ付けに、いい加減うんざりしていた。

 そして、その原因については、兎の無表情な顔が原因ではないか、と個人的に分析している。

 犬とか猫については、その豊かな表情のせいか不思議とキャラ設定は一貫していた。

 忠犬だとか、気まぐれな猫だとか。


 兎って一体どんな、生き物? って聞かれても宇多は分からない。

 ずる賢いところもあり、義理堅い部分もあり、抜けているところもあり、寂しがり屋で死んじゃったのは、どの兎だっただろうか。

 兎のことは、兎が一番分かっているんじゃないのかと言われても。自分は元々は兎じゃないので、まだまだ理解の及ばないところが沢山あった。

 だからこそ、兎のことを知りたいと思う。

 宇多は、今日はそんな気分だった。


 こんなことを考えてしまうくらいには、宇多は、いま何もしていなかった。

 もちろん休みの日なのだから、こんな怠惰な過ごし方をしていても、なんら問題はない。


 宇多は現在、雇い主の神様、ミツキが住んでいる社の居間にいた。そこで寝転がって世界の兎の物語を読んでいた。

 雇い主の神様が以前言っていた通り、寂しいと死んでしまうのは、嘘ということが、ちょうど今わかったところだ。


 宇多は兎の姿に変身できるだけで、実際は兎ではない。

 周りには、兎の姿をしているのは、ただの好みで趣味だからと、いつも言っている。嘘は言っていなかった。

 最近この社へ神様見習いとして勉強に来ている那津が、宇多の兎姿を大変お気に召しているので、時々動物バージョンの姿になって、遊んでもらったりしているが、本当は、可愛いなりでも百歳をゆうに超えている。

 こんなことをしていて本当にいいのだろうかと、時々我にかえったとき自分のやっていることが恐ろしくなったりもする。

 けれど、よしよしもふもふされると気持ちよくなってしまう。だから兎姿になるのをやめられない。これが動物の、否、兎のさがなのだろうか?


「……はっ、もしかして、これが、イメクラ? 兎のお触りプレイ!」


 宇多が、そう口にした時だった。後ろから勢いよく頭を叩かれた。振り返るまでもなく、ここの神様だ。宇多の頭の上の兎の耳はペタリと垂れてロップイヤー状態になった。

 いつもミツキは神使の宇多に容赦しない。

 この神様が、こっちが胸焼けするほど、恋人の那津を甘やかしているのを知っているだけに、兎差別だと思った。


「い、痛いですよ。ミツキ様ぁ」

「宇多、お前は、昼間っから人の家で、なんつー本を読んでいるんだよ!」

「別に、如何わしい本なんか読んでませんよ、ミツキ様じゃあるまいし」

 宇多がそう言うと、ミツキは眉間にしわを寄せて宇多の頬をぐいっと抓った。

「いた……ひ」

「誰が読むか。別になぁ、休みの日くらい自分の神使がどこで何していてもとやかく言う気は無いが、エロ本なら自分の家で読め」

「だーかーらー誤解です、エッチな本じゃありません! 絵と写真は多いですけど」

 そういって、宇多は、自分の横に積み上げていた絵本をミツキに見せた。

「ね、ちゃんとした本です」

「絵本って、お前、そんなの餓鬼が読むもんだろ」

「でも面白いですよぉ、現世の絵本。十王庁にある図書館から借りてきたんです。ミツキ様もどうですか? 読書」

「絵本ねぇ」

 そう言って、宇多の隣に胡座をかいて座ったミツキは、積み上げられた本を手に取った。

「お前、これ兎の本ばっかりじゃねーか、自分大好きかよ」

「違いますぅ。兎会でいま流行りの自己分析ってやつをしているんですよ」

「はぁ、兎会? 自己分析? なんだそれ、怪しげな集まりには行くなよ、仮にも俺の神使なんだから」

 ミツキはそういって嗜める。

「怪しげな集まりて、別にサバトに行ってるわけじゃないですよ。ただの野うさぎの井戸端会議ですって。で、兎って、キャラ設定が一貫していないって話が、前回の議題だったんですが、私も兎がどういう生き物がよく知らないから、本でも読んでみようかと」

「兎ねぇ、宇多は、宇多だからなぁ」

「そんな、身も蓋もないことを言わんでください。これでも、兎たちは、日々キャラ設定に悩んでいてですね……兎って、やっぱり不思議ちゃんなんでしょうか」

「宇多」

 ミツキは宇多の話を遮るように呼ぶ。寝転んだまま宇多が振り返ると、ミツキは宇多の頭をぐしゃぐしゃとかきまぜた。乱暴にするので頭の上にのった兎の耳が痛かった。

 那津と違って、ミツキは兎の扱いがなっていないと思った。撫でられても全然気持ちよくない。

「なんですか?」

 宇多が不満げに尋ねると、ミツキは小さく息を吐いた。

「今日は暇だ。部下の悩みを聞くのも、上司の仕事だから聞いてやらなくもない」

 心配だと素直に言えばいいのに。こういうのを現世ではツンデレというらしい。


 確かに言われてみれば、読書なんて自分らしくない行為だ。変になったと思われても仕方がない。

 けれど、そこまで顔に出している自覚はなかったので、ミツキに自分の感情の機微に気づかれたことには驚いていた。


「……別に、悩んじゃいません。ただね、珍しく雪が降っていたので昔が懐かしくなっただけですよ」


 下界と違って天部の山は、年中同じような景色だ。

 けれど時々風流なんてものを思い出したかのように、この世界の誰かが下界の季節を真似てみせたりする。

 だから今日は朝から雪が降っていて、寒かった。降ると分かっていたら、こたつだって出しておいたのに。ただ、この雪は、明日には止む、ほんのひと時の現象に過ぎない。


「ほら、悩みがあるなら、さっさと言え宇多。神様が即解決してやる。それに、そろそろ那津が来る……アイツは心配性なんだよ」

「……過保護だなぁ」

「五月蝿い。お前だって、那津に心配されたいわけじゃないだろう」

 ミツキが言うように、那津に自分の身の上話なんてものをしたら、きっと泣いてしまう。結構ヘビーな人生。もとい――神生だったから。


「それはまぁ、そうですけど。てかミツキ様、早く那津さんと一緒に住んじゃえばいいのに、そうしたら私も、那津さんにもっと抱っこして撫でてもらえますし」

「おい、宇多」

「はい?」

「俺は、まだ膝枕もしてもらっていないんだが?」

「えー可哀想。私は、いつも、いっぱい撫でて貰えますよ。兎になれば。いいでしょう?」

 ミツキに恨みがましい目で見下ろされる。

 自分を優しく抱きしめてくれる那津の姿に、宇多は時々過去の自分を重ねていた。


 遠い昔、白い兎を抱きしめて、癒されていたのは、外でもない自分だった。

 けれど宇多は、兎の魂を持った今でさえ、兎の本当を何も知らない。


 知っているのは、その「兎」が、とても心優しい生き物だったということだけだ。

 今日、こんなに、ひどく寂しく、感傷的な気持ちになるのは、きっと寒いからだ。

「ねぇ、ミツキ様、私がミツキ様の神使になった日のこと覚えていますか?」

 

 ーーその日も、こんな風に、気まぐれに雪が降っていた。


  *  *  *



 宇多はミツキの神使になる前は、とある山の神様だった。

 自分が山の神になったのは、何も自然を特別愛していただとか、人里の五穀豊穣を願いたかったとか、そんな誰かの為みたいな大層な志があったわけじゃなかった。


 山神の家系に生まれ、神様になるためのレールの上をまっすぐに歩いてきた結果、神様になっていた。

 だから神様なんてものは、ただの仕事で、資格職。そこに神様らしい心なんてものは、必要ではないと宇多自身、身をもって知っていた。


 神様になったばかりの、宇多は、とにかく擦れていた。ぶっきらぼうで、世を悲観的にみていて、可愛げのカケラもなかった。近寄りがたいその雰囲気は、もしかしたら神様らしいといえば神様らしかったかもしれない。


 宇多が思うに、威厳と冷たさは紙一重の差だ。

 宇多は神様のような心は、いつも神様以外が持っていると考えていた。

 例えば、いつも自分の荒んだ心を癒してくれる、この隣にいる「白兎」がそうだ。

 自分と白兎は対極の存在だった。温かくて優しいのが白うさぎ。冷たくて、厳しいのが宇多。


「山神様は、いつも寝てばかりですね」

 この山で修行しているという白い兎は、ぴょこぴょこと跳ねて宇多のところにやってきた。

「あー山の神様だから、山と一体になる必要があるんだよ、多分。だから寝てる」

 ただサボっているだけだった。

 宇多は白兎に嘘をついた。この兎は、素直で、真面目で、心優しく、勉強熱心で自分が持っていないものを沢山持っていた。


「へぇ、そうなんですね。じゃあ、俺も山神様の近くで居ます。何か学べることがあるかもしれませんから」

「どうだろ、あ、じゃあ、私とお昼寝する?」

「はい、ぜひ」

 そう言って、そばにきてなついている白兎を宇多はとても気に入っていた。神様として、自分がどうあるべきか日々悩んでいても、その白兎が側にいてくれるだけで、荒んだ心がふんわりとあたたかくなって、ほぐれていく気がしたから。

「ねぇ、白兎」

「なんでしょうか? 山神様」

「私にひっついていても。私は、兎の神使は持たないよ」

「ははは。確かに、そう思われても仕方ないですが、そんなつもりはないですよ。でも、俺が、もしお狐様なら、山神様のそばでお仕事が出来たかもしれませんね」

「白兎は、神使になりたいの?」

 草むらで寝転がっていた宇多は体を起こして、白兎を見下ろした。

「えぇ。俺なんて、まだまだで、なんの力もありませんが、いつか神様の力になれる神使の兎になりたいと思っています」

「そっか、頑張ってね。白兎」

「はい!」

 例えば宇多が山の神じゃなければ、すぐに、この白兎を神使にした。

 もっと側にいたいと願ったのは、白兎だけじゃなくて宇多も同じだった。側にいなければ、寂しく感じるほどに、宇多はこの白兎が好きで、溺愛していた。


(でも、無理、なんだ)


 自分がこの山で意見するほどの立場であれば、何か変えられたかもしれないけれど、現状では、この白兎を自分のそばに置くことは無理な話だった。

 父も母も、兎嫌いだからなぁ。

 理由は、兎が、とてもずる賢く、意地の悪い生き物だからと言っていた。昔話のことを言っているのだろう。そんな一部の兎を例にして言われても、実際目の前にいる白兎は、真面目ないい兎だった。どんなにすごい力を持っていても悪い狐だっている。

 だから山神たちが、兎だからと言って神使に使わないのは、ただの個人的な恨みで偏見だ。


「ねぇ、白兎。別に、居たければ、ずっとそばに居ればいいよ。それに、私は狐より、兎の方が好きだしね」

「え、本当ですか! わー。嬉しいなぁ」

 ゆくゆくは神様の使いとして働くことが夢だと語った白兎は宇多の言葉にとても喜んでいた。兎の顔は無表情だなんて言うけれど、宇多はこの兎の表情の変化は、よく分かった。

 嬉しそうにしたり悲しそうにしたり。ころころ表情が変わる。

(あぁ、可愛いなぁ)

 神様のお使いなんかじゃなくて、白兎自身が神様になる方が、人里のためになる。癒し系だし。

 宇多は青い空を見上げながら、そんなことばかり考えていた。

 神様なのに、宇多の心は、日に日に荒んでいた。そして荒んだ心は山を荒らす。父と母には、何度も叱られた。

 けれど、仕方がなかった。多分、自分には神様の資格なんかないのだから。


 ーー宇多は、自分が神様でいることに悩んでいた。


 山を守るという仕事はちゃんとしている。ただ結局それだけだった。そこには心が伴っていない。

「ねぇ白兎、修行中ってことは、人の姿になれたりするの? ていうか、名前は? ずっと白兎じゃ呼びにくいよ」

「人の姿、ですか? うーん。やってみますけど、変でも笑わないでくださいね」

「笑わない、笑わない」

 白兎は、じゃあというと、ポンと煙に包まれた。そして、現れたのは、黒い髪になのに、頭に白い兎の耳をつけた姿の青年だった。それをみた宇多は、その場で転げ回って笑った。

「わ、笑わないって言ったのに、山神さまぁ」

「だって、白兎なのに、黒髪のお兄さんだし」

「すみません。俺が知っている人間の姿は、この人里の方々くらいですから、必然的に似てしまって、化けるのはやっぱり下手ですね。兎なので」

 キツネやたぬきだったら変化が得意なのになぁと白兎は悔しそうに言った。

「笑って、ごめん。でも人の姿になれるってことは、もう神使にもなれるんじゃないかな」

「そうですね、今度、俺、天部へ面接に行くんですよ。ミツキ様って神様です。どうやら、気難しい方らしいのですが、気に入ってもらえるといいなぁ」

 そう言いながら、白兎は、もとの兎の姿に戻った。もう少し、頭の上に兎の耳を乗せた姿を見ていたかったので宇多は少し残念だった。

「……ミツキ……様、あぁ! 分かった。知ってるよ」

 噂では、無愛想で、冷たい神様だと聞いていた。こんな、まっすぐで真面目な白兎が、彼の元でちゃんとやっていけるのか、少し心配になってきた。

 自分なら、この白兎をちゃんと使えるのに。突然そんな思いが湧き上がってきた。

 ーーこれは嫉妬なのだろうか。

「きゅ、急に黙らないでください。山神様。もしかして、ミツキ様は、すごく、こ、怖い方なのですか?」

「どうだろ、神様なんて、ろくなもんじゃないから、期待しない方がいいかも」

 自分も神様だというのに、気づけばそんなことを言っていた。

「あ、白兎、あと、名前教えて」

「俺の、名前ですか。うーん。兎の個体を、それぞれ判別出来るのは、山神様くらいのものですよ。俺に名前なんてありません。ただの白兎ですから」

「……そう、なんだ」

 宇多は、その白兎を名前で呼べないことが少しだけ寂しかった。自分の名前を教えて、互いの名前を呼び会いたかったのだ。

「けれど、山神様だって、お名前ないでしょう?」

「あるけど、山神で通じるから、あまり呼ばれないよ」

「え、あるんですか! 教えてください」

「どうしようかなぁ」

 勿体ぶらずに教えればいいのに、宇多は白兎を抱き上げてそのふわふわの毛並みを撫でて楽しんでいた。

「あ、そうだ、白兎が、無事に神使になれた時、教えるってどうだろう」

「えー、それじゃあ、何十年先になるか、それに……なれるかどうかも分かりませんよ」

 白兎は困った顔をした。

「大丈夫。神様は長生きだから、そこは安心していいよ」

「あ、確かに、山神様は、山が無くならない限りは生きられますからねぇ」

 そういって、白兎は嬉しそうに笑って、宇多も同じように笑った。

 自分が生きている限り、白兎は自分のそばにいる。同じ時をこの白兎と長く過ごせるということが嬉しかった。

「白兎が神使になって名前をもらったとき、私の名前も教えるから」

「はい、山神様」

「ズルして、他の神様に聞いたら駄目だよ」

「はい。もちろん約束です」

 素直で優しく、清い心を持ったその白兎が、早く神使になって名前がもらえるといい。ミツキに名前を贈られて喜ぶ白兎を想像すると、少し嫌だった。でも宇多はその日を楽しみにしていた。


 そうして、しばらくの間、山で白兎と宇多の交流は続いた。

 ミツキに仕えるという話は、進んでいるらしく、お互い名前を教えあうという約束ももうすぐ叶いそうだった。


 そんなある日の出来事。

 宇多は山の神々に呼び出されてしまった。山神である自分が、兎と親しくしているのを良しとしない家族が離れろと言い出したのだ。

 白兎が素晴らしい心を持ち、もう少しで神に仕える予定だと訴えたところで、ただの獣だと一蹴されてしまった。

 そして、そんな家族へ反発する心は、山を荒らしていった。

 神として正しくあろうとすればするほど、神様という立場から遠くなっていく気がした。

 自分が白兎を大切に思う気持ちは間違っていないと思った。宇多は白兎と同じ優しい心を持ち続けたいと願った。

 荒れる宇多の心を鎮めるためと、家族から山奥の洞窟に閉じ込められて、数ヶ月。

 白兎の住む山に帰ってきた時には、季節が変わり、すでに辺りは一面の雪に覆われていた。

 どんなに心を入れ替え、修行をやり直しても、白兎に会いたい気持ちは変わらなかった。

 だから、自分は間違っていないと思っていた。

 他の動物と同じように等しく白兎にも優しい心で接するべきだ。それが山神として正しいと信じていた。

 宇多は雪山の中、一生懸命白兎を探した。

(白兎、寒がっているかもしれない)

 会って、早くあの白兎を抱きしめたいと思った。

 けれど、こんなに雪がつもり白くなった山で彼を探すのは一苦労だった。

 やっとのことで、宇多が山の麓で白兎を見つけたときだった。

 足場の悪い中、宇多は白兎を呼び、駆けていった。

 

 ーーそれは、一瞬の出来事だった。


 破裂音が自分の目の前で響く。そして自分と同じように駆けてきた兎は、目の前で動かなくなる。

「……しろ、うさぎ」

 猟銃で白兎が撃たれたのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 白い、雪の中。赤い血に染まった白兎へ、宇多は、よろよろと近づいていく。何度も転んだ。山神が聞いて呆れた。自分の庭なのに、上手く歩けやしない。

 白兎は猟銃から宇多を守ったのだ。

「なんで、なんで……私は神様で、撃たれたって、何ともないのに、白兎、なんで、こんな」

 宇多の声は、震えていた。

「へへ。久しぶりに、会えたから、俺、嬉しくて、油断しちゃったんですよ。山神、様」

 庇ったのだと知れば、宇多が傷つくと思ったからなのか、白兎は偶然を装った。

「猟銃の弾なんて神様があたったら、穢れてしまうから、良かった、です」

 息も絶え絶えに、白兎はそう言った。命の灯火が消えていく。せっかく修行して、もう少しで神使になれるはずだった命が、また一からやり直しになってしまう。

 否、再び同じ命は生きられない。ここで、この優しい白兎の命は終わってしまうのだ。

 誰よりも、清く優しい心を持っていて、自分よりも神様みたいな、白兎の命。

 宇多は、そっと白兎に手を伸ばそうとした。

「ダメ、です。俺に、触らないで、ください。山神様……が、穢れてしまいますよ」

「でも、人間が……」

 人間に、山神の姿は見えない。

 兎を撃った猟師がもうすぐここへやってきてしまう。そして、白兎を遠くへ連れていってしまう。

 血で真っ赤に染まった兎を前にして、宇多は手が震えた。

「いいんですよ。兎は、食べ物になる方が、人のために、なるし」

 こんな時なのに、白兎は優しげな顔で笑っていた。

「だって、白兎は、神使に……なるって言ったのに。それに、もう夢が叶うって、名前、いうって約束した、のに」

「……また、頑張るから、次に俺が、白兎じゃなくて、白狐に生まれたら、山神様の側にいさせてください、ね。やく、そく……」

 そう言って息絶えた白兎を前にして、宇多に迷いはなかった。

 たとえ自分の神格を剥奪されたとして、その身に穢れを受けて、神様として二度とこの山に戻れなくなっても、白兎と離れたくなかった。

「ねぇ、穢れって何、白兎は、綺麗だよ」

 そう言って宇多は、白兎を優しくその胸に抱きしめていた。


 * * *


 その日は、珍しく天部の山では下界と同じように沢山の雪が降っていた。

 ミツキは白兎を使役できる神様だった。だから上手くいけば、白兎は、彼の元で仕事ができるはず、だった。

 だから「宇多」は、ミツキに会うために天部の山にいた。


「ミツキ様。お願いです。私を神使として使ってください」

 ミツキが初めて宇多と話した時、彼の身なりは、お世辞にも神様らしいものではなかった。以前、山神として下界にいた時の美しく凜とした姿を知っていただけに、ミツキは驚きを隠せない。そもそも神様としてひよっこの自分と、目の前の宇多とでは、生きている年数が違うし、神としての格も違う。

 本来ミツキは、宇多に頭を下げられるような立場ではなかった。

 そして驚いたのは、みすぼらしい姿だけでなかった。宇多は歪な魂の形をして、目の前に立っていた。


「山神の宇多……。神様を使う神様がどこにいるんだ? 聞いたことがないが」

「いえ、実は、私、さっき神様じゃなくなっちゃったんですよ」

 そう言ってミツキの目の前で、ぼろぼろと涙をこぼしている宇多のそばには、悲しそうな顔をしている白兎が一緒に居た。

 ただ、そばにいるその白兎の姿を、宇多は感じることはできないらしい。その白兎は何か言いたいことでもあるのか、じっとミツキを見上げた。

「……お前、あの兎か」

「ミツキ様しか、頼める方がいなくて、私に、神使としての力はありません。もう神様でもないですし。でも、この白兎は、誰よりも、貴方に仕えるべきだったんです」

「宇多」

「お願い、ですから」


 今回の出来事で、宇多は自分が神様の器じゃなかったと身を以て知った。

 大切なひとさえ守れない無力な神様だった。

 悔しくて、悔しくて、ミツキの前で、ずっとずっと泣いていた、神使にしてくれるまで帰らないと言って縋った。

 それは大切な兎の夢を叶えられる唯一の方法だったから。


 ーーーそして、宇多は、ミツキの神使となった。


 * * *


「なぁ、結局さ、お前は神使になってよかったのか? 別に今からだって、修行し直せば、自分の山に帰れるだろう。時間はかかるけど」

 そもそも、神様でなくなっても、宇多の力は、泰広王が欲しがるくらいに強い。ミツキは、神使として「神様」を使っているようなものだった。

「突然何を言うかと思えば、私が神様に今からですかぁ?」

「別に、できないわけじゃないだろう。俺だって、色々あったけど、まだ神様だし」

「それは自慢にもならない。でも、ミツキ様と私とじゃ事情が違いますよ」

「そんな兎会だ、自己分析だなんだをするってことは、思うところがあるんだろう、お前」

「違いますよ」

「じゃあ、なんだ」

 最初は大切な白兎の願いを叶えるために自分にできるのは、彼の代わりに神使になることだけだと考えていた。けれど、今はそれだけじゃない。この仕事にやりがいを感じていた。

 山神の立場に未練もない。

「ミツキ様。そんなこと言って、私を追い出す気でしょう。うううう。悲しいです。那津さんと二人っきりで楽しくやろうとして、そうは問屋がおろさないんですからね」

「おい、茶化すなよ。俺は、真面目にお前のことを心配してんだからな!」

「えー。ミツキ様……どうしたんですか、らしくない。いつもなら、ここでほっぺたつねるのに」

「お前が、元気ないからだろう」

 ミツキはそう真面目に切り返してきた。宇多は、そういうしんみりした話をするつもりではなかったので、正直困った。ミツキは口は悪いが、あの白兎と張り合うくらいに心優しい神様らしい神様だ。


「すみません、ミツキ様、心配かけて。でも、本当に、もう神様になるのはいいんですよ。実際向いていなかったし、前にも言いましたけど、この仕事が天職だと思ってます。そりゃあ、ミツキ様は、那津さんが側にいればそれで、いいんでしょうけどね」

「宇多、じゃあなんでこんな話したんだ」

「だから! ただ……雪降ってるし、急に白兎に会いたくなって。昔話したくなっただけです。付き合わせてすみません。ホント……やっぱり、あの時、一緒に消えておいた方が良かったかな、なんか今日は、すごく寂しくて……」

 らしくない一言に自分でも驚いていた。

 実際のところ、神格を失った時、白兎の魂と一緒に自分も消えても良かった。神様になるために生まれて、そのためだけに生きてきて、その神様でなくなったのなら魂ごと消滅するべきだった。

 いうまでもなく家族も、山神一族の恥だと存在ごと消えるのを望んでいた。

 けれど、どうせなくなる命なら、白兎に、この世界で名前をつけてあげたかったのだ。

 白兎の魂と共に、二人で神使の「宇多」になろうと思った。


「お前がどう思ってるにせよ、宇多……お前が、居てくれてよかったと俺は思ってるよ、そもそも、落ちこぼれの俺の神使になりたがる、変な奴はお前らくらいだったし」

「ミツキ様」

 そう言った時だった、ぐすぐすと鼻をすする音が廊下から聞こえてそちらへ視線を向けた。

「私も、宇多さん、大好きです。消えないで良かったですからぁ」

 襖の側には那津が立っていた。そういえば那津がくると、ミツキが言っていたのを思い出した。ここへ来てから泣き虫になったという那津は、ぼたぼたと涙をこぼしていた。

 こうなるから聞かせるつもりはなかったのだ。ついうっかり、ミツキと話し込んでしまっていた。


「あ……えーっと、那津さんいらっしゃい!」

「宇多さんに……、そんな、過去があったなんて……ごめんなさい、私何も知らなくて、兎が可愛いとか抱っこしたいとか、無神経なことを……でも、可愛くて」

 那津はそう言って、宇多とミツキが止める間もなく走っていく。

「あ、ま、まってください。那津さん! 抱っこしてくれていいんですよ! その方が私も嬉しいし……って行っちゃいましたね、ミツキ様」

 玄関の戸が閉まる音が聞こえた。

「いっちゃいましたじゃ、ねーだろ! どうすんだよ」

 昔の悲しい思い出を語って聞かせるつもりではなかったのだ。ただ、誰かに白兎のことを聞いて欲しかっただけで。

「ミツキ様! 早く、早く! 追いかけてフォローしてきてください、お願いします!」

「言われなくても行く。つか、宇多」

 外へ駆けていった那津を追いかける為に、ミツキはその場から立ち上がる。けれど、再び宇多の顔を見下ろした。その目は、宇多のその隣を見る。

「なんですか」

「お前らは、宇多だ」

 そんなこと言われなくても、分かっていると思った。ミツキには、自分の中に白兎の魂があることは伝えている。


「あ、はい……そうですね」

「だから、ちゃんと、俺には、お前じゃない白兎もまだ見えているから」

「……そう、なのですか?」

「俺は、最初から、お前とその兎まとめて、自分の神使にしたつもりだ」

 ミツキは、そう言い残して那津を探しに外へ出て行った。

 宇多は、一人、居間に残された。

「そっか……良かったね、白兎。あぁ、違う、宇多、か」

 宇多は、もう声が届かない、白兎の魂に呼びかけた。

 宇多という名前と、神使という立場を白兎が喜んでくれているかどうかは分からない。余計なお節介だと、もしかしたら怒っているかもしれない。

 それでも、時々兎の姿で、彼のことを思い出している時、宇多はとても幸せだった。

 だから、この我儘をどうか許してほしいと思っている。もちろん、許されるべきでない自分勝手な行いだったことはわかっている。だから、もう神様には戻れない。

「多分、初恋かな」

 今更、自分の淡い恋心を自覚したけれど。狐より兎が好きと言ったくらいで、告白らしい告白はしていなかった。そのことを少しだけ後悔した。

「まぁ、でも、毎日一緒にいるんだから、鬱陶しいくらいに、私の気持ちなんて、白兎にも伝わっているだろうけど」

 自分に神様としての資格があったとすれば、雪山で、命を落とした白兎を抱きしめた時だったと思う。確かにあの時は、神様らしい心が、そこにはあった。

 だから、それが山神として許されないことなのだとしたら、自分は、もう神様に戻るつもりはなかった。


 それは神様としての掟ではなく、宇多自身が決めた掟だ。

 もし、あの時、白兎に手を伸ばせなかったら、きっと後悔していた。

 選択を誤らずに大切な人を抱きしめたことは、今でも宇多の誇りだった。

 山神として、どうしても、あの綺麗な魂を消すことが自分にはできなかったのだ。

 それが、自分が神として最後にした、正しい行いだと宇多は思っている。

 結局のところ、借りてきた兎の本で、自分が知りたかったのは、自分のことじゃなくて、片割れの白兎のことだった。

 けれど、本を見たところで、自分以上に、自分の中にいる白兎を理解している者などいないと分かった。

 兎は、無表情。意地悪くて、時々可愛くて、ずる賢くて、悪い兎だっているかもしれない。

 だから、ミツキの言う通り、宇多は宇多でしかなかった。

「さてと、私も、那津さんを探しましょうか。今日も、もふもふして貰わないと、兎の宇多が拗ねちゃいますからね」

 そう言って、宇多は力を使い風を吹かせた。

 神様のミツキより、先に那津を見つける自信がある。

 なにせ「宇多は優秀なミツキの神使」だからだ。



  終わり


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君と結び恋花の糸 七都あきら @akirannt06

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