第30話 境雛人の右側
叶歌は、そのまま変わらず耳もとで囁く。「たとえば」耳朶を打つ声に、からかいの色を見つけた。「こういうの、想像して」
「実はここまでの話は全部嘘で、私はあの次の日にはほとんど立ち直ったの。でも、ショックなものはショック。かなりお気に入りだった男の子にするっと逃げられて、ムカムカが止まらない。全部あげる予定だった私の初めてはほとんど残りっぱなしで、邪魔くさい。いくらこれまで大切にしてきたものだって言っても、どこかに捨てる覚悟をしちゃった後はただの重りだもんね。それで、私はその重りを外したくてたまらなくなるの」
滑らかに、饒舌に、叶歌は続きを口にする。
「ひなとも知ってる通り、私、かわいいから。それも、超かわいいから。だけど、ひなとに突き放されたせいで不安になってる。自分が本当にかわいいかどうか、確かめたくなってる。そうと決まればやり方は簡単で、夜、人通りが多い時間の駅前をふらっと歩くだけでいいの。そうすると、ナンパ目的でうろうろしてる人がみーんな寄ってくる。わかるよね。わかるでしょ。ひなとがいたって声かけられるんだから、いなくなったらすごいよ。次から次へひっきりなしに、下心なんて全然隠さないで、ご飯どこに食べに行こうかとか、家がここから近いんだとか、こういう車に乗ってるんだとか、若い人もおじさんも、お金持ちもイケメンも、私のことで夢中になっちゃう。でね、私はちょっとだけヤケになってるから、ひなとに全然似てない、背も高くなくて頭も良くなさそうで思いやりも優しさもなくて四六時中女の子の胸とお尻のことばっかり考えてそうな人について行っちゃうの。ご飯食べるだけって言ってね。でも、私はやっぱりヤケだから、ひなとと一緒に飲むつもりだったお酒を勢いで名前も知らない、明日には顔も思い出せなくなりそうな人と飲んで、頭がぽわぽわしちゃって、そのままホテルに連れ込まれちゃって、それで――」
「――ストップ」
思わず、制止した。作り話だと頭ではわかっている。誘い受けの自傷行為だとも承知している。そのうえで、止めた。
「ね、教えて」
叶歌の吐息が甘い。「なんで止めたか」言葉に、有無を言わせない迫力がある。俺に向かって、綺麗なまま終わるなんて許さないと告げている。参った。これじゃあまるで、憧れ焦がれた偶像の乙幡叶歌が、再び目の前に現れたみたいだ。
「……聞きたくないから」
「だから、なんで」
「お前の口からその手の話題が出るって、認めたくない」
「いいじゃん。ひなとは、私のこといらないんだから。だったら、私の顔をかわいいって言って、私の体を綺麗って言ってくれる人にもらわれなきゃだよ」
「……俺も」
「なに」
「俺も、散々言ったろ。お前は瞬きできなくなるくらいかわいくて、一度見たら二度と忘れないくらい綺麗で、魅力という魅力をありったけ贅沢に詰め込んだ、嘘みたいな女だって」
ああ、クソ。自分の感情が制御できない。でも、これはおかしい。感情の話をしにきたはずなのに、感情のコントロールができずに憤っている。――なんて、わかっている。俺は、やるとなったからって簡単に理性を手放したりできるほど豪快じゃない。小心で、臆病で、リソースを全て注いでそれっぽいポーズを取っていたにすぎない。
叶歌は、見抜く。見抜いて、剥がす。つまらない仮面と、本音を覆う建前を。
「でも、嘘じゃん。捨てたじゃん。考えてたのは昔のことばっかりで、私のことなんか、本当はどうでもよかったんでしょ。だって、ひなとが今言った通りのこと思ってたら、あのまま全部しちゃうのがいいに決まってるじゃん。私に彼氏はいなくて、ひなとにも彼女はいなくて、わたしはひなとが好きで、ひなとは私のことかわいいって思ってて、だから、絶対、二人とも、最高に気持ちよくなれたはずで」
「黙れよ」
語気が強まる。腕の中の叶歌が、一瞬びくりと震えた。
「なんでわざわざ性器どうしの摩擦にお前を巻き込まなきゃいけないんだよ。どうでもいいだろ、そんなの。百害あって一利ねえよ。狭苦しい穴ぼこと高い鳴き声だけあれば、男なんてみんなおかしくなるんだよ。お前以外で満たされるものを、お前で満たしてどうする。隣にいてくれるだけで幸せだった女の子に、そういうの、望んでねえよ」
「望んでよ!」
叶歌が、大きく声を張った。俺に言いたいことがありすぎて仕方ないという様子だった。
「私だって、ひなとが隣にいればそれでよかったよ。よかったけどさ、それだけって、無理じゃん。なにもなくずっと隣にいてくれる人なんて、いるわけないんだから。欲しいよ、証拠。私以外で満たされることを、わざわざ私で満たして欲しかったよ」
さしぐみつつ、叶歌が続ける。
「いっぱいあるよ、私にしかできないこと。きっと、同い年の女の子の何倍、何十倍、何百倍って。だから、私にしかできないことになんて全然興味ない。誰にでもできることなのに、私にやって欲しかった。そういうのが、いいんじゃん」
「わかるか、そんな贅沢な悩み」
「うるさい。うるさいうるさいうるさい。私、ひなとに気持ちよくなってもらいたかった。きっと、私で気持ちよくなってるひなとを見るのが、私にとって一番気持ちいいことだから」
「そんな倒錯に付き合わされる身にもなれよ」
「かわいすぎるから手を出したくないっていう方がどうかしてる」
少し顔を動かすだけで、唇を触れ合わせることができる距離。数枚の布を取り払うだけで、物理的な結合が可能になる距離。その触れ合わない曖昧な距離で、俺たちは17ヶ月分の醜くて汚い、酷く生物的な欲求と鬱憤を晴らしていく。
「でもさあ、それだったら、私がひなと以外のどんな人としたっていいことになるよ。その相手には心に決めた大事な人がいて、ちょうど顔と体が最高な私を見つけたから、大事な人を傷つけないために私で性欲をどうにかするの。ほら、これでひなとの言う通り」
「そうなるわけないって、お前が一番知ってるはずだ。お前とそんなすごいことができたら、どんな男も狂ったように夢中になって、元あった大切なものなんて全部どうでもよくなる。あり得ない仮定から導かれた結論に意味はない」
「わかってるじゃん。ひなと、わかってるじゃん。私も、狂ったように夢中になって欲しかった。ひなとが私にぶくぶく溺れるの見て、気持ちよくなりたかった」
「それって、俺で遊んでるだけだ。大事に手入れしてきた道具だからこそ、壊れたときの感触が気になるんだ」
「壊れてよ」
叶歌が、切実に言う。
「私に、ひなとのこと、壊させてよ」
他人を思いすぎると、人は時折どうにかなってしまう。しかもタチの悪いことに、どうにかなるのはすごく気持ちがいい。自分の中にある社会正義や倫理観とのせめぎ合いに肉欲が打ち勝つのは、得も言われぬ爽快感がある。ああ、自分も所詮は一匹の動物なんだって落胆したあと、それ以上に安心して、興奮する。
叶歌は、それだ。俺のことばかり考えて、考えて、考えて、考え尽くした末に、おかしくなった。そしてたぶん、俺でおかしくなれたことに、どこか喜んでいる節がある。
「ひなとに壊された私がひなとのことを壊すのって、きっと、最高だよ」
「倒錯だって言ってるんだ。認められるか」
「だって私、もう、どうにもならないよ。昨日、ひなとの昔の彼女の話聞いて、バカだなって思っちゃった。他の女の子に気を散らせちゃうなんて。相手に気を遣って、ひなとのこと手放しちゃうなんて。私なら絶対そうさせない。脳みそドロドロにして、私以外見えなくする。させる」
「お前、俺の……」
「ひなとは私のことを傷つけたい。私はひなとのことを壊したい。これ、どこが違うの?」
突かれると痛いところだ。別種の感情であるのは明らかなのに、言葉の表面をなぞると同じ意味に聞こえる。
「もういい」
叶歌が身をよじる。このまま力を加え続けていては彼女の体が物理的に壊れそうで、つい、脚をどける。
ベッドから立ち上がった叶歌の行動は早かった。乱れた着衣も意に介さず、一直線に玄関を目指し始める。俺は、とりあえずその後ろ姿を追う。
「今から駅行く。知ってる? ここ、ナンパの人すごいよ。地元と比べちゃいけないくらい、ギラギラした人がいっぱい。その中から、適当に選ぶ。最初に声をかけてくれた人でもいいし、一番ひなととかけ離れた人でもいい。あ、いっそ全員一緒でもいいや。文句ないでしょ。ひなと、私になにか言える立場じゃないもんね」
「……………………」
胃の中で、俺の内部の良くない感情がごった煮になっている。ぐつぐつ煮えて、原型を失って、新たに再形成されようとしている。「……ダメだ」「だから、言える立場じゃ――」「――いやだ」
自分でも情けなくなるくらいの、消え入るような懇願。俺の奥底の、一番気持ち悪くて目を背けたい感情が、そこにはあった。
「いやだ。いやだいやだいやだ……」
また、叶歌の手を掴む。力加減なく強引に、後ろから抱きしめる。
「そんなの、絶対、いやだ……」
暴走している。見つめたくない内面の俺が、見られることを意識する外面の俺と入れ替わる。
「お前が、どこの誰とも知れないやつにいいようにされるなんて、絶対いやだ……」
誰かが訴えている。間違いなく、俺の方がいいって。そうした方が叶歌も喜ぶって。
「お前が誰かに抱かれるところなんて、想像もしたくない……」
叶歌を抱きたいわけじゃない。だけど、ただ気持ちよくなりたいって理由で抱く有象無象の男を、俺はきっと許せない。なんの権限があってそんなことを決めるんだという話だけど、とにかく、許せない。
だって。
目の前の、女の子は。
「俺のだ」
高校時代も、離れてしまった17ヶ月も、今も。
「叶歌は、俺のだ。俺だけの、もの、なんだ……」
世界一かっこ悪い台詞を、世界一情けなく抱き着きながら吐き散らかし、そのままずるずる床にへたりこむ。
その様子を、真上から見下ろした叶歌は、
「遅い。さっさとそう言え」
実に機嫌よさそうな声色で、ただ一言、そう言ったのだった。
********************
「傷、つけなくちゃ」
「ああ、うん……」
数時間後。むき出しの感情をぶつけ合った余韻が少しだけ冷めて、ようやく二人とも冷静になり始めた頃合いで、叶歌が提案した。
「全然乗り気じゃなくない? ひなとが言い出しっぺなのに」
「いや、落ち着いたら急に死にたくなってきて。なあ叶歌、俺のこと殺してもらえたりするか」
「もう傷だらけだね」
「らしい」
「かのかは~~~おれだけの~~~ものだ~~~!!!!!」
「やめろ。犯すぞ」
「いいよ。その前にお風呂はいろ」
「やめろ。犯すぞ」
「いいよ。その前にお風呂はいろ」
「…………」
「…………」
千日手だ。場が膠着してしまった。彼女の操を狙うのは、相手が俺である場合に限って、歓迎されることらしい。だからきっと、犯すとかいって覆いかぶさっても普通にキスから始まるし、きゃんきゃん喘ぐだろうし、場合によっては叶歌が上になったりする。もしかすると、犯されるのは俺のプライドの方かもしれない。
「つけるか、傷……」
あくまで比喩的表現だった。心に傷が残るような、という意味で、言った。
「ん。噛む?」
なのに叶歌は、平然とその白く滑らかな首筋を俺の目の前に晒してくる。目に見える傷跡をつけたがっていると解釈している。
これだから、日本語は難しい。伝えたいことは伝わらず、伝えたくないことばかりが伝わる。風流とか雅とか言って誤魔化すのにも限度がある。
「噛まない。痕残るほど強く噛めないよ、俺」
そんなのよっぽどイカれたやつか、そうじゃなかったら精神的に限界まで高揚している瞬間かじゃなきゃ無理。たとえばさっき、みっともなくへたりこんだ直後であればできたかも。
だが、そうなると難しい。残る傷……リストカットとか? いや、そういうガチで命にかかわるのはちょっと……。
「あ」
そこで、思い出した。この状況におあつらえ向きな、凶器の存在を。
********************
俺は右で、叶歌は左だ。誕生祝で実家から贈られた日本酒を麻酔代わりに飲んで、俺たちは割と酔っぱらっている。酔っぱらっていないと、きっとこんな恥ずかしいことはできない。
「せーの………………で行くぞ」
「びっくりした。押すかと思っちゃった」
「じゃあ、本当に行くからな」
「うん」
せーの。言葉が重なる。直後にかしゅんと気の抜けた音が鳴って、鈍い痛みが脳に届いた。「いってえ」「いたあ……」お互いの耳に間抜けなアクセサリーがくっつく。それを見て、交差させた手を離す。用済みのピアッサーを、適当に放り投げる。
もしかすると、この日のために通販業者は梱包ミスをしてくれたのかもしれない。俺が確かに傷つけた叶歌を見ながら、そんなことを考える。そして、考えたまま口にした。我ながら、ロマンチックだ。
「二個セットの買ってただけじゃないの?」
「夢も希望もあったもんじゃない」
「あはは」
耳もとにぶら下がる重みを確かめながら、朗らかに笑う叶歌を眺める。俺が奪った快活な笑顔。俺のみっともなさで戻ってきた、快活な笑顔。
現実を再三噛みしめ、感傷に浸る。そのときだった。
「ひなと」
「おう」
「ハッピーバースデー」
頭突きの要領で、だけど柔らかく、叶歌が俺の胸に着地する。そのことの意味を噛みしめながら、そっと右手を背中に添えた。「また言って、あれ」「やだ。恥ずいし」「あー、今ものすごいマッチングアプリ始めたい気分」「……お前は俺の。ほら、満足か」「……うん」
優しい痛みが耳に残る。消えない傷になればいいと、そんなどうしようもないことを思った。
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