乙幡叶歌の左側

鳴瀬息吹

第1話 境雛人 失策①

 唇と唇が触れ合う感触は、他のあらゆる行為や現象にも喩えられない。このことに気が付けたのは収穫だったが、残念ながら畑に植わっていたのは絶望や失敗といったマイナス方面の感情ばかりだった。


********************


 人生に成績表があるとしたら、まず間違いなく備考欄に『人付き合いが下手』と書き込まれる。俺としても、そのことに異存はない。境雛人さかいひなとは、人類すべてをリストアップしてもかなり下の方に名を連ねる程度には、人との関わりが不得手だ。

 会話が続かない、わけではない。友達ができない、わけではない。人付き合いの得手不得手というのは、そういうことではない。もっと根本的な部分に、俺は問題を抱えている。


 わかりやすい例を提示するために、まずは乙幡叶歌おとはたかのかについて知ってもらう必要がある。


 乙幡叶歌。高校二年生、三年生と、同じクラスに在籍していた女子。あえてチープな言い回しをするなら、絶世の美女。パーツの造りどうこうを論じるのが億劫に感じられるほど、完成された容姿の持ち主だった。その美しさといったらすさまじいことこの上なく、これまで目にした人間の中で断トツのトップ。無論、目にしたというのは直に対面した相手のみを指さない。テレビとか雑誌とか、あらゆる媒体を通じて蓄積した経験の中でトップということだ。対抗馬には当然のようにアイドル女優モデルがずらりで、しかしそういった確固たる肩書の持ち主が足元にも及ばない。美の化身。あるいは、神様の特注品。彼女を見ていると、そんなふざけた言葉ばかりが頭をよぎった。


「叶歌、芸能界行かないの?」


 ある日、何の気なしに尋ねた。幸か不幸か俺たちの住処は東北の地方都市だったから彼女は世界に見つからずに済んでいるが、ちょっとやる気を出して竹下通りくんだりにでも出向けば芸能界入りなんて一発だ。乙幡叶歌の美貌なら、スカウトが列をなして勧誘に来る。


「芸能界ってさー、自分が一番綺麗だと思ってる女の人とか、自分が一番かわいいと信じてる女の子しかいないとこでしょ。そこに私が行っちゃったら、かわいそうじゃん」

「なして?」

「だって、一番綺麗なのも一番かわいいのも私でしょ? 私を見たらみんな落ち込んじゃって仕事になんないよ」


 ふざけた発言。冗談の類。誰が口にしても一笑に付されるような世迷言だったが、世界で唯一、叶歌だけがその『誰』に含まれていなかった。

 彼女は正しく認識している。自分の容姿が、他の人間とは一線を画すものであることを。それは驕りでも昂ぶりでもなく厳然とした事実で、異議を唱えるものは、ついぞ現れやしなかった。――そんなやつと、俺は仲良くしていた。


 最初に接触してきたのは向こう。高一のときに起こしたいざこざで俺の名前は多少広まっており、叶歌はそのことに興味を持っていたらしい。学年が繰り上がって同じクラスに配属され、それを機に会話が生まれた。所作の一つを取っても別次元の生き物感が漂う叶歌に最初は気後れしたものだったが、あまり構えすぎても仕方ないと割り切って、いつの間にか馴染んでいた。

 容姿に隠れがちだが、叶歌は考え方も斜め上だ。自分の美しさを最大限引き出す方法を感覚レベルで熟知しており、『美しいこと』で獲得できるアドバンテージは逃さない。簡明に言えば、頭が良かった。座学に秀でているという意味ではなく、己の手札をよく知っていて、それを最適なタイミングで切れる才覚の持ち主だった。処世術に長けている、と形容すべきか。

 お互い、波長が合ったのだと思う。性格は似ても似つかないし、容姿は到底釣り合うレベルにない。しかしながら会話のリズムに共通項がいくつかあって、話していて楽だった。

 それとは別に、利害の一致もあった。


「すごいイケメンと結婚してねー、すごいかわいい子ども産むの。どうよ。いい夢でしょ」

「実現ラインを大幅に下回ってるって意味で分不相応な夢じゃない? お前ならウン十億のプール付き大豪邸で悠々自適に生活できそうだけど」

「そこまではダルいよ~。100パー疲れる。絶対幸せじゃないって」


 叶歌は、自分が幸せであることにとことんこだわる。それこそ、貪欲なまでに。その結果として行きついたのが彼女が望むにしては慎ましい夢だというのなら、こちらに否定の言葉はない。


「私はかわいく生んでもらえてめっちゃ得したから、自分の子どもにもそうなって欲しいじゃん。あと、シンプルに子ども好き」

「いいじゃん。裏で勝手に応援しとく」

「表に出ろよ~。裏隠れんな~」


 恋愛がらみで何度か大やけどをして当面色恋沙汰とは距離を取りたいと思っていた俺と、『すごいイケメン』以外は恋愛対象に含めない叶歌。もちろん俺はすごいイケメンなどではないから、対象外。そのことがものすごく気楽だった。男と仲良くしようが女と仲良くしようが最後は恋愛周りの問題に発展してなにもかも台無しにする人生だったから、そこに至らないことが確約されている相手の貴重さといったらなかった。

 これでは俺の利ばかりだが、楽しいこと以外はしないという信条を掲げる叶歌が俺との付き合いを継続する以上、そこにはたぶん利益がある。だから、俺たち二人は利害の一致でつながれた。


 高校三年間を通して、一番長く時間を共有した相手が叶歌だった。叶歌からしても、相手は俺だったと思う。学校帰りに思い付きで海の見える場所まで遠出したり、ガラガラの電車を乗り継いで訪れた名前も知らない街をぶらついてみたり、夏休みを使って何日間かキャンプしてみたり、叶歌が思いついた楽しいことに便乗する形で、俺は概ね充実した高校生活を過ごした。他の何物にも代えがたい、無二の親友だった。

 だが、いつまでも一緒というわけにもいかない。俺が東京の大学に合格し、叶歌が地元でしばらくふらふらすることを決めた高三の三月。永劫の別れというほどではないが、以降これまでみたいに毎日顔を合わせることはなくなる。会う回数に比例して仲も薄れるのだろうと未来に思いを馳せつつ、人生なんてそんなものだと納得しかけていた頃。


『今から合格祝いしよーぜ!』


 やけにハイテンションの叶歌から電話があった。今からといっても、片田舎の俺の家から学校のある街に出るには電車の乗り継ぎ諸々含めて二時間以上を要する。「そういうのは前もって言えや」と文句を垂れつつ、律儀に身支度を始める俺。叶歌の気まぐれにあと何度付き合えるか考えると、出向く以外に選択肢はなかった。

 できる限り最速の経路で駅に降り立つ。すると、改札前にできた不自然な人だかりの向こうに、叶歌が立っていた。


「三時間ちこく~」

「文句あるなら俺んちからここまで新幹線のレール引け」


 あいさつ代わりに非難しあった後、なにやらプランのあるらしい叶歌の左横に並んで歩く。彼女の左目はうっすら青みがかっており、いつもと変わらず頭のてっぺんからつま先までが特別製だ。


「あれやろう。飲めや歌えや」

「飲んじゃダメだろ未成年」

「まあまあまあまあ」


 まあまあで未成年者飲酒禁止法を破ろうと試みた叶歌は、その勢いで俺を引っ張ってカラオケボックスに突入した。なぜか駅から少し離れた店舗だったから、独自のサービスでもあるのかもしれない。

 とりあえずのフリータイム。ドリンクバーでジュースを注ぎ、ドア前に二人が着てきたコートを吊るした。「これかけて」叶歌に押し付けられる形で『本日の主役』と刻字されたタスキを装着し、準備完了。


「ほら主役、ごあいさつごあいさつ」

「本日は私のためにこのような集まりを設けていただきありがとうございます的なこと言えばいいの?」

「本日は私のためにこのような集まりを設けていただきありがとうございます的なこと言って言って」

「早春の候、お集りの皆様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます」

「本日は私のためにこのような集まりを設けていただきありがとうございます的なこと言ってよぉ!」


 知ったことかと曲を予約。十秒ほど経って流れ始めたイントロに叶歌がはっと顔を上げ、反射的にマイクを要求。俺は意外と、彼女の機嫌を取るのが上手い。「一曲目にサライ歌うより楽しいことってないんだから」自信満々に言って叶歌が構えた。――しょうもない話だが、彼女はこういう、ちょっとした不文律破りを好んでいる。

 俺たちはお互い、歌が上手くもなければ下手でもない。採点すると俺が若干上回るが、現実は顔補正で叶歌の方がそれっぽく聴こえる。しばらく交互で歌ったり雰囲気でデュエットしたりして、疲れたところで休憩をはさんだ。


「そうだひなと。合格おめっとさん」

「ありがとさん。ちょい遅くない?」

「落ちると思ってたよね、普通に。私と遊んでばっかだったし。だから慰めのパターンだけたくさん用意してた」

「最悪」

「噓泣きの練習が大変でね。『私が足引っ張らなかったら……』って言いながらボロボロ泣くの。そしたらひなとは私を許すしかないじゃん?」

「じゃん? じゃないが。ま、こう見えて俺はできる子なもんで。悪いね」

「ほんとだよもう。私の努力無駄にしてー」


 マイクの集音部分で肩をがつがつ殴られる。穏やかでない音が室内に反響し、叶歌はそれを楽しんでいた。「大学生になるのなんてやめてさあ、ここで楽器として生きない?」「正気の発言じゃねえよ」マイクを払いのけ、これ以上楽器にされないよう距離を取る。しかしそれは不要な処置だったようで、先に叶歌が飽きてしまったらしい。


「うーん……?」

「どした?」


 怪訝な表情を浮かべながら、ぐぐっと近づいてくる叶歌。何度見ても顔面の造りが古今東西最高傑作で、一々感心してしまう。突然地球を侵略しにきた異星人が「この星で最も美しいものを見せろ。それが我々の求める水準に達していれば占領は諦めてやる」みたいな要求をしてきたら、たぶん俺はノータイムで叶歌を連れ出す。十中八九異星人はとんぼ返りするだろうし、もし認められなかったとしたらそいつらの美的感覚がおかしいだけだ。叶歌の容姿を美しく思えない感性に些少の価値もなく、その程度の文明レベルの集団に地球が敗北するとも考えにくかった。

 彼女は視力にちょっとした難を抱えていることもあり、時たまこのように近づいてものを見る。カラオケボックスは薄暗いから、かなり見えにくいのだろう。吐息がかかるくらいの距離まで接近しているあたり、俺の顔になにか付いている可能性が高い。


「ん? 合格祝いに私の顔を至近距離で見せてあげてるだけだけど」

「お心遣い痛み入ります」

「よきにはからえ」


 それがプレゼントになると信じて疑わないのがまずヤバいし、実際にプレゼント足りうるのがもっとヤバい。しかし、いつまでも目の前10センチの場所に居座られては困る。乙幡叶歌は高級な美術品のようなもので、離れて鑑賞するぶんには心の潤いになるのだが、あまりに近すぎると壊れないかどうかで気を揉むことになりかねない。


「ふぎゅ」

「近すぎ。恋するぞ」

「きもー。ひなと全然タイプじゃなーい」


 思ってもいないことを口にしながらアイアンクローで叶歌を遠ざける。タイプであってもらっては困るので、向こうの対応も100点満点。


「どうする? もうちょい歌ってく?」

「喉痛くなりそうだからおしまいにしよ。まだ行きたいとこもあるし」


 他に用事があるならカラオケは後回しにするのが整った順序ではないか。しかしながら叶歌の耳はそういうナンセンスな指摘を受け付けないようにできているので、俺も無駄な問いかけはしない。合格祝いだからと代金を奢ってもらっているので、なおさら。

 ぶらぶら歩く。時折同じ高校の制服を着た後輩が「先輩こんにちは!」と頭を下げてくる。長い春休みのせいで麻痺していたが今日は平日で、タイミング的に下校時刻だ。「はいはいおつかれ~」後輩諸君のお目当てはもちろん俺ではなく叶歌。制服なんか着ていなくとも、叶歌を見間違えることはない。男子は緊張で堅くなりながら、女子は憧れの眼差しを向けながら、みなぺこぺことあいさつしていく。


「ファミレス入ろっか。なんか全然前に進めないや」

「目出し帽でもプレゼントしようか?」

「さすがの私もあのダサ~いマスクでかわいさキープするのはしんどいって」


 無理だと言わないのが叶歌クオリティ。これまで学校帰りに何度か訪れたファミレスをチョイスし、またもやドリンクバーをオーダー。お祝いということでついでにケーキも頼み、四人掛けの席を二人で占領した。


「ここにももう来れなくなるな」

「来なよ。毎日新幹線乗ってさ。仕方ないから私も付き合ったげる」

「お前は地元じゃねーか」

「たまには私も遊びに押しかけるからいーでしょ」

「収支が合わんのよ収支が」


 言って、ケーキを一口。チェーン店の冷凍品だけあって風味はイマイチだが、値が控えめなので許容範囲。向かいの叶歌が美味しそうに頬張っているというのに通ぶって批評するほど愚かではないつもりだ。


 そこからしばらく、思い出話に花を咲かせた。たかだか二年の付き合いだが、その期間にずいぶんたくさんのことを経験した。俺の高校生活はニアリーイコールで叶歌との思い出であり、だから叶歌と過去を振り返ることが、実質的な高校生活の振り返りになる。一年生の頃の記憶は、まあ、その、うん。

 あらかた話し終える頃には、日がとっぷり暮れてしまっていた。電車の時刻表を思い浮かべながら、長居のボーダーラインを見定めにかかる。三月の終わりには東京に移住する予定だが、裏を返せばそれまでは地元に居残る。叶歌と顔を合わせて話す機会はまだ何度か作れるはずだ。

 叶歌は頬杖をついて、俺の顔をぼうっと見つめている。本当に、何をさせても絵になるやつだ。はるばる東京まで俺を尋ねてきたとして、手ぶらで帰ることが叶うだろうか。押し寄せるナンパとスカウトの洪水を前にしたら、さしもの叶歌とて心がぐらつくかもしれない。――そうなったらそうなったで面白いなと思う。テレビを点けるたび叶歌の顔が映し出される環境は、大勢の精神を救うはずだ。


「ひなと、電車大丈夫?」

「まだ余裕ある」


 俺の妄想など知る由もない叶歌は、テーブルの上でぐでっと伸びながら上目遣いにこちらを窺ってくる。モグラたたきの要領で頭頂部をてしっと叩いたら、危うく指先を噛みちぎられかけた。確かにモグラはあの見た目で噛みついてくる意外性を持つ動物だが、そこまで再現してもらう必要はない。


「……じゃ、もうちょっと付き合って」

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