第27話 正方形

 玄関ドアに背中を預けて、星の見えない夜空を眺める。かれこれ二時間くらいずっとこうしているような気がする。

 用事は終わった。ほとんど、終わった。なのにまだひなとの家から離れられていないのは、ほんの少しの心残りが消えないから。

 酷い話を聞かされて、一晩経って今になっても、全身がふわふわ浮かぶ感覚が残っている。ジェットコースターのてっぺんにたどり着いて、一秒後には落っこちそうなあの感覚。


(なんか……)


 全然、違ったなあ。思ってたのと、全然。私が見てた景色とひなとが見てた景色は、まるで違ったんだ。私がはしゃいでいるそばで、きっとひなとは昔のことばっかり考えてた。どこにいても、どんな話をしていても、私の向こう側にある遠い世界を見通してた。私がひなとを見ている間、ひなとは私以外のものを見てた。

 好かれるとか、嫌われるとか、あの日以来ずっとそんなことを考えてきた。好かれてなかったから拒まれて、嫌われてたから離されて、だけど私には、ひなとからそこそこ好かれてるはずだって確信があって。思ったことと起こったことが食い違うから苦しくて、湿った枕に顔をうずめて何度も何度も記憶を掘り返して。だけど、どうしても理由がわからなかったから、そのたび涙があふれてきた。


「わかんないよ。そんなの……」


 勝手な期待を押し付けられた。私は、その期待通りにできなかった。だからって、それは私のせいなのかな。色んな人に色んなことを望まれる人生の途中で出会った、私を型にはめない人。――だと思っていたひなとが、本当は一番、私になにかを期待してた。それが他の人と比べて大きすぎたから、私はなにもないんだって勘違いした。

 本当に、本当に、本当に、酷い話。納得いかない。理解できない。許せない。認められない。――なのに全然、あの頃の記憶が消えてくれない。


 今さらなにを言われたって、あの思い出が輝いて綺麗なのは変わらなかった。楽しくて、大切で、かけがえなくて。あれがきっと、私の全部。乙幡叶歌を形作っているすべて。どんな理由があったか聞いて、どんな目的があったかわかったところで、なかったことになんてできない。

 

 一緒にいた時間にもらった、たくさんの優しさと思いやり。それだけは本当だったと信じてる。いつも左側に立ってくれた。さりげなく歩幅を合わせてくれた。盗撮目的のレンズから盾になってくれた。……そして、いつでもそばにいれくれた。

 うれしかった。自分のその感情に、嘘はつけない。


 私の、乙幡叶歌の左側は、今でも境雛人の場所なんだ。他の誰かでは埋められない、永久の空席。ひなとにだけ座らせるって決めた、指定席。


 だけどやっぱり、今もそこは空っぽのままで――


「寂しいよ……」


 ドアに体重をかけたまま、ぺたんとへたりこむ。相変わらず、星は見えない。なにも輝かない、窮屈な暗がり。間もなく日付が変わるのに、私の心はずっと今日に置き去りにされそうな気がした。


「――お前、結構独り言激しいよな」


 急な声に、びくんと背筋が伸びた。


 境雛人が、左隣に立っていた。


********************


「任せろ。辛いこと、苦しいこと、嫌なことぜーんぶ忘れちゃえ」

「ありがと、篠さん。でも……」


 腕を大きく開いて俺を迎え入れる姿勢を取ってくれた篠さんに、歪んで曲がった弱さを告げる。さも、自分が正しいみたいに。


「報いも、救いも、癒しも、ちゃんと苦しみ切った果てに与えられるものであって欲しいから。だから、まだ要らない。もう少し、苦しみたい」


 足りない。なにもかもが、今の俺には足りていない。満たす努力をする前に、自分勝手に膝を折れない。


 思い出したことがある。他愛のない、とっくに忘れてしまっていた記憶。もしかしたら誰も覚えていないかもしれないけど、糸はか細いながらに結ばれた。


 なら、足を動かさなくちゃ。終わっていない。あの日々は、今も確かに続いているのだから。


「――行かなきゃ、俺」


********************


「使うよ」


 手持ちがなくて下で待機させっぱなしだったタクシーに、どこか触れることがためらわれた五千円札をすっと手渡した。このときのために必要だった……となると言いすぎだろうが、コンビニまで足を運ぶ手間が省けるだけ上々。


 おおかたの予想通り、叶歌はまだこの地を去っていなかった。我が家のドアを背もたれに、なにか物思いにふけっている。その横顔が幼い少女のようにも人生経験を積んだ大人の女性のようにも見え、タイミングもわきまえずに一瞬見とれた。まるで、野暮ったいコンクリートジャングルにファンシーな絵本のキャラクターが紛れ込んだみたいだ。


「え、ひなと、用事だって」

「切り上げた」

「なんで」

「なんでって……」


 帰る予定のなかった人間を待っていた自分がそれを聞くのか。そう思う程度には望み薄な賭け……だったんだろうな。

 信用ないな、俺。当然だけど。


「それより優先度の高い用事を思い出したから、じゃないか」

 

 ずっと思考の隅に引っかかってはいたんだ。叶歌と曲がり角で衝突したあの日のこと。

 この場所で会うのは当然だとして、なぜそれが今だったのか。作為的であるのは明らかだったが、どうしても納得に足る理由が見当たらなかった。学生が賃貸から出ていく可能性が高い時期に押しかけるからには、今以外ではだめな要因があるはず。しかし叶歌のフットワークの軽さを思えば、完全な気まぐれである可能性も捨てきれない。

 悶々しているうちに他のインパクトある話題に埋もれてしまったが、謎は謎のままだ。それを、ついさっきようやく突き止めた。


 誕生日。それも、二十歳の。一生に一度きり、成人を迎える頃合い。気づいてしまえば簡単もいいところだが、灯台下暗し、簡単すぎたせいでかえって見えなくなっていた。


 蘇るのは、懐かしい思い出。受験を目前に控えた初詣の夜。凍えた体を甘酒で温めながら交わした、取るに足らない会話。


『あまざけー。酔う~~~』

『甘酒で場酔いしてたらガチのアルコールでは失神するかもな』

『えー、どうかな? 私、律儀に今までお酒一滴も飲んだことないからわかんないや』

『俺に聞かれても。同じくノータッチで生きてきたもので』

『あっ、じゃあさ――』


「待つって言ってた。俺の誕生日が来るまで、酒飲むの」


 社交辞令みたいなものだ。それを今の今まで大切に抱えているだろうなんて、馬鹿げた妄想にすぎない。

 だけど俺はその一縷の光に縋りついて、結果、叶歌はここにいた。……ここにいてくれた。


「今戻らないと、酒飲めないままお前が一生を終えるんじゃないかと思って」


 手を取って、叶歌の腕時計で時間を確認する。――ちょうど、短針、長針、秒針が同じ方向を指し示した。「……間に合ったってことにしていい?」「なわけない。おそすぎ」

 

 だよな、と苦笑いを浮かべる俺に、叶歌が一言。


「あんな雑談、本気にしてたんだ」

「どの口で」


 もしかしたら俺以上にその約束を信じ、頼りにしていたくせに。

 取ったままの手を引き、三度、叶歌を部屋に招き入れる。どうやっても噛み合わなかった歯車がやっと一致したような、不思議な感覚があった。

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