第12話 ノスタルジー
結局、願い事は叶わなかった。それどころかわずか二か月後に関係性は瓦解して、以降俺の信仰心は極端に薄れたように思う。過ぎた願いに天罰が下ったか、あるいは初めから神様なんていなかったか。どちらにせよ、天運が俺に微笑むことはないらしい。であれば人事を尽くすことに疑問が生じるのは自然な流れだった。
晩に飲むつもりで冷蔵庫に仕込んでおいた水出し煎茶を、二人分のグラスにゆっくり注ぐ。疲れた自分に捧げるささやかな労いとして重宝してきた高級品のため、誰かにふるまうことはあらかじめ想定していない。
つまるところが異常事態。とっておきを持ち出さなくては対応不可な重大インシデント。
細かくして入れた氷塊がからんと涼やかな音を鳴らすが、それを風情に感じている暇も余裕もどこへやら。自宅で感じてはいけない類の緊張が絶賛到来中で、今レントゲン写真を撮ったら十中八九再検査を食らうレベルの胃痛がひっきりなしに襲ってくる。
叶歌が、我が家にいる。たかがそれだけのこと……されどそれほどのこと。ダイニングチェアに浅く腰かけ脚をぶらぶら小さく揺らす姿は、記憶の彼女そのものだ。
会わなくなってからの時間経過がそうさせるのか、なにもかもがノスタルジック。少しでも気を緩めたらこの場所を放課後の教室やファミレスと誤認してしまいそうで、その都度己の醜さや情けなさに頭が痛くなる。
グラスを彼女に差し出した。言葉を添えたかったのに、軽口の一つすら浮かんではくれなかった。叶歌のリアクションも軽く頷くだけの簡素なもので、所作の一つ一つに16ヶ月の壁が立ちはだかってくる。
グラスに口をつけ、軽く傾ける叶歌。お気に召さなかったらどうしようかと内心気が気でなかったが、すぐさま飲み干してしまったところを見るに杞憂だったらしい。もしくは、数時間前の俺と同じく限界寸前のところまで喉が渇いていたか。
「…………」
叶歌の視線が俺の持っているグラスに吸い寄せられている。……喉が渇いている方だったか。いいよあげるよこんなものでいいのなら……。
「……おいしいね、これ」
「……ちょっと凝ってる」
二杯目が空になって、満を持して執り行われた会話は1ラリーで終了。引き取ったグラスを流しで洗いつつ、少しずつ落ち着きつつある頭で状況の整理に努めた。
この度の再会は、幾分かの作為を孕んでいる。観光地ならともかく、ここは学生向け賃貸が立ち並ぶ住宅地。ふらっと立ち寄るような場所ではないのだ。……住所は決裂する少し前に知らせてあった。おそらくは、それを頼りに……といった具合なのだろう。
俺を目当てに訪ねてきたのはほとんど確定。問題は、今になってどうして、という点だ。
一年前でもなく、一年後でもなく、今。上京組がこぞって帰省する時期に連絡なしでゲリラ的な訪問。たまたま道でぶつからなければ入れ違いになっていた可能性が高く、謎は深まるばかり。『ここで』会ったのは当然のことだが、ここで『会った』ことに限っていえばまぐれに過ぎない。俺がもう少し篠さんとの会話に興じていたら、あるいは気が変わって買い出しに出向いていたら、今頃一人で帰宅していたはず。
叶歌の行動理念が読めない。……いや、そもそも読めていたら疎遠になんてなっていないか。あまりに身も蓋もない話だが。
「ねえ」
姿勢を正す。なにを言われるかは不明として、なにを言われてもいい準備だけは整えておきたかった。
目が合う。空を思わせる薄ら青い左目が、まっすぐ俺を見つめている。すべてを見透かされているような感覚は、当時から変わらない。
「……今日、朝からなんにも食べてない」
「……………………………………………………10分くれ」
拍子抜けすぎて膝からがっくり崩れ落ちそうなのをこらえ、立ち上がる。……そうだった。こいつはそういうやつだった。
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