第9話 17ヶ月

 最寄駅を後にする。盛夏の気だるい暑さは日が落ちてからも健在らしく、それなりに空調が効いた駅構内との温度差で額にじっとり汗が滲んだ。

 喉が渇く。たかだか徒歩十数分先の家まで耐えられなさそうになく、割高承知で自販機を頼ることにした。ジュースの甘ったるい後味は暑さとの相性が悪いから、だだの水がいいか。そう思って、発光するボタンに手を伸ばす。


「悪いね」

「ちょっ……」


 横入りされた。それどころか、俺の金で俺の希望に沿わない商品が購入された。ガコンという少々乱暴な音の後、取り出し口から現れたのは微糖の缶コーヒー。水分補給の観点から見て最悪の選択肢の一つにカウントされる飲み物。

 それを手に取って、ためらいなくプルトップを開ける人間が一人。無論、俺ではない。


「ここが砂漠だったら俺、篠さんのこと殺してると思う……」

「一応ここも砂漠でしょ? 人間砂漠」

「俺に殺人の大義名分与えてどうすんの」


 じょーだんじょーだん。自販機強盗は笑って言いながら、容量が半分くらいになったであろう缶容器の飲み口をこちらに向けてきた。「飲む?」それこそ冗談だ。「喉乾いてるときのコーヒーは罰ゲーム通り越して拷問の域だと思うんですよ」


「拷問て。酷いこと言うなあ。泣こっかな」

「いいから水です水。篠さんが泣くまでの時間で俺が乾いて死にそう」

「はいはい。弁償弁償」


 少し遅れて再び商品が排出された音。それを手早く掴んで開けて飲む。脱水は喉の渇きに気づいた時点で相当進行しているなんて言うが、こういうときにそのことを痛感する。「ふぅ……。生き返る」死んだこともないのにこの感想が自然に出るのだから、水の存在は偉大だ。伊達に体の半分以上を占めていない。


「……で」


 飲み終えた缶をカラカラ振っている女性を見下ろす。出会って即これだけの無礼をかましてくる以上、当然知り合いではあるのだが。


「なにやってんの篠さん」

「なにって、尾行? 先生のこと朝から付け回して、一日のラストにネタ晴らし的な」

「うわ怖。ストーカーじゃん」

「うーそ。ってかちょっとくらい疑え。さっきたまたま見かけたから、なんかいたずらしてやろうと思って近づいただけ」

「それはそれで邪悪っちゃ邪悪だなあ」


 肩より少し長いくらいの髪をくるくるいじくる篠さん。「邪悪だよ。人間みな邪悪」時折表に出てくる赤のインナーカラーが目に眩しい。それ以前に眩しい場所があるのだが、会って早々「胸元やばくないすか」と言うのもどうか。谷間がちょっと見えるくらいならともかく、概算で胸の全貌の2~3割くらいが姿を覗かせている気がする。そもそもそんなワンピースどこに売ってんだって話。


「こら。見すぎ」

「需要と供給の一致ですよ。見せてるでしょ、それ」

「まあ、おすそ分け? たまたまデカく生まれた以上、こういう風に社会に還元しないと罰が当たると思って」

「…………」

「先生にはまだ理解できないか」


 いいや、逆だ。俺は似たような思想の持ち主を知っている。たまたま卓越した容姿を授かって生まれ、それを思う存分振りまきながら生きる女。

 もう、一年以上顔を会わせていない。それどころか声すら聴いていない。そしておそらくもう二度と関わることのない、かつての友人。

 彼女の姿を、思わず目の前の篠さんに重ねた。ビジュアル面での共通点はないに等しいが、時々その言葉端からあいつの影を感じる。そしてそのたびに、あの冷たい夜の感覚が体によみがえる。


「まあいいや。どうせバイト終わりで腹ペコだろー? メシ行こメシ」

「奢り?」

「先生に財布出させた記憶ないけど」

「んじゃゴチになります」

「現金なヤツめ」

「素直に奢られてやることで先輩風吹かせたい篠さんの欲求を満たしてるだけですよ」


 よくわかってるじゃん。言って、篠さんは破顔した。


********************


 篠さん。職業不詳。来歴不詳。年齢は推定二十代前半から半ばで、たぶん年上。――こうして羅列してみると、思った以上に俺はこの人のことを知らないらしい。確かなのは女性であることと、スタイルがいい(スレンダーではなくグラマー的な意味で)ことと、あとは妙に羽振りがいいことくらい。そのほとんどが外見から得られる情報であって、これといった特別性はない。篠さんという名前も、彼女がそのハンドルネームでメッセージアプリを運用しているから呼んでいるだけだ。偽名である可能性も大いに考えられる。


「どうした先生? 食べてよ。勢い勇んで自分一人じゃ手ぇつけられない量オーダーしてるんだから、わたし」

「俺のこと成長期の食欲無限わんぱく坊主だと思ってない?」

「うん」

「それ、田舎のばあちゃんが無限におかわり促してくるのと同じ思考回路ですよ」

「母親の母親で母性の二乗。うーーーーーーん……。それが誉め言葉になると思うなよ小僧」

「どっちかというと辞世の句かぁ」


 不興を買ったので俺の取り皿にあった天ぷらに七味を山盛りかけられた。失言の代償と受け入れ、おそるおそる口に運ぶ。案の定の辛さに一通り咳き込んで、外食でやることではないなと我に帰った。


「残せばいいのに」

「まあ、食うでしょ。毒でも混ぜられたならともかく」

「身体に悪い作用を及ぼすものの総称でしょ、毒って。過剰な香辛料は間違いなく毒」

「食品として産み落とされた過去を軽視したくないだけ」

「律儀っていうか、強情っていうか……」


 俺が確実に口に入れることを織り込んで行動した人間の口ぶりではない。俺で遊ぶな……と言っても、おそらく聞く耳を持ってはくれないんだろうな。


「先生は発想が柔軟なときと凝り固まってるときの差がエグすぎ。もっと肩の力抜いて生きなー?」

「常在戦場。この身は常に嵐の傍らにあります」

「つまんな」

「はい傷心ポイントプラス1」

「ちなみに今どんくらい溜まってんの、それ?」

「篠さんからだと今のでちょうど99ポイント」

「言うほどちょうどか? 100点になるといいことあったりすんの?」

「野良猫が吐いた毛玉を漏れなく差し上げています」

「おもんな。大喜利の才能ないよ。芸で食ってくの諦めな? いつまで夢追ってんの? 同級生はみんな結婚して子供もいるよ? お母さんだっていつまでもあんたの面倒みてやれるわけじゃないんだよ? 年金だって限りがあるし、だいたいあんたはいつもいつも――」

「ちょっと退室して猫探してきまーす」

「いてら~」


 もちろんポーズで立っただけなのだが、すぐ戻っても面白味がないのでトイレを経由した。しかし演技でも容赦ねえなあの人。思いがけず普通にダメージを負いかけた自分がいる。

 どうせなら猫の毛玉的アイテムを自作して舞い戻ろうかと思ったが、居酒屋のお手洗いにそんな材料が転がっているはずもない。諦めて、個室の横戸を開く。


「あ、消す」

「気にしてないですよ」

「ノン。これはわたしのポリシー」

「もったいないからそれだけでも吸ってください。俺はタバコの煙より浪費の方が嫌いです」

「やっぱ強情だな~」


 一服やっていた篠さんが、俺が戻るなりタバコの火を灰皿に押し付けようとした。他人に律儀だ強情だ言う割には、自分も自分でこだわりが強いタイプだ。「ほら、座んなよ先生」手招きされて、先ほどと同じ場所に腰を下ろす。……慣れなのか麻痺なのか、もう先生というあだ名にも感じるところはなくなってしまった。俺はただの学生だし、教職を志してもいない。塾講も家庭教師も未経験で、それなのに年上の篠さんから一貫して先生と呼ばれ続けている。……やっぱり初対面で散々講釈垂れたのがまずかったよなあ。あのときはまさか、しばらく続く仲になると思ってなかったし……。


「そういえばさ、さっき駅前でヤバ美人見たわ」


 脈絡なく、篠さんが新しい話題を口にした。心なしか興奮しているようにも見える。


「一目見てうわ負けたって思った。長身で小顔で雰囲気があって。容姿で敗北意識植え付けられたことほとんどないのに」

「へえ、気になる」

「いっちミリも興味なさそうな返事しやがって。まーね、あれはたぶん芸能関係だね。そっち方面疎いからわかんなかっただけで、いずれ雑誌なりテレビなり映画なりで再会するはず」

「顔が良くても芸能界行くかどうかは謎だよ」

「知ったような口を」


 知ってるからね。出かかった言葉を喉奥にとどめるように烏龍茶を飲み干す。

 篠さん自身もルックスやビジュアルで多くのアドバンテージを得て来た人間であるのは間違いない。パーツに無駄はなく、目鼻立ちも整っている。顔立ちの幼さは低めの身長とマッチしているし、服の選択肢がなくなって困るとしょっちゅうぼやいている胸の大きさに関しても、男性から見れば加点要素だ。髪色や髪型で遊べているのだって、ひとえにそれが似合うだけのポテンシャルがあるから。美人かそうでないかの二択を用意するまでもなく美人だし、魅力的に感じる男はいくらでもいる。

 だが、そうやって美しさの根拠になる要素をかき集めればかき集めるほど、遠ざかっていくものもあるのだ。余計な修飾を要さず、ただその立ち姿だけですべてを魅了し納得させてきた女に心当たりがあるせいで。


「流れ星見たと思って願い事三回唱えとけばよかった。ドリンク追加いるかー?」

「託される方はたまったもんじゃない。……と、じゃあジンジャエールで」

「あいあい」


 タッチパネルで追加注文。少しして、ジョッキが二つ個室に運び込まれた。「先生って下戸? 酒飲んでるの見たことない」届きたてのビールジョッキを傾ける篠さんに問われる。「まだ未成年」俺が篠さんの年齢を知らないように、篠さんも俺の年齢を知らない。話す機会がなかったから、あえて公開しようとも思わなかった。


「不真面目すぎ。未成年だからなんてつまんない理由で大学生が禁酒するな」

「酔ってますねえ。言ってることが滅茶苦茶だ」

「あー……。それだと今年ハタチ? 去年も大学生だろー?」

「誕生日三日後」

「そういうのはもっと早く言えバカ」


 いきなり怒られた。イマイチ納得できないでいる間に、篠さんは手元のスマホを忙しなく操作している。程なくして、俺のアカウントにマーキングされた地図情報が送られてきた。


「明後日の夜9時そこ集合。夏休みで暇でしょ」

「俺、この歳でお誕生日会やってもらえるの?」

「12時ちょうどにボトル開けるぞ。一気飲み用に救急車も待機させとく」

「前半はありがとう。後半は要らない」

「遠慮しなさんな」

「遠慮じゃなくて拒絶」


 誕生日か。去年はぼーっとしている間に終わっていて、一昨年は……。いや、あまり考えないでおこう。高校生の頃の記憶を漁るのは、それだけでもう自殺行為。毎度傷心ばかりもしていられない。

 しかしながら、俺という人間のなんと節操のないことか。女がらみで散々失態を積み重ねたというのに、未だこうして女性との関係を持っている。いつだって弁えたような顔で以前の失敗をもとに立ち回る癖に、どうせ最後は過去にない過失で終わるのだ。篠さん相手には極力パーソナルな場所まで踏み込まない距離感を保っているが、今さっき年齢と誕生日を知られ、おそらくあと半年も経たないうちにお互いの住所くらいは明らかになる。

 かすかに残っていた自分への期待も、信頼も、あの底冷えする駅前に捨ててきた。それを拾う気にもなれないまま、俺は成人するらしい。

 きっといつか篠さんのことも裏切る。そうなる前に、疎遠になっておかないと。


「なんか悩みごとあるなら相談乗るぞー。得意分野だから」

「もし明後日をきっかけに俺がアル中になったとして、篠さんからいくらふんだくれると思う?」

「一銭も渡さない。……で、その誤魔化しはなに?」


 俺が露骨なのか、篠さんが鋭いのか。きっとどっちもだろうなと思いつつ、続けた。


「年上の綺麗なお姉さんに甘える方法覚えたらどんどん堕落していくだろうし、自分なりの戒め」

「先生そういうの得意だよな。真偽の中間点ではぐらかすの。なんてーの? 正方形見て『あれはひし形です』って主張するみたいな。そりゃ対辺平行かつ四辺の長さが等しいから正方形はひし形の特徴も持ってるわけだけど、意図してそれをひし形って呼ぶのは欺瞞じゃん。結構やるよね、似たようなこと」

「嘘つかないだけ誠実って言ってもらいたいなあ」


 バレてたか、悪癖。発言内容の解釈幅を広げておくことで遡っての揚げ足取りを防ぎたいだけなのだが、察しのいい人相手だとそれ自体がトラブルの種になりかねない。――しかし俺は誰彼構わず同様に接してしまうので、時折衝突を生む。人付き合いが下手くそな一因なのは心得ていても、なかなか治せないから困っている。


「人間関係……それも女性トラブルと見た」

「誰にでもあてはまること言っちゃって」

「不思議なんだよな。女遊びするタイプには見えないのに」

「決め打ちかよ」


 バーナム効果を用いたチープな詐術。そう断定するのはやや早計か。少なくとも、篠さんの言葉からは迷いを感じない。


「だって女の匂いがしない割に妙に女慣れしてるじゃん。わたし、男から結構チヤホヤされて生きてきたんだけど」

「姉と妹が4人ずついます」

「嘘つくときはちゃんとバレるような脚色を施すあたりも、かなりいやらしいって思うよ。あわよくばここで『野球チーム作る気か』って突っ込ませて脱線させようとする魂胆も見える。実際は一人っ子だろ?」

「正解ですけど……。これもしかして取り調べ?」

「尋問。人生を一冊の本にするってなったら、先生の本はきっと分厚そうだから。プロローグだけでも読ませろやって要求」

「一般に言われる恋だとか愛だとかいうものは、性器どうしをこすり合わせたときの摩擦熱が生む勘違いっていうのが最近主流になってる俺の持論です」

「いきなり最大火力を放つな。いやだわ、親のセックスから始まる自伝」

「両親のことは尊敬してますけどね」


 生んでもらったことへの感謝と生まれてしまったことへの後悔は両立する。俺がその一例。とある人物に消えない傷をつけた日から俺の人生の価値は下がり続ける一方で、それに歯止めをかけるため、雀の涙にもならないような罪滅ぼしと償いを方々にバラまいている。

 篠さんとは、それがきっかけで知り合ったんだったか。


「あれ、そもそも童貞?」

「もらってくれます?」

「はい把握」


 どっちに取ったのかは知らないし、聞かない。ただ、これ以上この手の話を続けると今晩の宿泊場所が自宅でなくなる可能性が高まる。かわせる地雷は踏まない。見えている悪手は打たない。その程度のリスクヘッジは俺にもできた。


「――と、こうやってはぐらかすのね」

「やめましょ。外れたレールの方に戻っていくのは手間だ」

「まったくもってその通り」

 

 篠さんがさらに追加でビールを頼む。潰れても面倒見ませんよと釘をさすだけさしておくが、彼女はアルコールに滅法強い。顔が赤くなることも、ろれつが回らなくなることも、ふらつくこともない。酔えない酒を飲む価値が、まだ未成年の俺にはよくわからなかった。

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