第10話 月明かりに照らされて

「明後日9時。はい復唱」

「明後日9時。了解しました」


 居酒屋前で篠さんと別れ、帰路につく。本当なら買い出しをしておくはずだったが、満腹状態では身が入らない。程よい空腹が食材の買い出しを一段階上のステージに導くと信じてやまないので、それはまた明日以降に持ち越しだ。

 吹く風が温い。都会特有の空気の淀みに徐々に順応しつつある自分に驚きつつ、それでもたまに、地元の風景を思い出す。木々と田畑に埋め尽くされ、娯楽らしい娯楽はなく、最寄り駅までは車で20分以上の時間を要して、コンビニ一つできるだけでコミュニティが沸く時代の歩みから取り残された田舎町。

 あれこれ理由をつけて、去年は帰省しなかった。今年の夏も、帰る予定は入れていない。それでも時折寂しさと懐かしさに襲われて、18年過ごした日々を振り返りたくなる。これが俗にいうホームシックなのか。

 

「まあ、帰ったところで、な」


 地元は俺にとって居心地のいい場所ではない。より正確に言えば、俺がこの手で居心地の悪い場所に変えた。小中9年間を同じクラスで過ごした同級生の何人かと仲違いしたのだ。俺の行動がきっかけで崩壊したいくつかのコミュニティのうちの最初の一つで、規模感も最大のもの。情報の巡りが速い田舎だから、俺が帰ったら間違いなくそのことが同級生たちに伝わってしまう。それに尻込みして、帰るに帰れなくなっている。


 やめだ。この類の話を考え出したらキリがない。気を紛らわせるべく、篠さんに誘われた店の予習をすることにした。……新しめのバーらしい。バーという施設、業態に関してまるっきり無知なので、店の紹介ページに出てくる単語の理解についても怪しい。

 そもそもそこまで酒に興味がなかった。付き合いで参加した飲み会やコンパでは介抱の側に回ることが多かったし、その立場から見た酔っぱらいの情けなさにばかりスポットが当たってしまい、自分がそちらに回ることへのうっすらした忌避感さえある。だから日本酒だとかワインだとかカクテルだとかの区分まで思考は至らず、大雑把に『アルコール』として酒類全般を捉えている。酒に対する解像度を上げてしまったら、自分もうっかりハマりそうだったから。

 だが、篠さんのことだからご馳走してくれる酒はたぶんお高めのものになる。それを欠片ほどの知識もなくいただくのは忍びないので、最低限の情報収集はしておこう。


「ブドウ農家の写真からかよ……」


 手始めに調べてみたワインの成り立ちから長引きそうな匂いがぷんぷんして、仕方ないから気合を入れた。ここで引き返すのは情けない。斜め読みした記事から有用そうな情報に絞ってインプットを進めていく。こういう暗記は歩きながらの方が捗ると相場が決まっている。必要なのはライン管理。無知すぎてもいけないし、篠さんのうんちくに新鮮な反応ができないくらい知りすぎてもいけない。奢ってもらう以上は相手を立てるテクニックが要る。――――と。

 

「あわっ」

「おっとすいませ――」


 取捨選択に熱中しすぎて注意力が散漫になっていた。結果、曲がり角の向こうにいる歩行者に気が付かず、軽い衝突。双方よろける程度で済んだのは幸いだが、ぶつかった女性のバッグが地面に落ちてしまった。これは間違いなく俺の落ち度なので、迅速にしゃがんで拾い上げる。「ごめんなさい。怪我は?」手を伸ばす。寿命が近づいているのか街灯の光量が弱く、相手の顔は見えなかった。「だいじょぶです。私の方もぼーっと、して、て……」


 なぜか後半に行くにつれて途切れ途切れになる声を聴き、俺の頬が反射的に引きつった。全身の汗腺が一気に開く感覚のあとで、あちこちから冷たくて嫌な汗が噴き出してくる。

 

 いや、まさか、嘘だ。否定の語彙を脳みその片っ端から動員して、現実から目を逸らす。だって、そんなことはあり得ない。起こるはずがない。――しかし俺の浅ましい逃避をあざ笑うかのように、相手は決定的な一言を口にするのだった。


「…………ひなと?」


 雲間から差し込んだ月明かりが両者を照らす。目の前に、かつて慣れ親しんだ美貌がより洗練された状態で浮かび上がっていく。

 ああ、もう、意味が分からない。奇跡というには作為的で、偶然と呼ぶにはできすぎで。パンクしかけの脳みそでは、たかが三文字ひねり出すのが精いっぱい。


「…………叶歌」


 実に、一年と四か月ぶりの再会だった。


 乙幡叶歌が、俺の前に立っていた。

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