第28話 乙幡叶歌の左側
寝不足による動悸と、気分の乱高下。消えない頭痛をせめて今だけ原動力に、この数日で初めて、叶歌の左側を確保する。自分の意思で、ちゃんと。
「めちゃくちゃにしてくれてよかったのに」
小ぎれいなままの部屋を見て言う。これといって変わった様子は見受けられない。それどころか、少し片付いているような気さえする。
「それ見て『ああよかった』って思うひなと想像したらムカついた」
「そうかい」
思っただろうな、確実に。資本主義的マイナスで、感情面に与えたダメージの釣り合いを取ろうとする小癪さが憎らしい。非常に境雛人的で、アレルギーを催しそうだ。
叶歌の疲労の色が濃い。目まぐるしい数日間に、すっかり参ってしまっているのだろう。その状態でなお、来るかどうかも知れない俺の到来を待ち続けたことの意味を、今回ばかりは見誤れない。
「……どうして帰ってきたの」
「さっき言ったろ。約束思い出したんだ」
「じゃなくて――」
「――ってのは建前」
歪んだひし形に力を加えて、体裁を整える。美しい、疑うところのない正方形に。
「まだ、お前にいて欲しかった。お前がここにいるかもしれない理由をあれこれ必死にひねり出して、もっともらしいのがあの約束くらいしかなかった」
出発地点は純度100パーセントの願望。終わって、別れて、離れて。その解決とまではいかない顛末を、納得しきれない自分の存在に気が付いたから。
俺単体は、どんな終わり方をしてもよかった。……だけど、俺たちのつながりの終着点が、こんな中途半端な場所であっていいわけがない。
ずっと、道半ばで立ち尽くしている。この感覚が俺たち二人に共有されているものだとしたなら、なにか一つのゴールを探さないことには始まらない。次が、始められない。昨日とか、過去とか、後ろにしかないものにばかり縛られる乙幡叶歌を、誰より俺が認められない。
「……私のこと好きすぎかよ」
「そうだよ。悪いか」
「悪いに決まってるじゃん。そうならさ、他に、あるじゃん」
「じゃあこっちからも言わせてもらうけど」
拒絶一辺倒の俺のスタンスに叶歌はなにやらもの言いたげだ。
ここではっきりさせよう。うわべだけ取り繕ってなあなあに片づけるのはもう懲りた。
「俺が信じた不文律を、お前が最初に破ったんだ。お前とだけは色恋に発展する線が薄そうだったからこそ、俺はあれこれ色々預けたのに、それを、あんなころっと……」
「なに不文律って。言ってよ」
「言えるか。おかしいだろ、最初にそんな取り決めしてから友達やるの」
「でも、そこでさぼったせいで後から大変になってるじゃん。ひなとのせいだよ、そんなの」
「それは……」
そうなんだが。正論に反駁の余地はないけれど、論理を正したくて俺はここまでとんぼ返りしてきたんじゃない。
感情。見つめるのは、ただ一点。
「ひなとが私に期待するのはよくて、私がひなとに期待するのはだめなの? そんなのおかしいよね」
「おかしいとか、おかしくないとか、真面目な話はもういい」
直球に、無駄な修飾は極限まで省いて。
「……お前、あのとき、自分が女であること利用したろ。あのとき、あの一瞬だけ」
ああしてしまえば逆らう男なんていないことを、叶歌はわかって行動した。それには、どうしても思うところがある。
わかるんだ。経験済みだったから。自分の一挙一動、機嫌の良し悪しで他人をコントロールしようとする雰囲気。
それ自体の是非については捨て置く。人と人との関わりのなかで、駆け引きが生まれるのはごく自然なこと。それで振り回すやつもいれば、振り回されるやつだってもちろんいる。折れて意図に反した行動をとってしまうなら、それはそいつの意志薄弱が悪い。だから悪いのは概ね俺なのだろうが、それでも、最後に残った芯がどうしても認めるのを拒むんだ。
「そうじゃなかったろ、俺たちは。望みがあるなら、それこそ言ってくれればよかった。なのにいきなり、あんな強引なやり口で……」
対等だったはずだ。真なるところは推し量れなくても、俺たちは二人とも、互いが対等であるという建前のもとで時間を共有していたはずだ。
だが、あの行為は違った。前提として、二者に上下関係がなくては成立しない行い。
下に見られるのはいい。叶歌より価値があるって胸を張れる人間など、そう多くはないだろうから。俺自身も、叶歌をどこか遠い世界の住人として認めてきたから。
だけど、それでも、名目上は横並びの存在としてふるまってきた。それが唯一、俺たちに課せられた法に違いなかった。
「勘違いしてるかもしれないけど、無理矢理キスしてきたこととか、遠慮なく舌突っ込まれたことについてなにか思ってるんじゃないんだ俺は。侵しちゃいけないルールを、お前が勝手に脅かした。だから――」
「――うそ!」
遮られ、眉をひそめる。俺はとっくに社会性フィルターを外しているから、発言が人道を踏み外すことはあっても俺の胸の内を裏切りはしない。嘘呼ばわりは心外だ。
「そんなことしてない!」
「はぁ? 今さらなにを」
「一瞬ちゅってしただけだもん。誇張しないでよ」
「……お前な」
言い訳にしても苦しい。状況から考えれば、明白なことなのだ。
「ちょっと考えろ」
部屋の前からずっと握りっぱなしだった手を引いて叶歌を胸に抱き、虚をついてベッドに押し倒す。荒っぽくて、遠慮も思いやりもない。それらはとうに捨ててきた。
綺麗な黒髪が、白いシーツの上で不規則に散らばっている。薄着を盛り上げる胸の膨らみと、腰に添えた手に伝わる滾る体温。こんな状況だというのに叶歌の頬は呆けたように赤らんで、まるで抗う様子を見せない。
全身で覆いかぶさる。脚の動きをこちらの体重で封じ、腰を抱き、腕をつかんで。もとから抵抗する気配がなかったのが、もはや今さら怖気づいても逃れられない形に。
そのまま、顔を近づける。言い訳が効くよう首から上だけは自由にしているのに、叶歌は目を逸らそうとしなかった。
そして。
「…………っ、うぅ~~~~~~~っ!!!!!!!!!」
わざと、唇から少しずれた場所に口づけた。今になって叶歌が手足をどたどた動かそうとしてくるが、体格に勝る俺が馬乗りになっている以上、それらは完全に封殺される。
「……わかったろ? 無理なの。この状況でちゅっとだけして終わるわけないんだよ。隙あらば舌だってねじ込むし、手が自由なら本能的に相手の体まさぐるようにできてるんだ、人間は」
「でも、でも私……」
俺だって、デモンストレーションじゃなかったら確実に胸まで手が伸びているところだ。
涙目で無罪を訴える叶歌。しかし残念なことに、爪が背中に食い込むくらい強く、右手で俺を抱き寄せてしまっている。
エクスキューズはない。自分の行動によって、証明が補強された。
「うそ、だもん。ほんとに、ちょっとだけ、ちゅって。私のファーストキスで、ひなとが逃げられないようにって」
「やっぱり計算ずくかよ……」
「うそ、うそうそ、うそぉ……」
そういえば、あのときの叶歌も今と同じように蕩けた熱っぽいまなざしを送っていた。
「私、そんなことしないもん……」
「したんだって。記憶が自分有利に書き換わってるだけ」
「だって、毎日毎日、何度も思い出して……」
「逆に、だろ。俺の行動が理解できなかったのをいいことに、より理屈が通りやすい形に思い出を修正したんだ、きっと。……お前も内心わかってたんじゃないのか、いきなり本気キスしたら引かれるかもしれないって」
「…………」
「……つーか、そこまでは計算してなかったのかよ。てっきり、俺は全部狙いの上だと」
「…………」
「それバレると、舌入れたのは完全に性欲由来って白状したことになるけど」
「言うなぁ……!」
俺ごときにマジになったのを認めたくないのか、自分の中のそういった欲求を穢れたものと思っているのか、どちらにしても、思っていたのとずいぶん違う。腹を割って話さないと、これは一生ブラックボックスだった。
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