第25話 後の祭り

 仕事上がりのくたびれたサラリーマンに混じって、タイトなドレスに身をつつんだ美人が少年誌を立ち読みしている面妖な光景に遭遇した。ていうか篠さんだった。


「篠さんもそういうの読むんだ」

「ちょわ、先生」


 ちょわ、て。予定の時間よりかなり早めに目的地に着きそうだったから調整の意味を込めてコンビニに寄ったのだが、まさか約束した相手と鉢合わせるとは。篠さんは珍しく狼狽した様子で、少々乱暴に雑誌を棚に戻した。


「こういうときは見て見ぬふりをしろ。して。しな?」

「あんまりおかしな光景だったから、つい」


 これほど映えないコントラストもない。しかし、篠さんの方が動き出しが早いのは意外だった。待たせたと思わせないように時間を潰すつもりが、その実相手を待たせていたのは俺だったらしい。

 当の篠さんはといえば、既に大人の落ち着きを取り戻している。「先生はなんか買う?」「特に」「じゃあ出るぞ。せっかくなら早く行こう」


 夜道を並んで歩く。「少年マンガ好きなんです?」「そこそこ。たまーに気になって単行本未収録の話読みにいっちゃう」「話つながらなくて混乱するでしょ」「わたしくらいになれば数週分は脳内で補完できるってわけ」「嘘つけ」


 素人に予想できる内容が数週続くマンガなんか読みたくない。フィクションが面白いのは、自分の思考の域を時折飛び越してくれるからだ。


「先生、結構来るの早かったね。さては楽しみにしてたな?」


 自分のことを棚に上げている気もするが、篠さんは篠さんでもともと責任感が強い人だ。ホストを務めるからにはゲストより先にの思いがあったのだろう。

 今日の予定を心待ちにできるような余裕は、諸事情でなかった。しかし、そんなことを打ち明けられて、誰かの得になるとは考えられない。


「そりゃもう」

「そうかいそうかいそれはよかった。……で、これはかなり残念なお知らせになるんだけど」

「はて?」

「……先生の格好、絶対ドレスコード満たしてないな」

「あ」


 今さらやらかしに気が付く。篠さんの格好を見るに、俺は最低でもジャケットを羽織って革靴くらいは履かないとまずそうなところ、実際にはサマーパーカーとチノパン、足元はスニーカーというラフすぎる全身ファストファッションだ。明らかに門前払いされに向かっている。

 服装のことなどまったく頭になかった。いや、普段なら気も回ったのだろうが、ここ数日を普段と呼ぶのは無理がある。せっかく誘ってもらったのに、いきなり特大のミスから始まってしまった。


「ごめんごめん、わたしもうっかりしてたわ。先生なら大丈夫かと思って」

「チクっと来るなそれ……。いやー、マジで申し訳ない」

「別に気にしない。あー、でもどうしよ? 今から揃えるには時間がアレだしな」


 むー、と数秒考えこんでから、「そうだ」となにやら閃いたらしい篠さん。


「予約とかしてなくて逆に良かった。その格好でも問題ない場所、一つ知ってる」


 頼りにすべきはアドリブが効く年上のお姉さんだ。ほんと、ポンコツで申し訳ない。


********************


 タクシーに揺られること十数分、どんな繁華街に連れていかれるのか予想を重ねていた俺とは裏腹に、あたりの街並みがどんどんと厳かで落ち着いたものに変わっていく。地価的に、とても飲食業を始められそうな場所ではない。

 ブルジョワ層御用達の秘密の社交場でもあるのかと疑ってみたが、だったら余計に俺の服装はダメだろう。どうにも知識の限界で、これだというものが思い浮かばない。篠さんに直接聞くのもはばかられるし、どうしたものか。


「先生、ここ」


 ぼけっとしているところ、腕を引かれた。いや、でも……。


「住宅街じゃん」

「問題ある?」

「問題はないかもだけど、店もないでしょ」

 

 背の高いマンションばかり立ち並んだ高級住宅街に連れてこられても、当初の目的は果たせそうにない。確か、今日は成人祝いで篠さんに酒をふるまってもらう予定だったはず。


「店じゃなきゃ酒が飲めないってこともないでしょ」


 はあ。はあ?


「うち」


 篠さんが目の前のマンションを指さす。その様子に、俺が首を捻る。


「我が家です」

「おお、おお……」


 篠さんは、今の俺の格好でも問題ない場所と言っただけだ。それを勝手になにかしらの店舗のことだと脳内変換した俺が悪いといえば悪いのだろうが、完全にキレと冴えを失った今の自分の思考では、ここまではちょっと読めなかったというか……。

 近くお互いの住処くらいは知ることになってしまうだろうなと思ってから二日だ。正直、早すぎる。篠さんのリッチさが考えていたよりはるか上だとわかって圧倒されるのもほどほどに、現状、かなり頭が痛い。果たしてこれが徹夜を由来とするものなのか、悩みどころだ。

 

 だだっ広いエントランス、常駐するコンシェルジュ、静音駆動のエレベータと、分厚いカーペット敷きの内廊下。下手なバーなんかより、ここにいる方がよほどドレスコードに反している気がしてならない。他の住人に遭遇したとき笑われるのは篠さんなので、極力存在感を消して歩く。


「篠さん、なんの仕事してるの?」


 さすがに聞いた。もっとも、最高級の学歴で国内指折りの有名企業に入社できたとしても、篠さんの年齢でここに住むのは無理がある。うちのアパートの家賃より、ここの共益費の方が高そうだ。一人暮らしを前提にしているのは、これまで話してきた内容を擦り合わせた結果。


「ああ、ここ? パパにもらった」

「…………」

「実父ね。大学の合格祝い」

「紛らわしい言い方で遊ばないで」


 違法売春だの愛人契約だの、ぱっと浮かんだのが穏当でない単語ばかりだった。その訝しみが顔に出ていたらしい。

 だからって、大学入学を契機にぽーんとマンションが飛んでくるのは意味不明だが。

 

「わたしんちが金持ちなのはなんとなくわかってたろー?」

「そりゃまあ。ただ、思ってたのと桁が違いそう」

「じゃあヒント。私の苗字、篠原」

「……不動産経営がメインのグループ企業くらいしか思い浮かびませんが」


 恐る恐る言って、さらに恐る恐る篠さんの顔色を窺う。流れで本名を知ってしまったが、ちょっとそれどころじゃない。――あー、すげーニコニコしてる。正直外れていて欲しかった。


「ガチお嬢じゃん……。これからはちゃんと敬語使った方がいいですか? あ、よろしいでしょうか?」

「キモいからやめろ」

「こんなことなら安居酒屋じゃなくてもっと高そうな店連れてってもらうんだったな……」

「漏れてる。失礼が」


 謎めいたプロフィールが一気に明るくなっていく感じだ。緊張するから知らないままでいたかった。俺の無知と失礼に憤る人でなくても、心構えの方はかなり変わってくる。

 

 通された部屋は間取りでいうと2LDKくらいだったが、一部屋一部屋にゆとりがあって広々としている。リビングに漂うタバコの残り香と、それを隠す消臭剤の匂いだけが唯一親しみのある生活感だ。……アイランドキッチン羨ましいな。設備は新しめで、どれこれも充実している。一切使用された形跡がなくて惜しいから、そのスペースだけ俺がもらい受けたい。

 

「で、なんかあった?」


 ソファに腰を落ち着けたあたりで、突然問われた。「どっかのご令嬢に誘拐されまして」「違う。会ったときからずっと死んでるだろ、顔」「目ざといな……」


 暗がりならバレないと高をくくっていたが、甘かったようだ。そこらへんの偽装能力に元から自信はないし、特別驚きはしないが。

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