第29話 あるいは
叶歌は、唯一動かせる右手で俺の背中をぽかぽか叩きながら、
「……でも、やっぱりひなとが悪いよ。そうでもしないと勝手にどっか行っちゃいそうって、私のこと不安にさせたくせに」
「だったら言えよ。そしたら聞いた。聞いて、ちゃんとその通りにした」
「知らないよ。わかんないよ……」
目尻に浮かび始めた涙を隠すように、ここにきて叶歌が初めて顔を背けた。――綺麗すぎる横顔に、初めて人間らしさを感じ取った気がする。
「……なんて言えば伝わったか、教えてよ」
「だから、そばにいてとか、一緒にいようとか、いくらでも……」
反射で答えてはっとする。これでは、あまりに――
「言えないよ。言えるわけ、ないじゃん。……私だって一応、ひなとがそういうの苦手そうなことくらい、わかってたのに」
進路が割れた別れの砌、友人に告げるには少々重すぎる。それこそ、一歩間違えば友人としての枠を逸脱しかねない言葉。
「自分で言えない雰囲気作ったくせに、今さらそんなの、無責任だよ……」
誰に対しても、それこそ叶歌にだって、一歩引いた印象を与えるような振る舞いを続けた。過去の轍を踏まないことばかり気にして、先の見通しなど立てようとすら思わなかった。
めぐりめぐって、結局は俺のせいというところに帰着する。見えた流れ。読めた展開。
だが、それでも。
「なんで」子供が駄々をこねるように、会話の流れを汲むことなく。「なんで、俺なんだよ」そのとき偶然隣にいただけの、ただの止まり木。境雛人の価値なんて、どう高く見積もってもそこ止まり。長く居付いたからって、とても住処にできる程じゃない。「やめてくれよ。欲しくないんだよ、そんなの」
乙幡叶歌の存在を信奉している。乙幡叶歌の審美眼に絶対の信頼を置いている。だから、彼女が見初めたものには、俺も当然価値を見出す必要がある。
境雛人の存在を軽蔑している。境雛人の行く末に、とっくに見切りをつけている。だから、俺を評価する人間の見る目のなさを、内心憐れまずにはいられない。
叶歌が評価する俺を、誰より俺自身が評価できない。その部分の矛盾、衝突を飲み込めない。受け入れられない。叶歌を立てようとすればそれは彼女への侮辱につながって、自分の感性に従っても、結局叶歌を貶めることになる。
最悪の二項対立。終わりの見えない二重螺旋が渦巻いて、気持ちの悪い思考が内側からあふれ出しそうだ。
「なんで」真向かいから、一点を見つめて。「なんでひなとじゃだめなの」今にも泣きだしそうな目で、強く訴えかけるように。「私が一番欲しいものがひなとにとっていらないもので、なんで悪いの」
悪いよ。理屈じゃないんだ。そんな感情、もらうわけにはいかない。
「知るか。俺の支えなんかなくても立てよ。お前なら、立てるはずなんだよ」
「立てないよ、もう」
叶歌は、腕に体重をかけながら、
「ひなとが、立てなくしたんだよ」
重い。俺が奪った、叶歌のアイデンティティ。腱を切って、羽を捥いで、あんなに自由で奔放だったやつを、小さなかごに閉じ込めてしまった。それどころか、大地より、大海より、大空より、その狭苦しい空間の方が心地よく感じられるよう、矯正してしまった。
変わるべくもないものを、手ずから無意識に変えた。変わらないと高をくくって、結果的にこのザマだ。
「それでも立ってくれよ。嫌なんだよ、もう。自分に失望するのにも、疲れた」
「うるさい」
俺の泣き言を一蹴する叶歌。「うるさい、うるさいうるさいうるさい……」涙声で語尾が滲んで、理性的な振る舞いが緩む。俺以上に、向こうがいっぱいいっぱいらしい。
「ひなとが、なんて言っても……」
叶歌の指が、俺の右手に絡む。首が持ち上がって肩口に収まる。それはまるで、あの日の体勢を上下逆にしたみたいで――
「……好きって気持ちが消えないよ」
耳もとで囁かれる決定的言葉に、脳が揺れた。はっきり言語化されるダメージがここまで大きいとは思わなかった。
「あんなに最悪な別れ方しても好きで、一切連絡取れなくなっても好きで、また会っても好きで、酷い昔話を聞かされても好きで、今、こんな八つ当たりみたいなことされてるのに、それでも、好き」
「…………っ」
「好きなんだよ。前よりも、ずっと」
俺は歪んでいるから、叶歌に合わせて真っすぐにはなれない。なりたくないわけではないけど、今さら、そんな方向転換は無理だ。
こいつはいつだって眩しくて、直視するだけで目が焼けそうになる。だというのに、足りないものを求めて焦がれて、自分の意思で隣に立った。きっと本当は、報いも裁きも終わりすら必要なかった。ただ、そのまま穏やかな時間が続くだけでよかった。
だけど現実は違って、眩しさに俺自ら影を差し、袂を別った。……だというのに、叶歌は再び俺の前に現れる選択をした。あまつさえ、言わずにおいていた内心まで、赤裸々に吐露して。
「……傷つけたいんだ」
沈黙という択はない。だから、こちらも飾らない胸の内を。
「ちゃんと、望んで傷つけたい。俺の意思で、行動で、誰かの、お前の人生に、傷をつけたい」
漠然と、誰も傷つかなければいいと思って生きてきた。その結果、通った道には死屍累々。上手くはできない。伸ばした手は空回る感覚しか覚えない。
だったらせめて、在るべきと思った形に、望みの傷跡を。背伸びをしない、身の丈にあった痛みを。
「たぶん、一生かかってもお前の気持ちには応えられない。それに見合うものを用意できる気がしない」
「…………」
叶歌の手に力がこもる。合わせて俺も、痣が残りかねないくらいの力で、彼女の細い体を抱きしめた。
「……だけど、お前の左側に立つのは、俺であって欲しいと思う。……いや、違うか」
主体をずらす。視点を変える。
「俺の右側には、お前だけが立ち入れるスペースがある。他の誰かじゃ、とても足りない」
一度、満ち足りる感覚を知ってしまった。パズルのピースがぴったりはまるように、これ以外はありえないという答えを得てしまった。
「……この空白は、たぶんお前以外で埋まらない。だから、境雛人の右側には、乙幡叶歌にいて欲しい」
言った。言って、その支離滅裂さに片目を眇めた。自分自身で理解不能なことを、どうやって他人に理解してもらおうというのか。
「結局なに?」
「えっと、つまりは……」
案の定物言いがついて、平易にまとめ直す手間が増える。要約する際に失ういくつかのニュアンスと感情を思って悶えるが、伝わらないことには始まらない。
「俺を許さなくていい」
自分本位な喚きを好き勝手に連ねる迷惑の化身。今の俺を評するなら、それ以外にない。
「だから、お前のこと、傷つけさせてくれ」
俺の持つ語彙で当事者意識というやつを訳すとこうなった。己の与り知らない結末なんて、もうまっぴらだ。
トリガーはこの手で引きたい。打ち出された銃弾が誰かの眉間を貫くにしろ、見当違いな方向に飛んでいくにしろ、それが自分で導いた末路だという実感が要る。
「どこか遠くじゃなくて、見える範囲で。ちょうど空いてる隣で、傷ついてくれ」
「また、酷いこと言ってるのわかってる?」
「ああ。わかって言ってる」
わかって、なお、言っている。
「好きだから一緒にいたい……とかなら楽だったんだけど、俺はもう、好きな人間ほど自分から遠ざけたい。得るもの以上に損なうものが多いことなんて、わかりきってる。だから、お前とは金輪際会わないのが一番なんだ。こうやって再会したのだって間違いで、今も余念なく、お前の傷を掘り起こしてる。お互いに、見える利がない。利がないことなら捨てた方がいい」
幸せに背を向ける回り道であるのは明白。とりわけ、等身大の幸せをつかみ取るべく生きている叶歌からすれば、一も二もなく回れ右すべき迂回路。
「でも、欲が消えない。あの美しい日々の残り火が、ずっと胸の中でくすぶったまま消えてくれない。……お前もそうだろ?」
叶歌が、わずかに頷く。あの道の続く先に求めるものがあるのだと、おそらく叶歌は誤認している。そして、それが誤認であることくらい、本人が一番よく理解している。
「妥協しよう」
相変わらず、最低な物言いだ。
「俺は、お前に健やかなまま幸せになって欲しいと思ってる。お前は、俺がありきたりでありふれた解決策を導くことに期待してる。……それを、両方折ろう。折って、苦虫嚙み潰して、両方の意に反する形を取ろう」
17ヶ月にわたって苛まれ続けた、右隣に乙幡叶歌がいない強烈な違和感。そして、再び彼女を右側に据えた今襲ってくる、比類ない罪悪感と忌避感。たぶん、俺はあの幸せな日々の中で、思った以上に脳をやられてしまっていた。やられて、使い物にならなくなって、使い物にならなくなったからこそ、こんなことしか言えない。
叶歌が右側にいないのはつらい。だからといって、叶歌が右側にいるのはもっとつらい。腐ったミカンが箱全体に腐り気をまき散らすように、俺はおそらく、叶歌の精神性になんらかの影響を及ぼしてしまう。昔こそ楽天的に、乙幡叶歌に限ってそんなことあるまいと舐めてかかれたが、今やそれは不可能。叶歌は変わる。好きになった男の影響であっさり変わって、しかもそれを望ましいことだと受け入れる。
俺にとって、乙幡叶歌は象徴だった。変わらないもの。変えようのないもの。変わって欲しくないもの。死ぬまで、そして死んでからもそのままであって欲しいもの。肌で感じる生物としての格の差に圧倒されるのが心地よくて、身を委ねた。俺が、叶歌に変えてもらう予定だった。不義理で、不道徳で、不実で、不純で、不埒で、およそ不から始まるすべての単語に適合しそうな俺を、なにかもっと惨めな存在まで貶めてもらう予定だったんだ。
でも、現実はそううまくいかなくて、悲しいことに他人への影響力は俺の方が上で。かつて一人で悠々と大地を踏みしめていたかに見えた叶歌の両の脚は、もはや誰かの支えなくして直立できないくらいに、弱り切っている。そんなかつての面影の欠片もない彼女の姿に俺は酷く動揺し、見かけ上の平静すら取り繕えなくなっている。
俺たちは、互いが互いに悪影響を及ぼす細胞で、ウイルスで、毒だ。食い合わせが悪すぎて、絶対に同じ食卓に並べてはいけない。そのくせ販売形式がニコイチなものだから、並べて提供するのが既定路線のようになってしまう。
男に染まって自分の色を変えていく叶歌なんて見たくない。向こうが欲しがっている感情や思いを、俺は叶歌に与えてやれない。だけど、俺も叶歌も、互いに相手の隣の居心地の良さを知って、心がそこを居場所と定めてしまっている。致命的に食い違って、交わらない。近くに立てば立つだけ、両者の棘が刺さりあう。そんな苦しいことは、金をもらったってすべきじゃない。
「やだ」
「え、あ……は?」
「ひなと、なんか綺麗になろうとしてる」
ついついとぼけた声を出した。二人の最大譲歩ライン上で結論を出せた気でいる。認めるのは癪だけれど、だからって拒否するには惜しい。それくらいの塩梅に。であれば、『やだ』なんて返答は、ありうべからざるもののはずで。
「一人で、浸ってるでしょ。いっぱい考えて、いっぱい悩んで、これしかないって決めて、ちょっと気持ちよくなってる。でもね、全然良くないよ」
「確かに、その気持ちは否定しないけど……」
「だめ。もっと汚くて、気持ち悪くなってくれなきゃやだ」
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