第2話 境雛人 失策②
退店。時間的には完璧に夜。叶歌の左隣を歩きながら、空を見上げる。星座の名前はほとんど知らないが、星が綺麗に見えるというだけで気分が上がる。叶歌ならきっとこの感覚をわかってくれると思って尋ねたが、上の空だった。星とかけた高度なボケかとも思ったが、どうやら本当に心ここにあらずらしい。
「それで叶歌さんやい、俺は何に付き合えばいいんです?」
「……ん! 渡す予定だったプレゼント忘れてきちゃったから一緒に取りに来ること!」
「忘れたってどこに?」
「家!」
「家かぁ……」
駅から徒歩圏内にあるということだけ知っている乙幡邸。これまでにも何度か招かれはしたが、家族、特に御尊父とエンカウントするのを恐れて、適当に言い訳して避けてきた。理由は単純で、俺が叶歌の父親の立場だったと仮定すると、娘が自宅に連れ込んだ男など敵にしか見えないからだ。そこで『いやいや自分は友人であって恋人なんかではないですよ』などと言われても、詭弁にしか思えない。美しく成長した娘にちょっかいを出す虫けらは、もれなく死刑。
「今月まだ会えるタイミングあるし、俺は全然そのときで構わないけど」
「そんなに待ってたらプレゼントの方がダメになっちゃうよ。今日しか無理」
「まさか生もの?」
「そ」
叶歌がする突飛な行動に逐次ツッコミを入れていたら日が暮れてしまう。そもそも既に暮れている。めでたいから鯛を一匹ドーン! とか、いかにもこいつのやりそうなことだ。
ここは諦めて、大人しくお邪魔することにしよう。もらうだけもらってすぐ帰れば波風も立つまい。けれども、備えるに越したことはないので……。
「叶歌の親父さんって怖い?」
「優しいよ。あまあま」
「そりゃお前に対してはそうなるよ。……夜、アポなしでやってきた娘の男友達を殴り飛ばしたりしないか?」
「知らない。試したことないから」
「含みを持たせないでくれ。こっちにも心の準備ってもんがあるんだから……」
「なんの心配か知らないけど、パパとママは昨日から旅行だよ。お伊勢さんに行くんだって」
「そういうの早く言ってもらえます? 無駄に緊張する羽目になったわ」
ウインクしながら舌をちろりと出す叶歌。どうやら、これまで俺が叶歌の家を避けていた理由もお見通しだったらしい。
「まあまあ、私のかわいさに免じて許しなよ」
「上からなのがムカつくし抗いようがないのはもっとムカつく」
とはいえ、親族エンカウントの可能性がないなら気楽だ。電車のこともあるし、とっとと行ってとっとと祝われるに限る。閉鎖空間で女子と二人きりというシチュエーションは本来身構えるところなのだろうが、俺は同じテントで叶歌と並んで眠ったことすらある人間。そもそもさっきまでカラオケボックスで二人きりだったのだから、今更な話だ。
歩幅を広げた叶歌に追従する。街路灯があるとはいえ、暗がりが危険なことには変わりない。気持ち程度の星明かりに望みを託すのは無理筋。
歩きながら、ゆっくりリップクリームを塗りこむ叶歌。お気に入りなのか、覚えている限りでは一年以上同じものを愛用している。香りと色が付いた二重校則違反品なのだが、生徒指導を懐柔してしまった叶歌にはそんなのどこ吹く風。もっとも、これからは高校生でなくなるのだから、誰に咎められることもないのか。
「使う?」
「俺の唇がしっとりぷるぷるになるの見たい?」
「見たくないわけないじゃん」
「見せてやるわけないじゃん」
「ちぇー」
じろじろ見ていたのがバレた。そもそも今日はやけにリップを取り出す回数が多かったから、空気が乾燥しているのかもしれない。季節の変わり目というのもあって、体調を崩さないようにしなくちゃなと思う。生活環境もがらりと変わる予定だから余計に。
ファミレスを出てから15分。到着したのは立派な庭付き一戸建てだった。『乙幡』の表札をちらりと見ると、下に並ぶ名前は三つだけ。今までの会話内容から察してはいたが、核家族のようだ。家の照明も消えているし、誰かと出くわす可能性はない。
「そういや叶歌、なんで旅行ついていかなかったんだ? 遠出好きだろ」
「たまには夫婦水入らずにしてあげたいでしょ。親孝行親孝行」
お邪魔して、玄関で尋ねる。コートを渡すよう手を伸ばされたが、すぐ帰るつもりなので遠慮しておいた。家主不在のお宅に長居するのは避けろと教育されてきたのもある。
肝心のプレゼントとやらに仄かな期待を寄せつつ、彼女が育った家を眺めた。自分の美しさが高じて叶歌本人も綺麗好きなので、あたりはさっぱりしていて無駄がない。けれども確かな生活感がそこにあって、人の息遣いが感じられた。
「なんか飲む?」
「ドリンクバー二連打で溺れかけてんだけど」
「おっけー。水ね」
「会話って知ってるか?」
「はつみみー」
彼女の決定事項を覆すことは難しい。ため息まじりに了承して、叶歌の後ろをくっついて歩く。生ものだったら用があるのは冷蔵庫のはずで、ならば向かう先はキッチンだ。しかし案内されたのは階段で、頭にクエスチョンマークが浮かぶ。二階にキッチンを配置する一戸建てに覚えがない。
疑問が尽きない中、通されたのは叶歌の自室だった。勉強机。ベッド。テーブル。八畳ほどの空間にそれらが配置され、他にはかわいらしい小物がちらほら。たまに叶歌の着衣から香るルームフレグランスが部屋いっぱいに充満していて、意識的に鼻呼吸をやめた。本人の匂いを直接嗅いでいるようで申し訳なくなる。
「どや。いい部屋でしょ」
「叶歌っぽい」
「ま、座ってよ」
促されるままベッドに腰かけると、叶歌も横に並んだ。マットレスが上質なのか、体が柔らかく沈む。どこのメーカなのか後で聞かないと。
「しっかしねえ。ひなともとうとう大学生かあ」
「今日だけで五回は聞いたぞその言い回し」
「五回言わなきゃいけないことだからですー。悲しいよ私は。ひなとが東京かぶれになっていくのが」
「実際どうすりゃ東京かぶれ認定なの? お土産に東京ばなな山ほど抱えてくるとか?」
「宮城県民は萩の月あんまり食べないし、福島県民だってままどおる食べないじゃん。発想が田舎者すぎ」
「実際かっぺだし……。知らないことはわからんな。次会うときは耳がピアス穴でぼこぼこ、全身はタトゥーでギラギラかも」
「そのときは笑ったげる。ついでに安全ピンで耳たぶ刺す」
「せめてピアッサー使ってくれ」
耳たぶを揉みながら答える。ぼこぼことまではいかずとも、平凡なのを一つ空けるくらいなら興味はある。完全なる上京デビューで、それこそ叶歌に笑い飛ばされそうだけど。
話し込みながらも、どこかで時間を気にする自分がいた。タクシーで帰れる距離ではないので、終電を逃したらジエンド。田舎なのでその終電も十時代半ばだ。時間的制約は人を行動的にさせるが、ただのんびりしていたいという欲求には応えてくれない。
そんな俺の様子を見て、叶歌も察するところがあったのか、
「実は最初からこの部屋にプレゼント用意してあるって言ったらびっくりする?」
「マジ?」
「天井見てみ」
天井に設置された生もの……。なるほど、なにひとつピンとこない。推測を立てられないまま言われた通りに上を向く。するとそこには――
「おいコラ」
――なにもなかった。代わりに、重心が後傾した俺をラリアットでダウンさせた、いたずらっぽい叶歌の笑顔があった。合格祝いにプロレス技をかける風習は俺の知っている範囲では存在しないから、叶歌の完全オリジナルということになる。暴力すらもプレゼントになる美しさを称えさせたいのか、それとも……。
「重いんだけど……」
「それは嘘。今朝体重測ったら鳥の羽一枚と大体同じくらいだったもん」
「どんな怪鳥だ」
「庭にいたスズメ」
首筋がくすぐったい。俺を押し倒した叶歌が、そのままそこに顔をうずめたからだ。シャンプーの香りが鼻腔を刺激し、女性特有の柔さが全身に押し付けられる。ここまで露骨なボディタッチは、過去二年を振り返っても記憶にない。
天井だけを、ぼんやり見つめる。そういえば昨晩は夜更かしをして、ほとんど眠れていないところで叶歌から呼び出されたのだった。そのせいか頭はロクに働かず、『この顔で胸も結構あるのずるいよなぁ』などと考えていた。
「……帰ってくるときは言いなよ」
「へいへい」
「もちろんお土産も持ってくること」
「俺そこらへんのセンス壊滅的なんだけど」
「知ってる」
「なら気負わなくていいや。……つーか、叶歌」
「なあに」
「……寂しいの?」
「…………うん。寂しい」
予想外の返事に面食らう。仮にそうだったとしても、素直に口にするとは思わなかった。一通り慄いてから、遊ばせていた左腕を叶歌の背中に添える。他意はない。ただ、最も収まりのいい場所がここだった。
その体勢のまま、二人そろってしばらく停滞。秒針が時を刻む音がチクタク響くばかりで、他の動きはなし。たぶん、最終列車にはもう間に合わない。
薄々、嫌な予感はしていた。この空気感に似た場所で、俺は何度も過ちを犯している。けれど、まさか、叶歌に限って――
「ひなと」
耳をなでるような声。潤んだ瞳。仄かに染まった頬。触れた唇は甘ったるく痺れて、あっさりと舌の侵入を許してしまう。キスしていることに気が付くまで、時間がかかった。叶歌は俺の唇を挟み込むように自分の唇をあむあむと動かし、そのたびに「んぅ……」と熱っぽい喘ぎを漏らした。絡んだ唾液はもうどちらのものなのかすら判然としなくて、焼けた脳は現実の理解を拒む。今まで一緒に馬鹿なことを繰り返し経験してきた叶歌。そして、今の叶歌。二人が本当に同一人物なのか、俺はジャッジを下せなかった。
長い時間が経って、ようやくお互いの唇に距離が生まれた。――彼女の顔を、直視できない。それ以上に、直視したくない。
「……合格祝い。これが一番いいかなって」
「…………」
「びっくりしたでしょ? 私もね――」
「――叶歌」
彼女の肩を両手でおさえて起き上がる。――すごく、恐ろしい。今、自分がどんな表情をしているかわからない。
「電車、来るから」
「でも、もう」
「来るから!」
自分で思った以上に語気が強まって、驚いた叶歌の体が震えた。しかし俺にはもう謝る余裕すら残されていなくて、突き飛ばすように叶歌との距離を取った。
「悪い。帰る」
目を閉じて、耳を塞いでしまいたかった。それができなかったから、今にも泣きだしそうな叶歌の表情と「待って」の一言が脳にこびりついて消えなくなった。
逃げるように叶歌の家を後にして、途中何度か吐きながら駅へ向かう。削るみたいに唇を拭ったせいで口の中は胃液と血液の混じり合った最悪な味で満たされている。なんとか駅にたどり着いたときにはとっくに終電なんかなくなっていて、失意の中、駅前のベンチに腰かけた。
世界で唯一、乙幡叶歌だけは違うのだと思っていた。惚れた腫れたから隔絶されたはるか遠い場所で、なんのしがらみに囚われることもなく生きているのだと。――しかしそんなものは幻想で、彼女ほどの存在でさえそのくびきからは逃れられないのだと知った。
恋愛で抱えたいくつかのトラウマが走馬灯のように脳内を巡って、それが再び吐き気に変換される。今度はなんとか戻さずに済んだが、全身を襲う倦怠感は増すばかりだ。
「きもちわる……」
言葉にならない感情があちこちで屈折していく。その感覚が、たまらなく気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
なにより、最悪なのは。
叶歌と唇が触れ合った瞬間、ほんのわずかながらでも生理的嫌悪感を抱いてしまったことで。
あんなに美しい女を、おそらくこれまでの人生でもっとも気を許したはずの相手を直感的に拒んでしまうような自分の在り方が、どうしようもなく醜くて、おぞましくて、耐えがたい。消えたくて、壊れたくて、死にたい。
叶歌すら受け入れられない自分が、許せない。
冬を抜けたばかりの駅前。深夜の冷たい風にさらされながら、いつ来るかもわからない始発電車を待った。もう二度と叶歌に会うことはないのだろうなと、ぼんやり思った。
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