第13話 見えていないもの
スピード感と完成度を手っ取り早く両立させたいときに、出汁のストックがあるとかなり役立つ。日持ちしない難点さえ自力解消が望めるなら、冷蔵庫のドアポケットに常備しておいて間違いない。
冷凍うどんを火にかけている間に、しょうがを擦ってネギを刻んで梅干がペースト状になるまで叩いてきゅうりを細切りにして……と細々した作業を進める。途中、ご飯の解凍が終わったのでざるに移して流水でぬめりを取り、茶碗に盛って用意したての薬味と一緒にサーブ。茹で上がったうどんも早々に氷水で締め、揚げ玉を散らして冷や出汁をかける。出汁のボトルをご飯の方に流用することで、とりあえず出来合いの夜食が完成。冷やし茶漬けとほぼ素うどん。宣言通りに10分以内での完成。
「プロ?」
「アマ。早くしないと伸びるぞ」
「ん。いただきます」
両手の指指を丁寧に合わせて軽くお辞儀する叶歌。日常の天衣無縫っぷりからかけ離れたこういう姿勢に、高校生の俺は好感を持った。……改めて、叶歌だなあと感じる。容姿ではなく、内側から滲む個性や人生の足跡が、俺の知るそれにぴたりと合致するのだ。「おいし」「そか。よかった」皮肉や出まかせでなく、心からそう思ったので一言付け足すことにした。「元気そうでうれしい」「なにそれ」「……なんだろうな」
あの日の半泣き顔で記憶が途絶してしまったせいで、叶歌の現在に思いを馳せるとき、彼女はいつだって泣き出す寸前で俺の脳裏に現れた。……だから、素直によかったと思う。かつて親友だった女が、いつまでも涙に暮れるほど弱くなくて。――違うな。嘘だ。そんなことを言って、俺はどうせ自分のつけた傷が思いのほか小さかったことに安堵しているだけなのだ。乙幡叶歌という宝石の価値を損ねずに済んだことを知って、内心ほっと胸をなでおろしている。彼女の人生にもたらした影響の少なさを喜んでいる。……ほんと、どこまで行っても自分のことだけ。自己保身以外にはとんと興味がないらしい。
「ひなとは元気?」
「健康ではある」
「だよね。見ててそんな感じする」
くすっと笑い、叶歌が箸を置く。「ごちそうさまでした」「足りた?」「うん。満腹」そのまま皿洗いを始めそうな雰囲気だったのでやんわり制し、食器を受け取った。来客に働かせてはいけないという考えはもちろんのこと、あまり他人にキッチンを使われたくないというエゴも多少含まれている。
「料理できるの知らなかった」
スポンジ片手に背中越しで会話する。「めっちゃ手際いいしさ、大学入ってから始めたわけじゃないでしょ」「見せる機会がなかった」「言えよー。そしたら見せてもらってたのに」
言うのは容易いが、好きに使っていい調理場なんて探してもそうそう見つかるものではない。学校の家庭科室は論外で、次点くらいで候補に挙がるだろう自宅に関しても、うちには呼びたくないし叶歌のお宅には行きたくなかった。その感覚に誤りがなかったことは、今日までの17ヶ月がきちんと証明してくれている。
「なんかさー……」
蛇口を捻って水を止める。冷房の効きが弱いからか、少し動いただけで額が若干汗ばんだ。
「私、ひなとのことぜーんぜん知らなかったんだなーって」
頬杖をついた叶歌が、ダイニングテーブルを人差し指でゆっくりなぞっていく。最後にテーブルの端をとんとんと二回叩いてから、行き場を失った指はすっと死角に消えていった。
どこか影のある笑顔が寂しい。おそらくそれは、俺が奪ってしまったなにかしらの――
「知らせていないことを知られていたらおかしいし、怖い」
わかっている。そういうことが言いたいんじゃないって。知らせてもらえなかった情報が存在する事実に、叶歌は失望とも憤りともいえない感情を抱いている。意図してなにかを隠匿されるのは、思った以上に響くものだ。さらにいえば、その機微を俺が理解しているであろうこともまた、不満の種になるのだろう。受け手がどんな反応をするか知っているのにもかかわらず、敢えて実行に移す。不義理とか欺瞞とか誹られてもしかたない。
篠さんが出した正方形とひし形の例を思い出した。今の返答も、きっとそれに該当する。命題と地続きにあって、かつ芯からずれたポイントを捉える感覚。のらりくらり生きるためならともかく、真っ当な幸せが欲しいのなら絶対に磨くべきでない才覚。
「叶歌、今日はなにしに?」
さて、本題。間もなく日付が変わろうというのに、いつまでもだらだら間合いの探り合いばかりしていられない。なにせ、もう二度と会うことはないと思っていた相手だ。その二度目が起こってしまった以上、俺にはその背景を知る義務がある。16ヶ月越しに、「待って」の続きを聞く責任がある。
文句も追及も暴力も、甘んじて受け入れる心の用意がいつのまにかできていた。それは誠実さから最も縁遠いところにある、あの日の苦しみから一刻も早く解放されたいという逃げの感情に由来するものだった。
「ひなとが恋しくなっちゃって」息を飲み、反射的に言葉を紡ぐ。「それは――」「――って言われたらうれしい?」遮られた。叶歌は余裕の微笑みを浮かべながら席を立ち、俺の横に並ぶ。俺から見て左側に並ぶ。――叶歌から見て、俺を右に置くように並ぶ。
これ以上ないくらいの解答だったように思う。言葉や暴力では到底追いつけない、決定的な溝と断絶がそこにはあった。――かつて立っていた左は、既に俺の居場所ではなくなっている。過不足なくスマートな情報伝達に、少々感心すらしているほどだ。
「こっちの友達と遊ぶ用事ができたから、今ひなとがどんなとこで暮らしてるのかなーってついでにちょっと見に来たらさあ。……会うと思ってなかったのになー」
「お互い運があったのかなかったのか……」
「私はご飯食べさせてもらえてラッキーだったけどね」
「明快でいいな」
「バカって言ってる?」
「良い耳してら」
隙間10センチメートルの絶対に触れ合わない距離感で、ようやくかつての軽口を叩けた気がする。だけどやっぱり当時の通りには行かなくて、証拠に叶歌は友達なんて単語を口にした。
そっか。友達。そっか。当然のことだが、会わない16ヶ月に俺の人生が色々進展したのと同じく、叶歌の生活にも変化は訪れたはずだ。長く付き合える友人ができないことを嘆いていた彼女は、もしかするともういないのかもしれない。俺との決裂を契機に、なにか吹っ切れた可能性だってある。
ずっと同じままではいられない。当たり前の事実が当たり前にのしかかって重い。同時に、未だこれだけ叶歌に執着している自分の存在を強制的に見つめ直させられて痛い。
叶歌は前に進んでいるのに、俺はずっと元の居場所で惑い続けている。さながらそれは回し車に囚われたハムスターのようで、哀れで物悲しい。ハムスターであればそこに愛玩動物としてのかわいらしさがついてくるが、残念ながら哺乳類にげっ歯類の真似はできないのだ。結果、俺に残ったのは憐れさだけ。届かない哀切は行き場をなくして、ため息に溶けた。
「しかし、メシくらい連れてってもらえなかったのか? お上りさん腹ペコで帰すのはどうかと思うぞ俺」
「ああ違う違う。明日会う予定で前乗りしてきたの。街ブラしたかったから」
「なるほど。……それ、なにも食べてない理由になる?」
「暑くて食欲わかなかったんだもん」
叶歌がそう言うならそうなのだろう。これ以上詰めるほどの話題でもない。同時に、その友人とやらについてもあまり追及する気にはならなかった。男か女か、どんな人となりをしているか、尋ねたところで気の利いたリアクションができそうにないからだ。
俺たちの道はとうに別たれている。当時ならともかく、今となっては下世話な詮索が許される距離にない。彼女が彼女なりの道を歩み始めたことに多少の安堵を覚えつつも、そもそもその感情を抱く資格が自分にあるかどうかすら不明。
元友人か、顔見知りか、それ以外か。今の立ち位置を表すに値する単語がなかなか見つからなくて難儀する。そして、それを見つけたところで発展も進展もないのは最初からわかりきっている。
不思議なもので、叶歌の存在はあの日以来片時も頭から離れなかったのに、いざ会ってみたら驚くほど言葉が浮かんでこない。それもこれも、再会を前提に入れていなかったのが原因だろう。俺はずっとどこで手を誤ったのか振り返るばかりで、未来の行動でリカバリしようなどとは微塵も考えなかった。――不適当な言い回しだなと自分で言って思い直す。この先どう手を尽くしても元に戻らないのが自明だからこそ、過去に救いを求めたのだ。覆水だったら盆に返せば済む話だが、卵焼きは水に浸そうが凍らそうが生卵には戻らない。俺がしたいのはそういう話。失われたのは、不可逆のもの。
会話をどうつなぐか考えていたところ、叶歌が「ぁふ……」と小さくあくびした。活動的で体力はある方だったが、長距離移動、人混み、暑さの三重奏を前にしてはそれも形無しのようだ。そして、そんなすっかりお疲れの彼女を見て、俺はある一つの疑問に駆られた。
「どこに宿取ってんの? ……えーと、そろそろ移動難しくなるぞ」
諸事情あって終電という単語を使うのがためらわれたため、わかりにくい迂遠な言い回しになった。いかな東京といえども、12時を回ってしまえば電車はほとんど動かない。バスは言わずもがなで、割高のタクシーは最後に頼る綱程度の扱いだ。
叶歌の手持ちがどんな具合か知らないが、余計な出費を抑えたくなるのが人情。であれば、我が家に長居するわけにもいくまい。
「だいじょーぶ。ネカフェとかカラオケとかいっぱいあるの見たし」
「一番重要な出費を惜しむな……」
行楽シーズンでホテルが軒並み割高なのはわかるが、ケチって良い金とそうでない金がある。叶歌の場合、宿泊場所の妥協は絶対にダメだ。どんなトラブルに巻き込まれるかわかったものじゃない。
俺が一緒にいたときでさえ、部屋番号を勘違いしたように見せかけてカラオケの個室に突入してくるやつや、一定の距離を保って街中を尾行してくるやつがいた。日常茶飯事すぎて本人の感覚は麻痺してしまっているが、彼女の人生が抱えるリスクは他と比べ物にならないほど大きい。もちろん自衛しているのは承知の上だが、それで避けられるのは理性的な相手のみ。暴力に訴える手合いに対し、叶歌の細腕で為せることなどない。
自分の居住地周辺にある宿泊施設の詳細は、案外知らないものだ。頼らないことが明白だからだろうか。
記憶が使い物にならないことをすぐ悟り、今からでも弾丸チェックインできそうな寝床を検索するが、やはり12時を過ぎて受け付けてくれる奇特なホテルはそうそう見つからない。サービスの質を落としてまで目の前の小銭を追いかけるメリットがないので、これは当然。宿泊業も楽じゃない。
最近のネットカフェであれば施錠可能な個室もあると聞く。そちらの線で追いかけてみるが……無理っぽいな。近隣にその形態の店舗が少なすぎる。これでは空室が期待できない。カラオケは防犯上の観点から内鍵がかからないのが普通だし、最初から考慮外だ。――となると、次々点の候補に上がってくるのは。
「…………」
あー、あるある。いくらでも、というのは言い過ぎだが、十分に数が見込める。もっともそんなのは当たり前で、食欲、睡眠欲、性欲のすべてに寄り添える施設なのだから、立地に求める条件が緩いのだ。田舎の国道沿いに点在しがちなのは、一定数の人通りが見込めるからだろうか。
場所は見つかった。問題は、それをどう伝えるか。「どこそこのラブホ行ってこい」といきなり伝えるのは心理的ハードルが高すぎる。
できることなら、あの日を連想しうる単語は使わずいたい。お互いが話題に上げるのを避けているだけで、俺たちがセックス一歩手前まで行って、直前になって俺が逃げ出した事実は動かない。今の会話のぎこちなさはそこに端を発するものだ。
俺の傷。叶歌の傷。程度は違えど、余韻は現在まで続いている。積極的に掘り起こすことの危うさは理解しているつもりで、けれど目と鼻の先にある身の危険を遠ざけるのも重要で。それらを慎重に秤にかけたうえで、俺が導いた結論は――
「――泊まってく? タダだけど、一応」
「んー。タダなら」
言ってからようやく、ホテルを勧める方が無難だったことを悟った。目の前の問題を追いかけることの是非について考えて間もないのに、視野が狭まるとすぐこれだ。
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