第31話 日常、のような

 長く睡眠から遠ざかった体にアルコールが入り、余計ボロボロだ。だけど眠るに眠れなくて、ふらふらの足取りで例のファミレスに向かった。深夜だけあって客入りはないに等しく、俺たちはなんとなくで以前と同じ席に座る。

 シフトが変わったのか、夕方と同じ店員は見当たらない。助かる。短期間に何度も来るところを見られるのは少々気まずい。


「あぅ……。もうちょっとかわいいお酒にすればよかった……」

「チューハイとかから始めたかったな……」


 なんとも気だるい。おそらく父が選んでくれたのだろう立派な包みに梱包された日本酒は、味わう味わわないの前に強烈すぎた。二人とも確かめるようにコップ半分くらいずつ飲んだが、若さゆえか、リバウンドが早い。すっかり酔いが回って、俺も叶歌も赤ら顔だ。


「なに食べる。アイスとか?」

「パフェ行っちゃおうよ。効きそう」


 叶歌の勘を信じることにした。深夜の割り増し料金で運ばれてくるパフェは一回り大きく見え……なんてことはなく、かつて地元で見たサイズと同じ。月日が経って小さくなっていないならそれだけで上等だと、チョコレートクリームのかかったアイス部分をひと掬い。


「うわ、舌麻痺ってる……」

「私はそんなことないけど」


 些細な違いだが、拾えなくなった味の層がある。今後、酒と一緒に料理をいただいていいかどうか、一考が必要になりそうだ。

 と、そんなことはどうでもよくて。


「お前、これからどうすんの?」


 数時間前と同じ内容の質問。だから当然、意味の取り違えは起こらない。


「眠って、元気になったら帰る」

「だな。親御さんも心配してそうだ」

「…………」


  一つのパフェを二人でつつく。とろけたバニラが容器の端に伝ったのを見て、反射でスプーンを出した。奇しくも叶歌が同じ行動をとり、深夜の静寂に、食器どうしのぶつかる音がこだまする。――なにかのメタファーっぽくなったが、全然そんなことはなかった。叶歌が伏し目がちにこちらを見つめてくるが、やっぱり、全然そんなことはないのだった。


「……寝床は考え中」


 実は全然そんなことなくないのかもしれなかった。さっきの今で思考が開放的になっているのは間違いないだろうが、その発言に至るまでの経緯と要因を考えればとても短慮とはいえない。「まあ、うん、まあ……」となんとも煮え切らない、男らしくない返事をして、「決まったら教えて」の一言でフィニッシュ。直後、テーブル下ですねを蹴られた。


「痛すぎ」

「うん。決めた。普通に8時間寝る」

「もうお前のことまるでわかんないから素直に降参して聞くんだが、それは眠らせない方がいいやつなのか?」

「ひなとにちょっとむかついたのはそうだけど……」


 穴が開きたての耳たぶをもにもに揉んで、叶歌がにへっと柔らかく笑う。――それもまた、なにかのメタファーに思えた。


「今はいいや。なんか、結構、満足。おなかいっぱい」

「スプーン動かしてるのに?」

「デザートは別腹に決まってるよ」


 あと、と継ぐ。柔らかい笑みに、どこか妖しい色が混じる。


「今えっちしたらひなとのこと絶対許しちゃうし」

「簡単すぎるな」

「許さなくていいんでしょ? 後悔させるよ、さっき無理矢理しとけばよかった~って」

「趣味じゃない」


 そう? と叶歌が首を傾げた。俺をなんだと思っているんだとたしなめたかったが、どう思われてもおかしくない立場なのは事実だった。

 肩ひじ張らずに会話するのは、本当に久しぶりだ。その相手が叶歌であることが、今は、素直にうれしい。


「ついでに、これもらってくね。許さないから」

「なんでもそれが理由にできそうで怖いな。いいよ。もってけ。一応、摩耗してないスペアもあるけど」

「ううん、これにする。許さないから」

「芸に昇華しようと試みるな」

「バレた?」


 バレバレだ。言って、叶歌は俺の部屋の鍵を、そっと懐にしまった。それはつまるところ再会の約束であり、「じゃあな」が「またな」に転じたことを意味している。会おうと思えば、また何度でも会える。そんな当たり前のことが当たり前じゃなくなって、時間をかけて、再度当たり前にした。プラスマイナスゼロ。行って来て。トントン。なにも増えておらず、なにも減っていない。だが、労力には見合っている。


「ちょっと明るくなってきたね」


 夏の朝は早い。いつのまにか空は白み始めて、長い夜の終わりを告げた。


 朝陽を受けた叶歌の青い瞳が、かすかに、輝いた。


********************


 翌日、昼。非礼を詫びるのに篠さんの予定を尋ねたら今すぐ大丈夫だということで、急遽駅近くの喫茶店に集合することになった。急いで向かうと、相変わらず肌色が多い服装の篠さんが先着していた。


「詫びる側が遅れるとはどういう了見だねキミぃ」

「いやこれ最速……」

「いーや違うね。マンション飛び出したときのスピードならあと5分はタイム縮んだと見えるね」

「ほんとごめんなさい……」


 勝手に心を決め、勝手に部屋を出ていった。説明の一つくらいしてしかるべきシーンで、しかし俺には一秒が惜しかったのでその手間すら省いた。大いに遅れた分だけ、頭を下げなくてはならない。


「ま、顔あげなよ」

「今日はずっとこうしていようかと」

「やめ。わたしが年下いじめを楽しむサディストに見えたらどうしてくれる」

「それ含めて頭下げます」

「なんにも解決してないぞー、それ」


 手で促されたので、さすがに面をあげた。どれほどお怒りのことかと表情を窺うと、意外や意外、笑顔だ。


「元気そうじゃん。いいことあった?」

「クマ酷いことになってません、俺?」

「その点加味しても元気そうだよ。わたしが知る先生史上もっともエネルギッシュ」


 憑き物が落ちたようだ、と篠さんは言った。事実、長いこと俺を苦しめたいくつかの身体的不調は昨日を機にすっかり鳴りをひそめている。


「おかげさまで、色々と」

「役に立てたなら幸いだよ。たぶん、微々たる貢献だろうけど」

「どうですかね、俺が潰れるまでのリミットを、ずいぶん篠さんに伸ばしてもらった気がします」


 こんなのは、言うまでもなく当たり前のことだけど。


「誰かとのかかわりを抜きに、今の自分は語れません。だから、俺がここにいられるのは、篠さんのおかげ」


 ふと、高校時代の記憶を思い出した。一人の、印象的な同級生。叶歌を除けば高三時点まで唯一友人と呼びえた、どこか病的で、線の細い男。


「自分を形作ってくれた全てに、俺は感謝しますよ」

 

 そいつの言葉を引用して、もう一度頭を下げる。あの日のことについてそれより追及されることも、俺が言及することもなく、コーヒーを二杯空にしたあたりで解散することになった。


 じゃあねと告げる篠さんの横顔が、やけに強く脳裏に焼き付いた。


********************


 なんとなくセンチな気分になったまま、他に用事らしい用事もないので家まで直帰する。買い出しにスーパーまで足を伸ばすのもアリだったが、なんとなく気は向かなかった。


 良く晴れた、暑すぎる空の下を行く。無意識に、右側に人ひとりぶんのスペースを確保しながら。まだ、夏は長い。休みもかなり残っている。金の使い道なくバイトを始めたせいでまとまった貯金ができており、そろそろ使途が必要になってきた。贅沢をしなければ、ちょっとした旅行くらいには行けると思う。……機を見て誘うか。あいつ、暇そうだし。海沿いの料理がおいしいところがいい。のどかで、風情があって、都会の喧騒を感じない場所であればもっといい。けれど実をいうと、隣に特定の誰かさんがいれば、それだけでいい。


 脳内でスケジューリングを進めながら、アパートに着く。解錠すべく鍵を差し入れる。……そこに、少しの違和感がある。鍵がかかっていないのだ。


「かけ忘れか……?」


 急いでいたし、十分ありうる。つい最近、焦ってやらかしたばかり。学習しないなと頭をかきつつ中に入ると――玄関に、巨大な旅行バッグが放置されていた。


「テロリズム?」


 爆弾か。生物兵器か。どちらにせよ、覚えのない斬新な手法には違いなかった。そして一秒後に、謎の感心はすっかり霧消することになる。


「おひさ」

「……昨日ぶりの相手に贈るワードかよ、それ」


 漫画を両手に寝転び、これ以上なく寛いだ様子の乙幡叶歌がいた。さも、当然のように。


「え、え、なに?」

「家帰ってもやることなくて、暇だし。手元にはなんか鍵あるし、新幹線の当日券なんて簡単に買えるし」

「…………」

「じゃあ、住むしかないかなって」


 ふ、と変な笑いが出た。そうだった。天衣無縫。傍若無人。こいつは元々、こういうやつだった。

 どうやら、本当に全盛期の叶歌が帰還したらしい。俺はそのことに一喜したり一憂したりしつつ、乙幡叶歌の左側に腰を下ろした。

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乙幡叶歌の左側 鳴瀬息吹 @narusenarusenaruse

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